去年(2023年)から考えていることだ。「愛される覚悟」について。
まだ自分の中でちゃんと言語化できる気がしないし、これからも考え方が変わっていくかもしれない。それで「文章にしておきたいな」と思いつつもなかなか書けずにいた。しかし、だからこそ、まだ考え方がぼんやりしているからこそ今の想いを書いておくのはいいかもしれないので、静かに・てきとうに・いまの気持ちをメモしておく。
◆きっかけ
2023年10月、某名画座で行われた旧作の上映会を見に行った。1週間のリバイバルで、監督も上映後に舞台挨拶をするという。
この監督のことは作品だけでなく人柄も大好きで、会える機会があればなるべく会いに行っている。最近は頻度が少なくなってきたが、新作の話題もあったし旧作を久しぶりにスクリーンで見たいと思って出かけた。
監督は舞台挨拶を大事にしているひとだ。この旧作が新作として上映された時、なかなかひとに届かないが届けば気に入ってくれて応援してくれるひとがいるということで(もっといろんな理由とか決定的な理由もあったと思うのだがその辺は割愛)、とにかく毎日、毎日上映後の舞台挨拶を行ったそうだ。今回(2023年のリバイバル上映)と同じちいさな劇場で。
軽く検索しただけなので正確な数字にたどり着けていないが、その旧作上映後の舞台挨拶は200回を超えているようだ。近作の映画でも100回を超える舞台挨拶。とにかくファンの、観客の前に現れる監督なのである。
2023年の舞台挨拶の後でも、映画館のロビーで監督は観客に混ざって歓談していた。もう舞台にすらのっていない、同じフロアにいる「映画監督」だ。
昔からのファンのひとが言う、「監督はサインをしてくれますよ。サインが欲しい人、ここにペンもありますからどうぞどうぞ」という言葉に監督は「彼はかってにそんなことを言うんだから」とサインしながら笑う。
先ほどのファンのひとは今度は「監督と写真を撮りたいひともどうぞ。このポスターの前に立つのがいいんじゃないかな」と言い始め、「ええ、写真も撮るの。いいけど……」としぶしぶ言いながらも笑顔の監督を連れて行く。
一般的なファンである私は「ああ、サインが欲しい、お話したい、でも声をかけるのはご迷惑じゃないか」とすぐ考えてしまうのだが、率先して監督にサインさせていたファンの方のおかげで私を含め言い出せずにいた新しいファンの皆さんも監督とお話したり交流できたのだった。
私もずうずうしく新作のチラシにサインをねだって、「あ、チラシかあ。これにサインするのは初めてですね」というお言葉をいただいて、新作を楽しみにしていると伝えることができた。家に帰って早速袋に入れて保護して飾った。
◆「愛される覚悟」について考えた
しかし、映画の監督がファンの前に姿を現すということはリスクもあるだろう。どんな形で好意を示されるかもわからない。私などは、例えば私の「ファン」の人が「この人はサインもしてくれますよ」と他の人に声をかけていたら「ちょっと、それはかんべんしてほしいなあ」と思ってしまうかもしれないので、あのシーンはびっくりした。でも、いままでにも昔からのファンの人がそのようにして監督と新しいファンを繋げたり、監督がにこやかに答えたりという場面を見ることはたくさんあったし、監督は本当に困ったときは「これは困るよ」としっかり言えるひとで、新規のファンが「なれ合いは好きじゃないな」と引いてしまうような空気も不思議と感じないというバランス感覚と安心感があるのだ。
私はその様子を見て「愛されたければ、愛される覚悟が必要なのかもしれない」ということを考え始めたのだ。
◆「好意」にビビらない
これは私が女性だというのも関係している気はするが、好意に警戒してしまうことがあると思う。往々にして「勘違いさせてはいけない」「どういう意味でこの好意は伝えられているのか。何か見返りを求められているのか」と考えすぎてしまう。これはしょうがないし、当たり前のことでもある。
恋愛的な場面ではそれでいいと思うのだが、普通に性・愛・下心に関係のないところでの好意にもビビってしまうところはないだろうか。以前、私の作品を買ってくれていた人に「いつも買ってあげているのだから、少々無理なお願いをきいてくれてもいいのに」と言われ、作品を売るのが少し怖くなってしまったこともあった。たった一回のことである。でも自分のそれまでの行動でも「買って”あげた”のに」「して”あげた”のに」という気持ちが全くなかったわけではないので、相手の主張も行動も腑に落ちてしまった。好意の中には何かと引き換えにしたいという欲求が含まれることもあるのだ。
でも、すべての好意が発生する前に「悪いパターン」を警戒して生まれないようにしすぎたら、まっとうに愛されることもないのではないか。面倒を避けていたら、悪くない出来事も起きないのではないか。 もちろん契約して確認しあった相手と思う存分愛し合うのもいいと思うが、それだけではない気軽な「確認もいらず、一方的に与えるだけでよく、笑顔や作品そのものや存在だけでじゅうぶんお返しになる愛」を怖がらずに受け取っていけるといいのではないか。
◆つまり、「愛される覚悟」とは
「自分の作品を好きになってほしいと思って発表するときに、作者も丸ごと愛される・期待されることを怖がりすぎずに、好意を受け取っていこう。ありがとうと伝えて、好意の中に予想外のものや自分にとってゆがんだ内容に感じるものが発生してしまうことを事前に警戒しすぎないようにしよう」
ということ。
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◆うまく説明できた気がしない
書いてみたけど「でも、それって」ってやっぱり反発する意見が出るよなって気はする。「おかしな人もいるから警戒することは大事」「距離感はあったほうがいい」「いちいち受け取っていたら疲れちゃうのでは」というのもよくわかるのだが、私としては「それを考えすぎている」のが自分の問題だなと思っている。もう少し「警戒ありきで人と接する」のを控えめにして、「これすきー」と自作に対して言われた時に「そうですか、うれしい、ありがとうー」と考えすぎずにそのまま受け取るようにしたいという話なのだ。好意を向けられて「なぜ私の作品が好きだというのか。何か見返りを求めているのだとしたら困る。はやめに好きだという気持ちをなくしてほしい」ぐらいになってしまう時があるため、それでは余りにも硬いではないか。
だから今は「もっと警戒をといて、愛してほしいと人前に出て、交流していこう」という方向に意識していきたいという程度の話なのである。
◆さらに、もうひとつの「愛される覚悟」
これも誰かがそうあるべきという話ではなく、あくまで自分で心がけていきたいという話なのだが、できるだけ善人で、愛する価値のある人間になりたいという目標も出来た。
作品を誰かの目の前に出すということは、作者の顔もちらつくことになるであろう。その時思い出して苦々しくなるような悪人だったとしたら、せっかくの作品も悪いものになってしまう。
私も完全な善人が好きなわけではないし、人間味のある、怒りや悲しみを持っている・こだわりや頑固で偏屈な感情を持っているひとこそが「好きな人間」だ。でも「人間味」で許せることじゃない点で人のことを嫌いになってしまうことがある。差別的な発言や、不用意な言動が続いたら嫌気がさしてしまうだろう。私と私の作品を愛してほしいのだから、愛したことを後悔するような人間ではないほうがいいと考えた。原則として制作者と作品は別物、しかしそう割り切れない感情もあるのだ。
かわいい私の作品たちのためにも作者も愛される人間でありたい。まあ、あくまで心がけの話。完璧にやれる気もしないので、できる範囲で。無理せずね。