5月12日

zubora
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最近、少しずつnote嫌いを克服するべく、つぶやきだけでもと投稿をしているのでこちらが疎かになってる。

のと、もうひとつは書くことが思い浮かばない。

思い浮かばないわけではないんだけど、思い浮かんだものを形にする余裕がない、に近いんだろうか。思い浮かんだものの思い浮かべたまま時間の波に流してしまって、あとになって「ああ、あれなんだっけ……」となってしまう、セルフボトルメールみたいな。沖に出るのは何も老人だけではないし、沖に出たとて帰ってこなければ意味がないのだ、老人だって獲物こそ鮫に食われたけれども本人が戻ってきたからこそ話になるのだ(唐突の『老人と海』参照)。

ここずっと、自分の土台だとか、棚卸しとか、そういうことがテーマになっているような気がする。自分がどんなことを大切にしているのか、どんなことが好きでどんなことが苦手なのか。自分の根っことなるものはどんなことで、それは『今』そう思うことでいいと思うのだけど(変わっていいという意味で)、なんというか「あたし何が好きなんだっけ……」っていうのが暗中でもあり霧中でもあり。

手帳好きでしょ、ってまあ好きなんだけれども、じゃあそれに夢中になれるかっていったらいざ対峙すると尻込みするときがある。わたしはこれを本当に楽しめているのか、という自分への疑念が勝ってしまう。

自分を信じることができていない、というのもある。自分を信じるのは別に傲慢なことじゃないのにね。自分を適切に見ているかどうか、という意味では、自分の棚卸しとも近いのかもしれない。自分がどういうとき、どう思うのかを理解しているかどうか、という点で。

わたしはわたしと向き合ってるふりをするのがうまいだけなのだと思う。本当に向き合っていればこうも悩むものだろうか?って思うもの。

向き合うふりをしたら褒めてくれるから、そうしているだけなんだと思う。そういうのばっかりうまくなっちゃって、本当の自分がどんなだか、見るのが怖くなっちゃったんだと思う。

自分を見るのって、本来怖いものなのかな、それとも怖いものだと思い込んでるだけなのかな。

わたしの中のわたしさんよ、あなたからわたしはどう見えていますか、滑稽なピエロかもしれないし異形の化け物かもしれないし、でもあなたがわたしで、わたしはあなただ。あなたから見ればわたしは沖かもしれないけれど、わたしから見ればあなたは岸だ。

沖に出ても、ちゃんと帰る場所はここにあるんだ。怖くない、大丈夫。

@zubora
『生きる is 何』を永遠の問いに、うつとともに生きています。自分のことは自分が一番わかっていないことに絶対的自信がある。Everyday&Always、沼人(ぬまんちゅ)。