わたしは、おしゃべりが苦手だ。
いやおしゃべりは好きなのである。よくしゃべると思う。しゃべりすぎて引かれるくらいしゃべる。ただし問題点は、会話のラリーが苦手だったり、会話に入るタイミングをはかるのが苦手なのだ、大縄跳びでいつ縄の中に入っていいのかわからなくてもたもたしてしまうのと、運良く入れたとてジャンプのタイミングを間違えて足を引っ掛けて止めてしまう、あれによく似ている。
先日、話したい人たちと話す機会があった。とても楽しみで楽しみで、朝からずっとそわそわするくらいだった。遠足前日の小学生である。
オンラインだったのでいざPC前に座り、ネットに繋ぎ、挨拶から始まって流れるように他の人達が話すのを聞きながら、わたしは自分の気持ちが少しずつ少しずつ、しぼんでいくのを感じていた。
誤解を生みたくないので書くけど、そこにいた人たちも、その場自体も、その場での会話も、ぜんぶ楽しかったのだ。憧れの素敵な人たちが話すことのひとつひとつがきらきらして興味深くて、終わったあともまだ話したいと思ったほどだった。
でもその一方で、過去の言葉がわたしを縛り付けていくのも感じていた。
「ずぼらさんがいると、場が盛り下がるわ~~~」
ずいぶん前に、働いていた職場の年下の人の発言だ。
忘れもしないお昼休みのこと。上記の発言をした年下の子が暇を持て余してるというので、みんなで集まって腹ごなしに卓球をしよう、と相成った。わたしは運動そのものはどんなことでも苦手だし、卓球などラリーが続くはずもないのはわかりきっていたので、誘われたけれど断った。それでも「気晴らしになるかもしれないからおいでよ」と、そう言ってくれたのは信頼する先輩で、じゃあそれなら、と付き合ったのが失敗だった。
他の組み合わせの人たちが楽しげに卓球のラリーを続け、あるいは続かなくてもわいわいと盛り上がる中、わたしの出番となった。相手になってくれたのは普段からよく話をしていた後輩ちゃんで、この子がまた運動神経が抜群に良かった。一方のわたしは運動音痴の権化なのだから、結果はご想像の通り、ラリーが全く続かないのである。一刻一刻と場が白けていくのが目に見えてわかる。せめて会話だけでも、と、それなりに盛り上げようとしてみたものの、焦れば焦るほど場はしらけ、空回りしてしまう。
卓球のピンポン玉の音だけが響く中、ある年下の子が大きなため息とともに言い放った。
「ずぼらさんがいると、場が盛り下がるわ~~~」
それも、彼女はわたしに向かって、わたしに対して言ったのではない。誰もいない壁に向かって、わたしに背を向けて、彼女はそれを言ったのだ。あくまで独り言として、だけど誰もが聞こえる声量で。
誰もそんなこと言っちゃダメよ、とも言わなかったのだから、実際そうだったんだろうし、自分でも事実だからそう言われたんだな、ということは理解している。ただ事実を事実として言われたとて、傷ついたことに変わりはない。
しかしこの発言をきっかけに、人としゃべることに恐怖を感じるようになった。特に大勢がいる場では。1対1なら、まだいくらか大丈夫だと思える。けれど3人以上になるともうダメである。
先日もそうだった。どこで、何がきっかけで、その言葉が浮上したのだかわからない。ただ、ただ何の拍子か思い出してしまった。思い出したから、竦んでしまった。楽しさと恐怖とが途中からごちゃ混ぜになって、いったいどれが本当の自分の気持ちなのかわからなくなった。
自分がなぜ場を盛り下げていると感じるのか、メモ書きをしてみた。それはだいたい会話のラリーが続いていないときだ。だけど、会話のラリーは続けられればいいというものでもないはず。もちろん続くに越したことはないし、会話を広げていくことはできる。とすれば、わたしは傾聴が苦手なのだ。だから会話を広げるのが不得手なのだ。
傾聴するとか、会話を広げることが不得手なのは、相手を見ていないことだ。相手が何を話したくて、どんなことに興味を持っているか、自分が興味を示していないで、自分が話したいことをどのタイミングで話すか、自分の引き出しを披露してどう褒めてもらうか、そのことしか考えていないからだ。要するに自己中心的なのだ。それに加えて、妙な遠慮がある。プライベートに踏み込んでしまわないか、こんなことを聞いて大丈夫なのか。でもそういう気持ちもまた、嫌われたくないという自己中心的な思い上がりだ。
メモ書きをしてみて、あのときの彼女が言ったことは相変わらず許せない。なんなら「毎朝、机の角に足の小指ぶつけて10分くらい悶絶してくれますように」という呪いくらいはかけておくのを許されたいくらいである。
ただ、おかげさまで自分の課題には気づくことができた。まだ気付いただけでどうにもしてないけれど、とりあえずあの過去からは一歩進むことが、ようやくできたのだと思う。
先日、話をしてくれた方々には申し訳ないけれども、もう少しだけわたしのおしゃべり特訓に付き合って欲しい。甘えだけれど、もうちょっと自分がこの傷をしゃぶる必要がなくなるまで、甘えさせて欲しい。わたしはみんなの話を聞きたいのだ、聞けるような自分になりたいのだ。
しゃべることが苦手だからしゃべることを避けてきたけれど、もう少し人としゃべる機会を増やしてみようと思う。もっとも、慣れてきたら「お前どんだけおしゃべりやねん」と閉口されるのも、目に見えてはいるのだけれど。