今朝、突然に花粉症が悪化しました。起きぬけからなんとなくずるずるするなあとは思っていたのですが、目が覚めて動き出すにつれて、止まらないくしゃみと鼻水、鼻水をすするから肩も上がって痛くなり肩に力が入るから頭痛が……と悪循環。花粉症の薬は処方されているのであるのですが、どうしても眠くなっちゃうのであまり飲みたくない……。背に腹は代えられないのでもう少し様子を見て、だめそうだったら無理せずに飲もうと思います。
今年はかなり早い時期から花粉症仲間の発症を見てきた中、わたしは平気の平左だったので「今年は軽いかも、ラッキー!」と思っていたのですが、油断したところを突く作戦だったようです。おのれスギ花粉、おのれヒノキ花粉、といいたいところですが彼(彼女)らも生きるための術なのでもう少しうまく共存できたらいいんですけどね……でもスギ山に囲まれた地帯なので、地元を出た友人(花粉症持ち)には「よくまあそんな地獄で生きていられるよね……」と呆れられています。ある意味ではタフ。
今年は閏年なので、と思ったのですが特別何が思い浮かぶわけではないのが哀しいところです。むしろ29日?毎年あったのでは??という感覚さえあって、学生時代には祖父母の言う時間の感覚がわからないとか今日が何曜日だかわからないっていうあの感覚が、スーさんの言葉を借りると「んなわけない!笑」だったんですが、今はわかる。本当に時間の感覚がわからないし、曜日がわからない。
もちろん老化という現象がなきにしもあらずだし否定はしません。でも時間の感覚がわからなくなったり曜日がわからないって、大人になるにつれて処理できることがどんどん増えていって、それ自体は器用になったとかスキルが上がったという見方ができる一方で、処理できることが増える(スキルがあがるもだし、任されることが増えるもそう)ことでやることが増えてるんじゃないかと思うんですよね。そして処理できることが増えてやることも増えた結果、時間や曜日や、そういう流れを「意識できる」時間が減っているからなのかな、と。だってゴミ出しの確認をするときくらいしか「今日何曜日だっけ」って考えることってなくないですか……??もちろん仕事やスケジュールのチェックもありますが、そこは手帳やスマホを見たりして、ソラで「何曜日かな~」って考えない気がするんですよね……。
こどもの頃って、やることもできることも少なかった。できなかったもあるだろうし、あの頃はあの頃でやることが多かったよ!と思ってもいるけれど、「水曜の給食のカレーが早く食べたいけどまだ月曜じゃん!」みたいなことって、あれは時間の流れに対してすごく余裕があったんだな、自由だったんだなって思っちゃうんです。そして、曜日の区切りってつまり、一日の区切り、なんですよね。一日一日を、ちゃんと生きてたんだな、って。
おとなになっていろんなことができるようになって、徹夜とか昼夜逆転とか、朝も夜も地続きなのがわかって、いつの間にか一日の区切りがなくなっていって、そうやってどこかで時間を見失ったんだろうな……。
そう思うと、こどもの頃のほうが、人生を楽に生きてたなーって。
歳を取ってからガーデニングが趣味ですとか、俳句が趣味ですっていう人が多いのって、季節を感じることで区切られた時間の中をもう一度自由に生きて、こどもだった頃の「時間の区切り」を取り戻したいからなのかな、「まだ火曜日だけどニチアサ観たいから早く日曜になれ!」って思うあの感覚を取り戻そうとしているのかな、そのほうがずっとずっと人生が楽でたのしいって、本能的に知っているから戻りたくなっちゃうのかな、とそんなことを考えたりするのでした。