京都に行く。この回を参照。チッ 反省してま〜す
ふだんはお勤めのみなさんしか乗らないような時間帯の新幹線に乗るが、今日は正常な時間帯(昼とも言う)のやつに乗った。伊勢志摩のガイドブックを見る人などおり、新幹線はそういえば幼い時分にはハレの乗り物だったと思い出す。
新幹線の中で、古賀さんの『ちょっと走ったりすぐにかけだす』を読み終える。イヤホンの充電少ないし、続きも持ってくりゃよかった。
古賀さんの息子さんが、三国志の人物がCPUとして出てくる麻雀のゲームをやっているらしい。私もチェコ史の人物がCPUとして出てくる麻雀のゲームをやりたい。カレル4世相手にわざと負けたい。しかし、わざと負けることが愛と呼べるだろうか。
ぶじ京都駅に着く。普段は京都駅から大学まで電車で行くが、今日は荷物が少ないのでバスで行った。
京都市バスは、急がない時に座って利用するぶんにはいい乗り物である。京都在住者以外は本当に使わない方がいい。京都を訪れる人が使うバス停は京都を訪れる人で混み、その結果としてバスが遅れまくるためだ。帰りに見た祇園とかすごかった。
郵便局に書類を出す。今日のメインミッションである。大学の目の前の郵便局で出すのは流石にアホくさすぎたので、大学から2番目に近い郵便局にて書留&速達をお願いした。
その足で大学に向かう。文学部教務課の前を通る。明日、私がさっき出した手紙がここに着く。
大学では先生に借りた本をスキャンした。ナゾの上級生が私費で導入した非破壊式スキャナで本を2冊スキャンし終わり、3冊目に差し掛かったところで違和感に気づく。
3冊目は共産主義チェコスロヴァキア時代のボロボロの本で、ページをめくると紙のかけらがはらはら落ちてきた。そしてこれはあれだ、ベリベリが必要な本だ。
ベリベリをやったことがある読者は少ないだろう。詳しくしるす。
デカい紙を八つ折りにして16ページの冊子を作ったことはないだろうか。本、もしくは古い本、少なくとも私が扱う共産主義期の古本は、あの冊子をたくさん寄せ集めたやつをノリでつけてできている。
ところであの冊子は、真ん中をホチキスでとめた後、上と横を断ち落として初めて完成する。この説明で伝わりますかね。
共産主義時代に出版された本の中には、そこの断裁が非常に甘いものが多く、結果として上と横が断ち落とされないまま、袋とじのような状態で市場に流通しているものが多くあったのだ。結果として読者が各々でページを切り開くことになった。
私は今回、それを引いてしまった。袋とじのようになっているページがたくさんある。この本のこのページは、今まで誰にも読まれたことがないということだ。本が不憫になってくる。
大学図書館の本が袋とじになっていたらベリベリ開けていいと別の先生から聞いている。図書館の本もチェコから買った本も、数知れぬ本をベリベリしてきた。文字通り誰も読んでいない本ばかり使っているということで、オラこんな学問領域嫌だ、と思う。
今日も定規を使って1枚ベリベリやったところで、これ私物じゃんと気づき、本を貸してくれた先生にベリベリやっていいですかとメールを送って返事を待つ。
そうこうしている間に新幹線の時間になったので(やっぱり新幹線で帰ることにした)、足早に大学を去り、京都駅行きのバスに乗り込む。観光地を通るバスで、途中から観光客で混み始めたのを一番後ろの端っこの席から高みの見物していた。
帰りの新幹線では、「カルネ」を食べた。志津屋という京都のパン屋の看板商品で、焼きたての小さなパンにハムとバターと生の玉ねぎが挟まった品である。このパンが妙に硬い。否、歯触りは柔らかいのだが、妙に噛みきれない。ギチギチとしている。
京都では、おこしやす的イメージに反し、意外とパン文化やコーヒー文化が栄えている。このトリビアも有名になったので、もう意外でもないかもしれない。
カルネは良い食べ物である。京都が地元の友人に「硬いものを食べると生きている実感を得られるので、朝にカルネを食べると良い」と勧められてからしばしば食べている。彼と私は同じ精神科に通っている。
先生からは、ベリベリやっていいですよと返事が来た。
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ベリベリは定規でやるとうまくいく。
まずベリベリしたい辺を奥に向け、切り離したい2枚の紙の間に、30センチ定規の、断面が直角になってる方じゃなくて斜めになってる方を差し込む。そしてベリベリしたい辺に押し当てる。
ここからは勢いが勝負である。紙からはみ出した定規を利き手で握り、定規で水平にチョップをするような心持ちで、あるいは日本刀を振り回すような心持ちで、なるべく机と水平に素早く押し切る。
切る回数はなるべく少なく。少しずつ切り開いていくと、それだけ同じ面積にかかる力が大きくなる。共産主義時代の本は紙がわるいので、紙が力の圧に耐えられなくて汚く破けてしまう。
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ふと思い当たったのだが、ヨーロッパの連中がみんな『イリアス』『オデュッセイア』のあらすじを知っているっぽいのは、日本人がみんな三国志を漠然と知っているのに近いのか。
私は三国志を知らない。劉備、関羽、諸葛亮?孔明?諸葛孔明?諸葛亮孔明?といった人間が出ること、人が3人桃畑のようなところに集まり兄弟の誓いをすることなどを知っている。イリアスとオデュッセイアはもう少しわかる。なぜだ?