【短歌の話】恋愛・婚姻の規範を飛びだす〈危険なつがい〉

Dr.ギャップ
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公開:2025/8/10

ふたりだと職務質問されないね危険なつがいかもしれないのに

雪舟えま『たんぽるぽる』収録(『桜前線開架宣言』より引用)

昔からなんとなく好きで、ときどき思い出す短歌です。

〈危険なつがいかもしれないのに〉から感じるいたずらっぽい気配を好きだなと思いつつ、具体的な意味を組み立てなおして読むことはこれまでしていませんでした(そこに特別な理由があるわけではなくて、なんとなく好きだなという位置に置いていたというだけ)。

ただ、ふと、この歌をAスペクトラム(恋愛や性愛における「惹かれなさ」の傾向)と近づけて読むことができるのではとひらめき、それを形にしたくてこの文章を書いています。具体的には、恋愛や結婚をめぐる規範への攪乱を読むことができるのでは、と思っています。

まず、自分がこの短歌を語句解釈としてどう読んでいるか整理してみます。

「これしかない」という唯一の解釈が定まっているわけではなく(まして普遍的な唯一の正解があるとも思っておらず)、いくつかのポイントで「この可能性があるし、別の可能性もある」と揺れながら読んでいます。


〈ふたりだと職務質問されない〉

一人だと職務質問をされるということ。実際の職務質問というよりは、もっと比喩的な「社会における不審な人物と見なされる」を託された表現ではないかと思って読んでいます。

そして〈ふたりだと職務質問されない〉のは、〈ふたり〉になることで「不審」の外側に置かれるからではないかと考えます。単に人数の問題ではなく、〈つがい〉=恋人・夫婦に見えることで、規範の内側にいると見なされることを言っているのではないか、と読みました(実際に恋人や夫婦であるかは別)。

〈されないね〉

〈ね〉という語尾から、一首全体を〈ふたり〉を構成する相手に対する呼びかけのように思いました。だとすれば、二人で歩いていて警察官の前を通り過ぎた(職務質問をされることがないままだった)ときの発言としてシーンを思い浮かべることもできます。

ただ、〈職務質問されない〉現場を回想しているという風にも読め、〈ね〉の宛先が〈ふたり〉の相手とは限らないとも思います。たとえば読者である自分たちへの呼びかけという可能性もある、と書きながら、それはそれでとてもぐっとくるなと思いました。

〈危険な〉

あくまで〈職務質問〉をしてくる相手にとっての──実際の警察ではなく、〈警察〉に託された「社会」の見なす〈危険〉をイメージしています。そしてそれは普遍的・本質的な〈危険〉ではない、とも思っています(少なくとも自分はそれを危険とは判断しない)。

具体的には、恋愛や婚姻をめぐる規範を乱すことが、今の・この社会が見なす〈危険〉として置かれている、ということをイメージしました。

〈つがい〉

①恋人や夫婦など、多くの場合恋愛や性愛と結びつく、またそうであると見なされる関係

あるいは

②夫婦や恋人に限らず“一対”と相手に対して思うような関係

どちらの可能性もあると思って読んでいます。恋愛や婚姻に関する規範と絡めて読むという可能性を思いついたのは、①のように〈つがい〉に恋人や夫婦のニュアンスを感じたからでした。ただ、単語の意味としては②のように恋愛や性愛を含まないものもあり、〈危険なつがいかもしれないのに〉を「危険な二人組かもしれないのに」と読んでも意味は通ると考えます。

(かつ〈かもしれない〉と続くので、実際に二人が〈つがい〉かどうかについてどちらの可能性もある、という視点もあります)

〈かもしれない〉

主に〈危険〉にかかっていると読みました。〈つがい〉であることを前提に、危険かもしれないし、そうではないかもしれないとほのめかしているイメージ。ただ、〈つがい〉ではないという可能性も含むものと思っています。


なんだか長くなってしまったのですが、端的に整理すると

二人でいると恋人や夫婦に見えるのか職務質問されないよね。恋人/夫婦だけど、だからってあの人たちにとって都合が良くて安全な二人とは限らないのにね。

あるいは

二人でいると恋人や夫婦に見えるのか職務質問されないよね。別に恋人でも夫婦でもないし、あの人たちにとって都合が良くて安全な二人とは限らないのにね。

という風に読んでいます。

そしてどちらの読みでも、「あの人たちにとって都合が良くて安全な二人とは限らない」に恋愛・婚姻規範に対する攪乱を思って、また一首を通じて〈職務質問〉という外部から勝手に「見なす」行為への異議申し立てを思って嬉しくなるのです(性を「見なされる」ことをめぐって書いた文章はこちら)。

〈危険なつがいかもしれないのに〉“私”たちが〈ふたり〉でいることをもってすっかり油断して〈職務質問〉の対象から外してくる社会にあっかんべと舌を出すような、そういうイメージを持っています。

二人でいれば恋人や夫婦に見える。恋人が、パートナーがいるのは「ふつうの・まともな大人」の証だから職務質問は必要ない──なんて、ずいぶんな偏見で、お気楽な考え方でしょう。そうでない人は危険だというのも、同じくずいぶんな偏見です。だから、あっかんべと舌を出して、〈ふたり〉でくすくす笑いながらその人の前を軽やかに立ち去る“私”たちを想像しては嬉しくなって、自分も後に続きたくなります。

自分は恋人も配偶者もいなくて、これからもいないだろうと思っていて、それは自分にとって必要ないからで、この二人が恋人や夫婦じゃないという読みのほうに惹かれる気持ちがあります。

恋人でも夫婦でもない特別なあなたと、たとえば恋愛や婚姻をめぐる規範に対して〈危険〉であることを望む仲間のあなたと一緒に社会にあっかんべと舌を出すところを想像すると、胸がすくような弾むような気持ちになります。

ただ、でも、一方で、二人が恋人や夫婦だったとして、自分とは違う在り方で生を過ごしているとして、そのうえで恋愛や婚姻に対する規範にあっかんべと舌を出すことはありうるし、できるし、しちゃダメなんてことはないんだ、とも思います。恋人や夫婦の二人がそのうえで恋愛・婚姻をめぐる規範にノーを主張しているとして、それもまた嬉しい光景で、心強く思います。

@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。いま一番ハマっているのはアプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》です。短歌で楽しいことをするのも好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop