3月21日

zubora
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今日は眠れない日でした。

4時頃に目が覚め、水を飲み、再びいつも起きる5時半頃まで寝ようと思ったのですが、全く睡魔が来ず……。ならば起きてあとで1時間ほど仮眠をとればいいか、と思って思い切って起きました。眠れていないことは不安でもあるけれど、誰も起きていない、しずかな朝のこの時間はやっぱりいいな、と思います。誰にも邪魔されることなく、聞こえるのはエアコンのモータ音と加湿器の水音だけ。まだ鳥も起きてないんだろうな……笑 まもなく6時なので、そろそろ鳥のさえずりも聞こえてくる頃だとは思います。

去年、眠れないことをいいことに朝活を楽しんでいた時期がありました。それはそれでとても楽しかったし体もついてきていたけれど、がんばりすぎが少しずつ溜まっていっていたのか、起きられない、起きるのがつらい、ということが少しずつ増え始め、起きて楽しみたいのに起きられない自分が怠けている・だらけている自分みたいで嫌で嫌で、無理して起きるから一日がつらいし、つらいからまたうまく眠れなくて起きられない、という負のループに陥ったことを思い出しました。

あのとき、どうしていたらよかったんだろう、という答えはまだ持っていません。一日二日くらいのんべんだらりとしていればよかったのかもしれないし、一日二日と言わず気力体力が戻るまでのべんとしてるくらいでもよかったのかもしれない。あるいは、朝散歩や日中の散歩、筋トレなどの運動量が増え始めた頃でもあったので、その辺りを減らせばよかったのかもしれない。

何度もここで言っていますが「いい習慣」ほど、やれてしまったときに手放しにくい、というのは痛感します。運動、読書、自分と向き合うワーク類……習慣化できることは決して悪いことではないしむしろ習慣づけたほうがいいことばかりですが、一方でやれてしまったときに明日はもっとここまで、と過剰に求めてしまう傾向があるのは、もはやできるはずがないところまでできるかのように思ってしまう「自己の過大評価」でしかないよな、と書きながら気づいてしまって今すぐ穴に入りたい、いや眠いから布団の中でもこたつの中でもいい、あ、ほら鳥の声がし出した(現在6:00ジャスト)(現実逃避)

自己評価、自尊心、自己肯定感、自己受容感、自己有用感、いろんなものがあるけれど、自分がラクに生きるための「肯定」はしないくせに、自分が厳しく生きるための「肯定」、例えばここまでできるはずという過大評価、プライドの高さ……そういったものはきちんと持っているのですよね。そりゃ生きづらいし、もはや肯定というより高体(コウテイ:お高く止まった図体のこと、たぶんわたしの造語)でしかない。

こんまりメソッドではないけれど、手放したところにあたらしい風が入る、というのなら、たぶんまず自分のプライドや過大評価から手放していくことが、今の自分に必要なこと、なのかもしれないです。

@zubora
『生きる is 何』を永遠の問いに、うつとともに生きています。自分のことは自分が一番わかっていないことに絶対的自信がある。Everyday&Always、沼人(ぬまんちゅ)。