昔、札束でいっぱいのバスタブで女をはべらせている男の広告とかが雑誌かなんかに載ってたけど、子どもの頃の私は「これだけのお金を手にしたとて、これはやらんだろ笑」と思っていた。
雑誌での広告が減った代わりに、SNSやネット上で札束の写真を見かけるようになったけど、そういう露骨な表現に惹かれる層がリアルにいるってことにまずビックリした。あれってギャグじゃなかったんだ?みたいな。
それで札束の間が白紙だったとしたらなんかもう、、そこまでしてあなたを追い立てているものは一体何なのか?どんなイメージを打ち出そうとしているのか?自分が打ち出したいイメージと周りが受け取っているイメージの差異に気付いているのかいないのか?とか、そういうことが気になってしまう。
そこで私が感じるしんどさは「ありのままの自分とのズレがしんどかろう」といったものだけど、「ありのままの自分を受容できると楽」という認知だって私の中の常識に基づいて生まれたものだ。ズレた状態だってその時のその人自身に取ってはありのままなのかもしれないし。
私のその視点からみたら白紙札束マンは不幸に映るけど、白紙札束マンから見たら私の方こそ不幸に見えるんだろうし、人間って本当にそれぞれの認識世界を生きているんだなあと実感する。
これが全くの他人や、ちょっと親しい友人くらいの距離感の人であれば「それがあなたの人生なんだね」で見守れるけど、たとえばあなたがその方向に舵を切った時に、「その進路はダメだ」と介入してしまうかもしれないのが難しいなと思う。
その介入が結果的にあなたを救うこともあるかもしれないけど、あなたの選んだ道は不幸だと決めつけるのは、支配でもあるし、あなたを信頼していないということでもあるから。
子どもを育てていると、そういう葛藤をよく体験する。行く先に障害物が見えたら取り除いてあげたくなるし、そんなの持ってても無駄だよとか、そのやり方だと失敗するよとか、言いたくなる。言ってしまうこともある。
でもそういう介入の仕方には後ろめたさを感じる。「私の関与と見守りの中、食材自身がそう成った」と前川さんは表現していたけど、適切な関与と見守りの力加減って本当に難しいし、こればっかりは手探りでやるしかない。
手探り状態の中、知識や情報を得ることは、真っ暗な道のりを照らす安心にも繋がるんだけど、その知識や情報の型に囚われることで不安を生み出しもする。そこで安心を得ようとすると躓く。
あなたの行く先がどんなものであれ、すべて祝福されていると信じること。親である私が一番にそれを信頼すること。そこに安心を見出すこと。自分自身にもそう思えること。子育てを通して、それらを学ばされているのかなとよく思います。
愛は信念の行為。
愛は技術。