続・自分の特性をポジティブに捉えたあとの危険性

kurrry
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前回自分の特性について書いた。

ここでは自分の特性がADHDかもしれないとわかったときにポジティブに捉えた、と書いたが、後で振り返ってみて非常に危険な捉えられ方をすることに気付き、ペンは進まないが続きを書くことにした。

なにか病気や障害を宣告されたときにポジティブとして真っ先に浮かぶのは「自分は受け身な被害者であり、自責なわけではなく保護・同情されるべき存在である」という解釈だった。

インフルエンザにかかって学校を休むことになれば、「自分はインフルエンザに罹患したから休んだんだ!」と声高らかに宣言する子を想像することは難しくないだろう。

近年、この感覚?解釈?はもっと大きな渦を生み出している。◯◯マイノリティという名のもとに、自責性を排除した特性というラベルに権力性をまとわせ、周囲に良し悪し双方の影響をおよぼすことがある。

一昔前と比べて、発達障害についても知名度が上がり社会的に理解が進みはじめた。多くの書籍が制作され、生きづらさを抱えている人たちに対して医療関係者はじめ多くの人が救いの手を伸ばしてくれるようになったと自分は理解している。自分自身もこうした有識者の発信がなければ自分自信がその特性を持っている可能性があることすら気づけていなかっただろう。それくらいに発達障害と自分、いや世間は意識が乖離していると思う。

そうしたなか、「ポジティブに捉えた」というのは「自分の生きづらさが先天的であり、本来保護される存在である」「だからこそ、周囲が自分に合わせるべきで、保護されないこの世の中は道理的におかしい」という解釈で述べたと思われると、自分の信義と反する。

自分自身は極端に自責な人間であり(自己認識を極端と表現するのは滑稽だが)、さらに語弊を恐れずに言うと、特性をふりかざして権力性を誇示する人間には同情こそすれど共感はできない。いや嫌いといっても過言ではないかもしれない。

ではなぜ「ポジティブに捉えた」のか?

これはいたってシンプルで、同じような特性、生きづらさを感じている人がラベル化された結果、同様の人間が多く存在しているということ。同士が存在すればそこにはノウハウが生まれる。実際に、前述したとおり書籍はもちろんのこと、YouTubeやSNSでも発達障害について多く語られており、自分の特性が様々な形で言語化されている。

生きづらさと向き合い、言語化された特性を知り、改善策を語り合い、多くの方々の努力をいつでもアクセスできる環境。これをポジティブに捉えただけに過ぎない。

SNSで検索してもらえれば”発達障害あるある”が散見されるが、びっくりするくらい共感することが多い。これからは発達障害以外の人にも多くはてはまる内容になっていると思う。実際発達障害は濃淡があり、潜在予備軍も多く存在しているらしい。定型発達の方からすると「さぼってるだけだろ」と思う方もいるだろうが、それでいいと思う。

大事なのは特性を受け入れてどうやって充実した人生を送るために対策を打てるか、この一点でしかない。そんななか、同士の貴重な情報に気軽にアクセスできる環境はポジティブでしかない。インターネットの進化による情報過多に嫌々していたこともあるが、またインターネットに助けられてしまった。こうやって脳内を吐き出すことで自信の安定性を保とうとしているが、この発信先もインターネット。切っても切れない関係。

@currrly
散財と怠惰と注意欠如からの卒業を目指す40手前