頭がいいと言えば許されると思う世間

そらの
·
公開:2023/11/16

私は小賢しいこどもだった。そして、考えることが好きなこどもだった。

研究職を選ぶくらいに科学が好きな兄に、宇宙の外はどうなっているの?と問うと、兄は宇宙にはブラックホールがあってその先は無限の世界が続いているんだと教えられた。けれど無限とは何か。終わりがないとはどういうことか。人間や生物も、分解していけば目に見えない細胞というものでできているのだろう。それなら人間が観測できないだけで、人間もその細胞みたいなもので宇宙はその外殻であり、その外殻もまた細胞でと繰り返されているのではないか。そんなことを問いかけ、兄は懇切丁寧に教えてくれたが幼い私は理解できなくて、教えることが好きな兄が匙を投げるくらいにはしょうもないことも考えるこどもだった。

私からすれば、考えないでいることの方が難しい。もう好きなのかもわからない、いっそ悪癖といえよう。そのくらい私は無駄なことを考え続けた。

例えば文字は象形、何かしらを象った形から生まれた。それは理解ができる。しかし例えば「愛」。この漢字の成り立ちはネットで調べればすぐに出てくる。だが何故、「あい」という読み方をするのかが不思議だ。多分中国由来なのだろうけれど、五十音順を口にすると初っ端に「あい」を口にすることになる。それが私は不思議でおもしろいと感じるのだ。

五十音順を覚えさせ、書く練習をしたなら、「あい」を最初に学ぶことになる。ロマンチックだなと思う。あいうえおではなく、おうあえい、とか母音となるあ行の順番が違ってもよかっただろうに。そう定めたことにより口馴染みがよいと感じるため、あいうえお、が正しく感じる。全て紐解けばきっと理由はあるのだ。あいうえお、にした意味も。愛をあいという発音に至った理由も。

けれど、その理由、必然があったとして、愛という感情を指す言葉が母音であり初っ端にくる。日本語っておもしろくて綺麗だなと思った。

例えばで、訥々と綴ったが、このように私はすぐ何かに興味を持つと考え続けてしまう。もう止まらないのだ。

だからこどもながらに、学校で何かを教わっても、何か頼まれて仕事をしても、何気ない友人との会話でも、土手を自転車で走っていてもいろんなことを考えた。

これをすればこうなる。こうなるとこうした方が、あの子は喜ぶかも。

そういう連想ゲームみたいになることもしばしばだ。物事はひとつで完結しない。完結しないから次々と考えることを辞められない。

――するとどうなるか。

その次々考えるが見事に世間の「使える奴」としての利用価値に合致してしまうと、頭のいい奴扱いになるのだ。

私としては連想ゲームが上手いこと合致しただけで、いつでもその期待に応えられる訳ではない。単純に気になり、考えるきっかけがあって、考えた答えが求めに答えられていただけで、定義された問題に対する回答を考えたわけではないのだ。この違いを理解して貰えないのだが、理解してくれない人は私を過大評価する。そして失敗すると落胆する。

「なんでできないの?できるくせに」

「力抜いてるでしょ。本気出してよ」

「出来ない振りとかやめてよ。そんなにやりたくないの?」

私としては理解できなかった。私は偶然その連想ゲームがハマって上手いこと連鎖しただけで、問題解決に尽力したわけではない。だから偶然という認識だ。だから考える糸口を見つけられないと、正しい方向でその連想ゲームは繰り広げられないからできるわけがない。でもそれを理解してくれなくて、必死に説明すると決まってこう言われる。

「あなたは頭がいいから何言っているのかわからない」

頭がいい。頭がいいってなんだろうか。

説明しようとした人の言葉を遮るようにして、みんなが決まってこう言うのだ。

そして畳み掛けるようにこうも言う。

「頭がいいんだからわかるでしょ。あとはよろしくね」

私ができなかったことでもそう言って物事を押し付ける。それをずっと繰り返されてきた。どんな環境でも、こどものころから。

私はきっととてつもなく生きることが下手なんだろう。

私としては息を吸うように物事を、世間的に価値があることから、ないことまでを考える。むしろないことの方が比率が高い。それでも価値がある方が世間と合致してしまうことがある。それを見せなければいいのに、これができたらみんな喜ぶかな、とか、あの人が楽になるよな、とか思うとつい口にして行動してしまうのだ。何も考えずに。そして世間はまたこう言う。「頭のいい奴」と。

優しいと言われる人は、利用価値があるということだという文脈を見る。それは的を射た表現だと思う。

けれど「頭がいい」も同じだろう。

頭がいいから、私は理解できない。

頭がいいから、それができて当然。

頭がいいから、できない人のためにやるべきだ。

そう世間は「頭がいい」を褒め言葉として使うフリをして「頭がいい」人を利用する。

先の言葉とて言い換えればこういう事だ。

私は頭が悪いから、こいつの言葉など理解しなくていい。

私は頭が悪いから、それができなくていい。

私は頭が悪いから、できる人がやって当然だ。

――そんなわけないだろう。

同じ言語を扱い同じコミュニティに生きて同じことをやろうとするのなら、互いに助け合うことが当然だ。得意不得意から割り振りを変えたとしても、理解しなくていいわけがないのだ。

できないと、理解を諦め押し付けることは違う。

「頭がいい」と言って、「特別」のレッテル貼り付ければ、自分の期待に答えなかったからと落胆していい理由にはならないのだ。何故できないかを説明しようとした人の言葉を、言い訳として跳ね除けて一緒に考えることを放棄していい理由にならないのだ。

私の場合、「頭がいい」というレッテルで苦しめれてきた。

けれど、世界は他にもいろんなレッテルがある。

身近なものなら出身や血液型。人種や血筋。境遇。いろいろあるし、全人類話せばわかるとかそんなこと思ってはいない。確実に特別というものは存在する。

それを前提としても、相手を上げて自らを落とす振りをして、他人を利用していい理由にはならない。落胆していい理由にはならない。それだけは確かだ。

レッテルを貼るなら、その対義語に自分を置いてはならない。それだけは確かだと、私は思う。