3月22日

zubora
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朝、ジャッジすることについて考えていました。

正しい、間違っている、いい、悪い。

判断することで人は生きていくし、判断することが選択でもあるし。判断ができないことは自分の生死を分かつことだけれど、果たして今現在において「判断する・ジャッジする」ということが、本当にいいことなのかな、というようなお題だったのかな。

わたしは人も物事も「ジャッジ」するタイプだし、白か黒かかわからないことがすごく気持ち悪い。でもジャッジしなければ、これはこういうことだ、と決めなければ、人も物事もチェス盤のどこにいるのかがわからないことがすごく不安に思ってしまう。そして自分さえも、どこにいるのかわからなくなってしまう怖さがある。何かをジャッジして「これはこの位置にある」と確認することでしか、相対的に自分の立ち位置が定められないのです。

あるいは、自分が覆されたり否定されたり嫌われたり、他人から「判断」されることが怖いから先にジャッジしてしまう。自分からジャッジしたことであれば、自分の反応に対して「あなたはそうなのね」と言うことができる。この場合の「あなたはそうなのね」は、相手や物事をそのまま受け止める意味ではなく、「わたしの判断に対してあなたはそういう態度だったから、それはあなたの責任ですよね」という責任転嫁にほかならないわけで……と、こう書いてみるとわたしスゲエ嫌な奴だな!笑

でも事実、今の自分ってそうなんですよね。

そもそも、認められたさを埋められない。認められたい、というのは地位や実力において格別に認知されたいということではなくて、わたしが前述の通りのクソ野郎だろうがぽんこつだろうが人間のクズだろうが、どんな存在であっても生きていていい、ここにいていいと言ってもらいたい欲のこと。わたしがここにいていいのかどうかわからない、「わたし」というものの土台が何なのかわからないから、「わたし」の存在を確認するために、立ち位置を見つけるために、相手から相対的に自分がどこにいるのか見てしまう。そしてその基準となる相手がどこにいるかを決めるためにジャッジしている、そんな気がしています。

もし自分が自分のままでいていいんだ、自分の立ち位置ってここでいいんだ、とわかれば、相手がどこにいようが何を選ぼうが、素直なそのままの意味で「あなたはそうなんですね」と言えるんじゃないかな。

そういえばラジオ(あれ?あれもPodcast?)『となりの雑談』の第一回で、サクちゃんさんが自分の心の声を「インナーサンボマスター(うるせ~~~!!!)」って喩えてらした気がするけど(うろ覚えが過ぎる)、自分の心の声くらいインナーサンボマスターでありたかったなー。

今の自分の心の声?……そうですね、電車通過中のスマホの着信音くらいでしょうかね。ノイズがサンボマスターだよ!!!!

@zubora
『生きる is 何』を永遠の問いに、うつとともに生きています。自分のことは自分が一番わかっていないことに絶対的自信がある。Everyday&Always、沼人(ぬまんちゅ)。