2月22日

zubora
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今日は忍者の日だそう。

にゃんにゃんにゃんで猫の日、とか。

「今日は何の日?」というのは日々いろいろあるようなので、今日は何の日かな?って意識を向けるのもたのしそう。ずっと二十四節気を覚えて、季節を味わって暮らしたいと思ってはいるのですが、なかなか覚えられない……でも受験勉強のように、暗記して覚えようとするから覚えられないんですよね。

二十四節気を覚えることで何がしたいのかなって考えると、その季節に沿った行いや生活(食べ物でもいいし飾りつけや行動とか)を「なぜ、そういうことをやるといい日なのか」を味わいたいのだと思います。

もうひとつは、二十四節気の「イベント」化。これは賛否両論あると思いますが、バレンタインもクリスマスも、もともと日本にはなかった季節のイベント。商戦のために生まれたものという向きもありますが、それでも時期が来ればたのしいし、わくわくするのもまた事実。踊らされてるなら、あえて踊ったほうがたのしいじゃないか、という妙なところが楽観主義なわたしですが、要するに楽しいならいっか、と思うのです。

そう考えると、二十四節気も「季節のイベント」としてたのしめるようになれば、なんでもない日も少しとくべつになりそうだな、というのが、わたしが二十四節気を覚えたい理由になりそう。

結局、まいにちなにかしらある「〇〇の日」というのも、なんでもない日に特別感を持たせたいからなのかもしれません。

一方で、なんでもない日だからこそ、大切にしたい気持ちもあって…

もとは不思議の国のアリスが出典だと聞いていますが(うろ覚えで書かない!)、糸井重里さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』さん経由で知った言葉に、「なんでもない日、おめでとう」という言葉があります。

なんでもない日だから、どうでもいいわけじゃない。

なんでもない日だから、特別に過ごしたっていい。なんでもない日だから、なんでもなく過ごすより、楽しんで過ごしたほうがきっとたのしい。

なんでもない日って、なんにもない日ではないんですよね。

毎日、二十四節気というわけでもありません。季節だってグラデーションのように移り変わっていくし、その流れのなかをわたしは過ごしていく。その一日一日の積み重ねが折り重なって「今」になっているし、これからもきっとそうであるはず。人生や日々をミルフィーユに例えたりもしますが、確かに毎日こってり濃厚なクリームだらけでは、胃もたれがしてしまうかも……。そう思うと、むしろ特別な日だらけにせず、なんでもない日のすこし美味しいクリームを積み重ねていく、くらいがちょうどいいのかもしれません。

よくばったりせずに、今日という一日が自分の人生のミルフィーユの「すこし美味しいクリーム」になるくらいの気持ちで過ごすことができれば、本当はそれでいいのかな、とも思います。

@zubora
『生きる is 何』を永遠の問いに、うつとともに生きています。自分のことは自分が一番わかっていないことに絶対的自信がある。Everyday&Always、沼人(ぬまんちゅ)。