12月の暖かい日中、散歩をしているとふわふわ飛ぶワタムシに出くわした。
東京のワタムシは北海道などのワタムシと違うらしい。でも、どちらにしてもアブラムシの仲間には違いないだろう。寒い季節の暖かい日にはアブラムシがよく飛ぶ。白いワタをかぶったアブラムシはいつもより少し目立っているだけだ。
そういう小さな虫を見ながら、自分の大きさをこの虫のサイズにして考えることがよくある。もし自分がこの大きさだったら、世界はどう見えているのだろう。
気が遠くなるほど広く感じるにちがいない。地面や枝から離れて、何百メートルもの上空を飛んでいるのと同じぐらいだ。
そして風に翻弄される。ニンゲンがそばを歩いただけでも巻き起こる風に引っ張られて、思うように飛べないだろう。そうしてどこかにしがみついて、そこがたどり着いた場所だ。ほとんど運じゃないか。
道を這って移動している芋虫を見ても同じことを考える。
安全でない地面を、この体から考えるととても遠い「あちら側」まで這っていくのは容易でない。そして、たどり着く場所の情報もなくただ「行かなければならない」から移動しているのだ。
わたしは自分をぐんと小さくして、芋虫が向かう先と同じ距離のことを思う。
わたしはちっぽけだ。少しの間違いや運のなさで命を落とすいきものだ。
それは、わたしが元のニンゲンのサイズに戻ったとしても、じつは同じことなのだ。
地面に降り積もった落ち葉をしゃくしゃくふみながら歩く。乾燥した空気から、さらに湿気を吸い取るかのように乾いた落ち葉だ。
ここに、何とか生き延びて生を全うした虫のたまごがあるかもしれない。
しかしそれはいずれ箒で集められて袋に収まって、燃やされて終わるたまごに過ぎない。わたしも「次はそれ」かもしれないと思う。
あー わたしがいまここで、この世界をわたしとして認識して存在し、風の中でも立っていられることの奇跡よ。
彼らが湧いて去っていくことの繰り返しを何度も見たわたしも、大きな渦の中では一瞬の泡のようにいつか裏返って消えるのだ。