今年の大晦日は除夜の鐘をついてみたいなと思い、グーグルマップで「除夜の鐘」と調べる。
年越しそばを食べてテレビをなんとなく観ながら時間をつぶし、22時半過ぎに検索で出てきた近所の寺へ家族とともに歩き始める。除夜の鐘について無知すぎるゆえ、「年越しのタイミングは混みそうだし、早めに行ってサッと鐘だけついて帰ってこよう」という判断だった。
到着すると、いわゆる「ゆく年くる年」で中継されているような賑わいはなく、お寺とその隣の神社の敷地内で関係者とみられる法被を着たおじさん達が静かに点々と焚火を囲んでいる。自分たちのほかに参拝客のような人はおらず、どちらかというと祭りの後のような風景。神社の境内には「素人演芸大会」と書かれた空のステージがあった。
お寺にそれらしき鐘はあるものの、テレビで見るような行列は出来ておらず、ご自由についてよさそうな気配でもない。
ひとまず神社とお寺それぞれに参拝し消化不良のまま家へ引き返す。
もう少し街の中心部にあるお寺なら、賑やかに「ザ・除夜の鐘」をやっているのではないか、と思い、自転車に乗って街のほうへ繰り出してみることにした。
繁華街にはお酒を片手に外で年越しをしている若者たちがちらほらといて、毎年秋祭りなどを盛大にやっている大きな神社の境内には、屋台もいくつか出ていた。
境内の奥に列ができていたのでとりあえず並んでみたものの、どうやらこれは0時ちょうどからお参りをするために並んでいる人たちの列らしい。そんな最速初詣のためにつくられる行列があるのか(信心深すぎる)、と驚いていると、どこからか鐘の音が聴こえてきた。そうか、除夜の鐘は隣のお寺のほうか。
鐘の音を辿りお寺に向かうと、先ほどの神社の参拝列よりはるかに長い行列がすでに連なっていた。
これぞまさしく除夜の鐘の風景!と感心しつつ、並んでいる人の数と鐘がつかれていくペースからみて1時間以上はかかりそう。このとき既に23:40頃。イベント気分を味わいたいが行列には並びたくない天邪鬼なので、ふたたびお寺の本堂にお参りだけして帰路に着いた。
そんなこんなで自宅の方面に向かって自転車を漕いでいるあいだに気づいたら年を跨いでいた。0時ちょうどあたりのタイミングで、どこからか花火が上がったような音が聴こえてきたような気がする。
しかしながらこのまま志半ばに年の変わり目を過ごすのはなんだか気持ちわるいと思い、ふたたび自宅近くのお寺へ行ってみることに。すると1時間ちょっと前とはうって変わって、境内は人で賑わい、神社ではこちらでも最速初詣の列がつらなり、「素人演芸大会」のステージではお囃子が催されていた(てっきり地元有志による漫才でもやるのかと思った)。除夜の鐘というイベントは年越しのギリギリから始まるものらしいと気づく。
除夜の鐘のほうにも列ができていて、先ほどは閉ざされていた鐘の櫓が開かれ、順々に上へ登り鐘をついていっている。
街なかのお寺よりは人数も少ないしペースも速い。ここまで行ったり来たりの道中を思うと、もうつくしかない。列の最後尾に加わる。
列に並ぶと干支の辰の絵が描かれたお札をもらった。つき終わったあとに鐘のふもとのテントで甘酒と引き換えてくれるそう。
除夜の鐘の櫓には、ひとりで来ている人もいれば家族づれの人、友達グループの学生たち、ペットの犬を抱きながら鐘をつく人も居た。みんなきっとこの近隣に住んでいるんだろうと思うと、繁華街のお寺にはない親近感を感じる。
人々はおっかなびっくり、だけれど結構な威勢のよさで鐘をついていっていた。ゴーンという鐘の音と、つき終えた人の「おお〜」という小さく興奮する空気が巡っていく。
順番を待ちながら、鐘をつく瞬間には世界平和とか家族の健康とか仕事うまくいきますようにとか、そんなことを願いながらつこう、など色々考えていたのだけど、自分の番が訪れ、いざ大きな鐘と鐘をつく棒(鐘木と呼ぶらしい)に対峙すると、ほのかな緊張感でそれらの願いごとは消し飛ばされ、ただ無心にゴーンとついて自分も漏れなく「おお〜」となっていた。
煩悩をかき消すというのは、鐘をつく瞬間の無心さのことなのかもしれない。ナチュラルに精神統一させられる感じ。
甘酒をもらって今度こそほんとうの帰路についた。