頭の整理を兼ねつつ、文劇におけるaktgwとkmの考察や勘繰りをするための感想です パッションバージョンの感想はこちら→(https://sizu.me/chill_be/posts/mi1b3tfi6fta)
※ネタバレしかありません
※引用元:文劇8パンフレット、文劇8台詞(京都大千穐楽配信)、文劇5台本、その他シリーズの演出、原作ゲーム等
※腐った趣味趣向が漏れ出ていたらご容赦
前提
文劇3→6→8→1(文劇8パンフレット)
文劇5の時系列は文劇3の後(推定)
→文劇6の演出から/文劇5でaktgwからdziくんの人となりを知ってそうな発言があったため
文劇5と文劇8は別の世界線(推定)
→kmとaktgwが再会していないため/同じ世界線(文劇8→文劇5)の場合、文劇8で文劇5の武器御一行が出てきていたのがやや不思議なため
文劇5は全滅(推定;;)
考察・勘繰りポイント
1. 「未完成の手記」について
㉟「アイツの遺した文章には、さっきのkmに宛てた文章があったとかなかったとか。いわゆる遺書ってやつだな」
手記/遺書=「或I日友ㄟ送ʓ手訁己」であることは間違いないと思うのですが、あの手記が“未完成であること“が強調されていることは珍しいなと思ったので、何故劇中で「未完成」と繰り返し言われているのかがモーレツに気になりました
㉟「aktgwがお前に宛てた遺書だ」
km「aktgw君が、僕宛てに?」
(そして何故kmは手記の存在を覚えていなかったのか……)
【仮説1】侵蝕説
侵蝕によって全員の記憶が欠け、手記の存在を忘れてしまったパターン
⇒手記に対して「……僕宛てに?」の反応は、侵蝕レベルでないと中々違和感(オタク注:史実ではkmが記者の面前で手記を読み上げており、手記の最初の発表者になるため、内容はともかく存在そのものを忘れるとは考えにくい)
【仮説1の疑問点】
km「情勢により発表には至らなかった作品、発売禁止になった作品、執筆途中に亡くなって、未完成なままの作品……」
侵蝕された作品は人々の記憶から消えるとはいえ、ブツそのものが消える訳ではないので、果たして上記の「行き場をなくした作品」にあてはまるのか
また、様々な全集に収録されている手記が日の目を浴びていないとされるのはちょっと違和感
【仮説2】メッフィーによる改変説
文劇8の世界線では、そもそも手記がkmに渡されていないパターン
👿「死の直前、その男の前に出てやった」
⇒時空を越えるメッフィー(ドッペルゲンガー)の介入によって、aktgwの死亡タイミングが少し早まった可能性
㉟「アイツ(aktgw)はいつも言ってたぜ?自分のことを一番理解してくれているのはkmだって!」
⇒手記ではないけれど遺作「或阝可呆၈ー生」冒頭にある「(kmが)僕のことを一番理解している」について、㉟が「(aktgwが)書いてた」ではなく「いつも言ってた」と発言しているのも違和感(実際にいつも言ってたら微笑ましいので無論採用します)
【仮説2の疑問点】
文アニaktgwや史実ご本人もドッペルゲンガーに遭遇している(説がある)ため、介入による影響がやや不透明
今回の時空超越/悪魔の囁き自体が全てメッフィーの虚言の可能性もある
2. 🌲曜会に誘うシーンについて
aktgw「ねぇkm、ntm先生の🌲曜会に行こうよ。きっと僕たちの文学のことも見てくれる」
🌲曜会について、史実ではkmからaktgwに参加を持ち掛けているが、文劇8ではaktgwから誘っている
【仮説1】初回ではない説
言葉の綾(「磯野!野球しようぜ〜!」と同じノリ)
【仮説2】作劇による改変説
文劇5でも「どちらが誘った」という明言はされていないため、文劇世界線ではaktgw→kmが"正しい流れ"というパターン
⇒作劇上の改変の場合、改変の理由よりも結果の方が大きいため理由は不問(kmの中のaktgwの存在感が高まるため、aktgwを探す動機付けになる/逆にaktgwの中のkmの存在感はどうなるのか?という疑問はある)
【仮説3】???による改変説
第三者の介入によって、aktgwがkmを誘うことになったパターン
⇒劇中の第三者による改変の場合、文劇8のaktgw(過去)が"正しい流れ"を知った上でkm(過去)を誘っているパターンや、メッフィーによる改変のパターン等が考えられる
【仮説3の疑問点】
改変のメリットとして、aktgwのkmへの憧憬ポイントと罪悪感ポイントが軽減することがあるが、aktgw本人がそれを望んで実行するかは微妙
メッフィーによる改変の場合、文劇8のaktgw(ラジオの姿)が改変について言及していないのが気になる
3. 「誰かのための文学」観について
文劇8のkmが辿り着いた結論と、文劇5のkm(回想)が言っていた「誰かのための文学」の解釈が異なるのは何故か?
