離れてからもうすぐ1ヶ月
子ども達の卒業と入学の手続きに追われて感傷に浸る間もなかったため、今更ながらじわじわと、一緒にいられない現実を噛み締めている。
一緒に観たかった映画、食べたかったお菓子、語り合いたいアレコレ…
一緒にいられない状態がデフォルトになってしまった今「一緒に体験したかったけど、仕方ないもんね」とスルーしがちなんだけど「一緒に体験したかった」気持ちを無視するのはよろしくない。
「仕方ないもんね」で蓋をすることに慣れ過ぎるのはよろしくない。
蓋をしないと悲しみに囚われて先に進めなくなってしまうから、今まではそう対処するしかなかった。でも、ほんとはもう蓋開けっぱなしでも大丈夫なのかもしれない。
「一緒に体験したかった」の中身が悲しみだけじゃないのを知ってる。
映画を観るのも、美味しいものを食べるのも、きれいな景色を見るのも、なんでも、ひとりの方が楽しめた私が、一緒に体験したいと願うほどの存在に出会えた。悲しみに身を浸すとき、その悦びに触れることができる。
あの映画観たらきっと、こんな反応するだろうな。このお菓子美味しい!いつか食べさせてあげたい。今同じ月を見ているだろうか。そう想うとき、あなたはそこにいる。
悲しみや怖れは放置しても残り続ける(というか、醸成される)けど、しあわせは、その時その瞬間にしか味わえない。新しく生じては消えていくそれを、自分だけのものにすることもできないし、保存しておくこともできない。自分だけのものにしよう。なくならないように保存しよう。そう試みた途端、しあわせは執着に変わる。
だけど、だいすきな人と一緒にいられない今この瞬間にも、しあわせを感じ取ることはできる。本当はいつも、そこにある。