3月17日

zubora
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イベントがあったので、1年ぶりにお街に出てきました。去年も行ったイベント。好きなものを眺めていられるってもうそれだけで幸せすぎる。

今回もいくつかお目当てがあったし、それこそ去年買い逃して悔しい思いをしたものもあったのでリベンジマッチでしたが、それらは無事にゲット。実は行くかどうか悩んでいる間に、一番行きたかった時間帯のチケットが完売してしまっていて、半ばヤケクソで次に早い時間帯を選んだのですが、正解だったかも。予算も思いの外抑えられたので自分の物欲にご褒美(スイーツ)を…と思ったら結局スイーツ代で予算通りになってしまったのでまあ人生ってそういうふうにできてるよね。

今回のイベントや久しぶりのお街旅で、ちょっと反省したことがあるんですよね。それは「人から声を全くかけられなかった」ということ。

ブースごとに出店しているお店を回ったのですが、その出店者さんがことごとくわたし以外のお客さんに声をかけているのです。中には、順番を待ってわたしが陳列台の前に来ると、それまでカウンタ前でお客さんと会話していた店員さんがすっとカウンタの後ろに下がる、なんてことが二度三度じゃなかったし、まれに店員さんが話しかけてくれても、一言声をかけたらすぐに他のお客さんの方へ、なんてことも。質問しようとしてもスルーされたり。帰りの電車の中で何が悪かったんだろう、とぐるぐる考えました。

服装がダサかった?まあファッションには余り興味がないけど、シミがついてたりしわしわの服だったり毛玉がついてたりはなかったし、口臭も会場入り前に口をゆすいだりタブレットを舐めたりして気を使ったし、あとは何だ、と考えていてはたと気づいたのです。

わたし、楽しそうじゃなかったかも!!

いや楽しかったんです、楽しかったのよ実際。普段見ることのない好きなものが所狭しと置いてあって、手に取るだけでワクワクしたししあわせだったんですよ。それは間違いない。

でも、たぶんだけど、心のどこかで「予算大丈夫かな」「帰りの時間間に合うかな」とか思っていたし、なにより、ここずっと「自分の気持ちや時間にゆとりがないのが当たり前」だったせいで、いつも歯を食いしばっていかり肩でずんずん歩く、みたいな、なんかこう、

「向かってくるもの全部跳ね飛ばす💪」

みたいなオーラがあったかもしれない、と思ったんですよ……非常によろしくない。そりゃ話しかけたくないし関わりたくないわな。

今の自分に本当に必要なものって柔軟性だよな、と思ってはいました。心も体もがっちがちに固まっていて、ほぐれてないなーってわかっていても、鍛えることを緩めなかった。今やったほうがいいことは、緩めるさえすっ飛ばして「だらける」ことだというのもわかっています。

「明日一日、何のタスクも一切やらないでください。とにかく一日部屋でだらだら過ごして、何の心配もしなくていいので好き勝手してください」

って言われたら、絶対だらだらできない自信がある。だらだらすることがたぶん、しんどい。だらだらの仕方がもうわからないっていうくらいだからかなり危険な状態だなと自分でも思っています。そのくらい力を抜いていたほうがいろんなことが楽に行くのも確かなんですけどね……。

去年、散歩で外を歩いていると、よく小中高生からおじさまおばさまと幅広い年代の方から挨拶をしてもらっていたのを思い出します。あの頃、わたしは散歩をすることが楽しくて仕方なかった。空気や空の色や花や景色、子どもたちの声や鳥の声や、そこにあるものを全力で楽しんでいた、だからきっと挨拶をしてくれていたのだと思います。声がかけやすかったんですね、きっと。翻って今は、タスクのために歩いているような気がします。習慣を途絶えさせないように、とか太らないように、とか。いやでもほんとにねえ、つかなくていいところに肉がつくようになったのですよ。解せぬ。頼むからそこじゃないところについて欲しい。

で、今日も今日とてたっぷりしみしみタスクにまみれているのでもうおしまいですが、せめて今日の散歩は歩数を気にせず、歩きたいところを歩きたいように歩く、そのぐらいの緩さからやってみようと思います。

@zubora
『生きる is 何』を永遠の問いに、うつとともに生きています。自分のことは自分が一番わかっていないことに絶対的自信がある。Everyday&Always、沼人(ぬまんちゅ)。