感情は期待値との差分

zy
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例えば仕事をしていて、ムカつく相手と遭遇すると怒りたくなる。上司に褒められると嬉しく感じる。

怒られれば自分は仕事ができないのだと思って哀しくなるし、自分の趣味が仕事になれば楽しいと感じる人もいるだろう。

このように私達には喜怒哀楽という感情がある。

たびたび思いに耽るが、喜怒哀楽のような感情を生じさせるのは期待値との差分であると考えることがある。

例えば、先ほどの例の怒りという感情は言い換えれば「自分が相手に期待していた結果と異なる結果だった」ということである。それは「言われると思っていなかった酷い言葉を使ってきた」ということかもしれないし「自分が伝えたことに反発してきたこと」かもしれない。

いずれにしても、自分の想定の範囲外の出来事が起こり、怒りという感情が湧き出ているのである。それは期待値と何かしら差分がある状態である。話は逸れるが、アンガーマネジメントという言葉が近年では話題なのでぜひ調べてほしい。

話を戻そう。喜怒哀楽を繰り返すと、やはり自分自身が疲弊するのである。そして周りからは「あの人は感情的だ」というレッテルまで貼られてしまう。何よりも、自分が相手にどうしてほしいか、どういう期待値を持っているのか伝えることが困難になってしまう。

ゆえに、感情をコントロールすることは重要だと考えて "いた"。

だが、ここ最近は一周回って感情をあらわにすることも重要だと考え始めた。

私達マネージャーは期待値をメンバーに伝えたとき、相手の反応、それこそ喜怒哀楽を汲み取り期待値が伝わったかを言葉以外でも確認をする。

メンバーもそうだ。メンバーもマネージャーに対して何かしらの期待値を持っている。マネージャーの感情を伺い、自分の行動を決めることが多々ある。

そんなときに感情をあらわにしていないとどうだろうか。メンバーとしては、マネージャーからの期待値に応えられているか、自分の期待値をマネージャーは乗り越えてくれているかを判断する材料を一つ失うのだ。

もちろん感情の赴くままに接することが正しいと言っているわけではない。相手に今自分がどういう感情であるかを、理性的に伝えることが重要であるのだ。

怒りや哀しみは淡々と自分の感情をコントロールし、今の感情と、なぜそういった感情になっているかを言語化し伝える。そうして、期待値との差分を埋めていき、相互理解を深め、成長をしていくというのが大切なのではないかと思料する。

話は逸れるが、人類の集まりである会社は感情の集合体である。会社が掲げているビジョンも「何かを変えたい」「こういう会社になりたい」という感情から定義されている。行動規範もミッションも全て感情が源泉である。会社があなたに成長を促すのも、サービスの対価を授受する行為も全て感情によるものだ。

ゆえに、その感情と今の会社に対する期待値との差分がどれくらいあるのか(数字、プロダクトの開発進捗、など)、その差分をどう埋めていくか、戦略を考えて執行していくのが会社の経営の一つなのかもしれない、と最近はよく考えるのである。

そして、喜びや楽しさはオーバーリアクションであるべきである。喜びや楽しさを他人に共有することが、大きな繁栄につながるのだ。我々人類は、喜び、楽しむことで前向きになり、今の時代を切り開いてきたのである。

自分の感情に正直になることが期待値の差分を埋める近道だと改めて考え直し、感情を大切にして生きていきたいと思ったのである。

@zy
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