<参考:文劇5>
aktgw「彼の言葉が今でも沁みるよ」
km→aktgw(回想)「文学は誰かのためじゃない。僕らが生きるためにあるんだ」
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km(侵蝕.ver)「そもそも、いち個人が産み落としたモノを万人が理解できるわけがない。通じるものとだけ深く通じ合う、それが純文学というものなんだ」
<参考:文劇8(やや誇張.ver)>
aktgw→km(回想)「君の作品は恐らく万人には受けないだろうけど、それでいいと思うんだ。誰か一人でも理解してくれる人がいれば。勿論、その一人に僕は当てはまるけどね♡」
km「aktgwくん……!!」
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km「たった一人でも誰かの心を動かすことが出来れば、それが作品を書く意味となる」
【仮説1】世界線が違う説
(良い意味でも悪い意味でも)世間的な評価と作品の価値は関係ないというのは文劇aktgwの一貫した哲学のように思うので、文劇5/文劇8のkmの違いが、考えの違いに由来しているパターン
文劇5は「純文学」を前提に発言しているため、"純文学作家としての理想“を語る文劇5と、“大衆小説作家としての結論“を語る文劇8で多少の差異はあるかもしれない
⇒文劇5の世界線のaktgwは、kmに同じことを言ったことがあるのか?同様に文劇8の世界線のkmは、aktgwに同じことを言ったことがあるのかについては気になるポイント
【仮説2】時期が違う説
評価によってスれる前のkm自身の考え(文劇5)を、評価によってスれた後のkm(文劇8)が思い出して立ち返ったパターン
⇒ 文劇5のkm(回想)は「aktgwの作品が評価されだした頃」のため、まだ二人の溝が深まっていない=前後関係的には繋がる想定
【仮説2の疑問点】
「昔の自分に立ち返った」にしては、やや着地点がずれている
⇒文劇5の考えに則るのであれば「誰かのためではなく、自分が生きるために作品を書く」「その結果、たった一人でも誰かの心を動かすことが出来れば、それで十分」になるのでは?(ただこの考えだと「文学でみんなを明るく照らすために」作品を書く青年の意見と相反するため、青年の考えに寄せた結果の差異とも言えるかも)
⇒ここにも“純文学作家としての理想“と、“大衆小説作家としての結論“の差異はありそう
4. 「万人には受けない」発言
忌憚なき批評と言えばそれまでだけども「君の作品は恐らく万人には受けない」は結構なちくちく言葉では?(注:そもそもどんな傑作とて『万人に受ける作品』なんてものは無いと思っているので、単純に人数の話として捉えています)
「万人には受けない」(からntm先生/世間による評価に差がついた)という顛末を知った上の発言に感じるのは勘繰りすぎか?
⇒「万人には受けない」という表現は大衆小説家としてのkmにはやや合わない(大衆に受けたからこそ食っていけた)ため、文劇8のaktgwは「君の純文学作品は恐らく万人には受けないだろうけど〜」という意味で言ったと仮定(その場合も上記の疑問は残る)
いずれにせよ、atkgwは本当に純文学作家kmが好きなんですね……どうするよ大衆小説家kmとの再会早々、某少女歌劇の🍌ちゃんよろしく自害を迫ってきたら(「君は眩しかったよ、km」「どうして過去形なんだよ……!」)
5. 手記の重要度について
aktgw(ラジオの姿)「書きかけだった手記を探し出した、その後」
生と死の境目で原稿浚って散らばった手記を見つけるの、とてつもなく大変では?(注:km評伝曰く、史実では18枚あるとのこと)
生と死の境目で作品を見つける→(本人または人々の)作品に関する記憶が蘇る→浄化の足掛かりを掴むことに繋がると仮定すると……果たしてひとつの手記にそうするだけの理由があるのだろうか……?
(原作ゲームの場合は)手記を含む遺作一式が拗れの一端を担いまくっていたので、kmが手記の存在ごと忘れていた方が「楽しかった時の記憶だけ持って転生したかった」aktgwにとっては好都合にも感じる
【仮説1:手記自体が力の源説】
「aktgw文学を締めくくる作品」としての意義が大きいため、拾い集めて浄化した方が力を取り戻せる説
【仮説2:貴方のことが手記だから説】
aktgw本人が(kmとの拗れ→和解による)罪の精算を望んでいるため
⇒文劇5における覚醒の時も、kmから吸い取った負の感情を和解によって吹っ飛ばしてからの覚醒という超絶カタルシス仕様なので、この清算イベントがないと覚醒できないのかも?
以下、とち狂いと言う名の陰謀論
上記の相違点が"作品上の意図的な嘘"である場合、その原因は「世界線の違い」なのかそれとも「第三者による介入」なのか?
今回言及していたように、メッフィーがズレを意図的に引き起こしたという可能性もあり、また、文劇8の発表時から出てきていた8→∞の演出を考えると、特定人物を主体としたループ説も考えられるのではと邪推
⇒疑問2(🌲曜会)、疑問3(文学観)、疑問4(「万人には受けない」発言)のズレは、いずれもaktgwが主体になっているため、例えばaktgwがループ/世界線へ介入した結果、世界線にズレが生じたという可能性も考えられる(文劇5のタイトルも『廻旋』(ロンド)ですし……)
【仮説1】チャート開拓説
文劇5が全滅したと考えると、その後、生と死の境界にほっぽり出されたaktgwが全員生存チャート(≒劇館長攻略チャート)を探っている可能性
⇒文劇5の時は罪を清算して覚醒までしたのに全滅してしまった、では「最初から罪を重ねない」(≒kmとの軋轢を減らす)ことを重視すればよいのでは?と物語を書き換えているパターン
⇒"完璧で究極なaktgw"としてkmの前に現れ「かつてkmから掛けられた言葉」を先んじてkmに言っているのであれば、そりゃ文劇8のkmはaktgwに首ったけになってXX回も名前を呼びますわな……という納得がある
【仮説1の疑問点】
aktgw視点では、文劇8より文劇5の方が最適チャート感はある……何故ならkmがあんなにaktgwにとって(都合の)良(い)友であることが奇跡なので(オタク注:km推しによる正直な感想です)
時の歯車をぶん回さずとも、生と死の境界(原作ゲームで言うところの「余剰次元」)を経由すれば時間と空間の超越はできそうですが、世界線への介入まで可能になってしまったらそれはもうメッフィーと同じなのでは……?(→仮説2へ)
【仮説2】闇堕ち説
aktgw氏、ラスボス系文豪の役目からは逃れられない可能性
⇒たとえば文劇1における「生きろ!」や文劇5における罪の精算をしていない世界線でaktgwが闇堕ちし、メッフィーのように世界線へ介入する権能を得た場合、aktgwは過去に行って“やり直す“ことができる
【仮説2の疑問点】
前述のとおり「メッフィーが世界線へ介入できる」という前提から虚言の可能性は全然ある
一方で、メッフィーのような「直接的な過去の改変」ではなく、著作/日記/随筆等の改変(≒部分的な侵蝕)→それによる文豪の記憶の改変→文豪の変容なら現状の状態でも可能
⇒闇落ちしたところで何を目的とするかがピンと来ていないのと、彼がラスボスになってしまうのが可哀想なので()一旦保留とさせてください……
最後に
いかがでしたか?フフ……分からないことが分かりましたね……(小声)
謎は深まる一方ですが、謎の答えは何なのか、そもそも謎が明かされるのか明かされないのかも含め、並べて文劇9以降のお楽しみということで、彼らの再会を末永く待ちたいと思います!せーの、文劇最高~~!フゥ~~!
おまけ:今後こういう展開あったら熱いよねパート
文劇9への感謝の正拳突きとして、本シリーズに一貫している「全ての文学には価値がある、全ての文学は守るべき、文学の礎を守り、未来へ繋げるのが俺たち文豪の役目だ!」という論調のカウンターになりうる言説を探しています(以下事例)
価値がない文学はあるか?(芸術性/思想/オリジナリティの有無等)
その価値は誰が決めるものなのか?(本人/世間による評価/文壇の賞レース等)
価値のない作品は消されるべきなのか?(本人による改変/社会による検閲等)
⇒上記の「価値」にそっぽを向かれてしまった人の話が見たいので、世間によって振り回されてしまった文豪(個人的印象だとykmt・kwbtとか)、時代に流されまいとする文豪(個人的略だとizm先生、smzkとか)、文学の必要性に関する葛藤(個略だとカンニキとか)を待望します
⇒個人的葛藤とは別にして「危機的状況だからこそ、文学作品のトリアージが必要では?」みたいな案を口にしてizm先生に絞られる、現実が見えすぎる男ことtkdくんは見たいです
・文豪はバラバラでナンボなので、100%賛同とまではいかずとも、自らの意思で侵蝕者に協力する文豪がいてもおいしい
⇒パっと思い浮かんだのがmsm氏だったので実装を待つしかない(まあ劇館長の造形がmsm氏を意識している感じは……あるかないかで言ったら……ありそうですが……)
⇒次に思い浮かんだのは、負の感情を消し去ろうとした結果のハピエン改変屋さんですが、侵蝕者と文豪双方から石を投げられてしまうので、相当思想が極まってないとできない芸当ですね
⇒dziくんが(𠃌ォᤖ𠃌ォ㆑ッᤖ乜冫ᤖの略ではない方の)𠃌ォᤖになる展開も見たいか見たくないかで言うと見たいですが、これは劇館長攻略チャート的には再走確定なので、文劇3で満足すべきでしょうか?
・今回メッフィーによって過去の改変概念がお出しされたので、過去が改変されて作家にならなかった青年(一般名詞)を文豪として連れ戻す展開とかが出てきても激アツですね……「作家としての幸せ」が「人間的な幸せ」と対比されていたらと考えると……もう、ネ……
おわり