🌟まずは一通目からぜひ。この往復書簡を始めた経緯についても書いてくださっています。
有さん、お返事にずいぶんお時間を頂戴してしまってすみませんでした。気づけば年が明け、年度すら変わろうとしています。(今年度が何も片付いていないのでは……?)という不安がありつつも、春の陽気は素直に嬉しく、天気のいい週末にはサイクリングに出かけたいなあという気持ちの今日この頃です。
推し活の話(ファンレターの話)
ギャップさんだったら、「定期的にファンレターを燃やしている」と知ったらどう感じますか?
ちょっとさみしいかもなあ……というのが最初に出てきた感情でした。どうしてさみしいんだろうと考えて行き当たったのは、「自分の手紙に対して、もう二度と読めなくなってもいいという判断をその人がした」と受け取ってしまう部分があるからかも、ということでした。
自分は自分が書いたものが失われることに対する忌避感が強くあります。たとえばもう続きを書かないだろう小説や、きっと公開しないだろうボツの短歌でさえ、消してしまえば二度と取り返せないと思うと消せずにストックしてあります。人に送る手紙は(特別に控えを作っておかない限り)自分では読み返せないので「取り返せないもの」として送り出してはいるのですが、受け取り手が「これ以降は読み返せなくなってもよい」と判断しているとしたらさみしいなあと。特にファンレターならなおさらそう思います。
ただ、“手紙そのもの”の物質的な部分に感じる“取り返せなさ”は内容に対するそれほどではないので、スキャナで取り込んでデータ形式で保存しているなどであれば、さみしさも軽減するなとも思います。
そして有さんのおっしゃる“念”が自分にとっては新鮮というか、ファンレターのそういった側面を意識することはこれまでほとんどなかったかも、と思いました。
「気持ちを込めて書く」というのはもちろんありますし、そこに込めた気持ち(作品に対する感想とか、その人に元気でいてほしい気持ち、今後も活躍を見せてほしいという願いなど)が手紙を通して届きますようにという感覚もあるのですが、それは情報伝達の一種というか、気持ちをそのまま届けることはできなくて、自分が届けようとしているのは「こういう気持ちの人間がいます」ということに過ぎないというか……なんだか言葉遊びのようですが、「自分が思いを込めた」としても「手紙に念がこもるとは限らない」というような感覚かも、と思います。
なのでまた翻って言えば、手紙を受け取った人がそこに念を見出して、手元にずっと置いておくことや数が増えていくことに重さを感じてお焚き上げなどの処分を選ぶのであれば、それはそれで仕方がない(念なんてこもって/こめていないとは言えない)とも思います。
アラビア語とドラマの話(映像作品とBGMの話)
ドラマや映画などの映像作品で「無音になったら何かが起こると期待する」のは確かにそんな気がする……! と思いつつ、映像作品を見ることがあまり多くないうえ、そのあたりに気を払って見たこともなかったので、どうだったかなあと記憶を探りながら読ませていただきました。
少ないなりに自分の見てきた作品を振り返って思うのは、BGMにはそのシーンの雰囲気や物語上の位置づけを説明する機能があるよなということです。たとえば自分が大好きな『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』には「なんだこれは! (奇獣行進曲A)」 というBGMがあります。この曲は奇獣=いわゆる敵性生物が登場して町を破壊しているときなどに流れる曲です。この曲が流れることで自分は(今回の奇獣はこれなんだなあ)と思いますし、曲が止まれば(奇獣のお披露目シーンは終わりなのかな)ひいては(次は何が起こるんだろう?)と意識するトリガーになる気がします。
つまり、BGMが止まることで何かが起こるのではと期待するのは、「BGMが止まる=そのBGMが適用されるシーンの終了 → 次のシーンが始まる予感」という刷り込みがあるからなのではないでしょうか。また、BGMがあれば「奇獣の登場」や「戦闘」や「日常」などの雰囲気がはっきり示される一方、無音の場合はそういった色付けがなく「どう転ぶか分からない」というドキドキにもつながるのかなとも考えました。
以上、ドラマも映画もアニメもあまり見ていないなかでの手探り推論ですが、有さんの感覚と照らしてみていかがでしょうか?
読解力の話
興味深く難しいお話の提示ありがとうございます。そうですね……
自分が【読解力】という言葉から思い浮かべるもののなかには、【文章・言葉の前提や背景を推測する力】や【ニュアンス・温度感を掴む力】は基本的には含まれていないと思います。それらは読解力とは別の能力としてコミュニケーションに必要なものという捉え方です。
あとは「文章が読めていない」というのがそもそも難しいというか、何をもってそう言ってしまってよいのかという気分も多少あり……言葉は一種のコード=お約束によって成り立っている、と考えれば、そのコードに従っての読解がどれだけできるかが「読める/読めない」になってくるのかと思う一方、“書いた人”の意図をどれだけ汲めるかという側面もあると思います。とはいえ“書いた人”の意図が十分読み取り可能な形で文章が作られているとは限らず、またコードは時代や地域や文化によって揺らぎうる……と思うと、ますます「読めていない」というのは何に沿って判断され得るんだろうと思ってしまいます。これはもしかしたら言語コミュニケーション全般というよりも、短歌をやっているときの感覚がルーツになっているのかもしれませんが……
より実践的なコミュニケーションの場においては、「文章を読む」だけではなく【文章・言葉の前提や背景を推測する力】や【ニュアンス・温度感を掴む力】が必要だというのは自分の感覚でもそうです。ただ自分の捉え方では【文章・言葉の前提や背景を推測する力】や【ニュアンス・温度感を掴む力】は「文章を読む」能力と関連しつつそれそのものではない外側にあって、「読解力」には含まれない、と捉えています。自分なりに整理してみると、「読解力」は解釈コードを適切に運用する能力で、“どのコードを使うか”を選択する能力として【ニュアンス・温度感を掴む力】があり、コードそのものを緻密にするものとして【文章・言葉の前提や背景を推測する力】があるという関係性かもしれません。
コミュニケーションのスムーズでなさ、言葉の流通における摩擦を「文章を読めていない」という言い方にまとめてしまうことに対して(大雑把じゃないか……?)という気持ちがあり、またさらに「文章が読めていない」ことを読解力という言葉にまとめてしまうことにも(大雑把じゃないか……?)という気持ちがあり、二重に切り捨てられてしまっているものがあるように感じます。
体感の話(恐怖や不安の体感と判断への影響)
こちらもさらに難しいな~……と思いながら読ませていただきました。
「体感」によって生じる恐怖や不安感って、どう乗り越えたら良いのだろうな?
自分の実感として不安や恐怖を感じることがあまりなく、かつ一方で“自分は違うけど”というスタンスで話すのが特によくないテーマだなとも思いました。有さんは“乗り越える”という言い方でお話してくださいましたが、往々にして「不安や恐怖感がベースにある当事者」と「体感よりデータを優先する/できる非当事者」の対立になることがあるよなと思うので……自分を後者に固定したうえで前者を説得するような態度をベースに話しかねない、という懸念が自分に対してあり、そこを戒めつつ、「体感」によって生じる恐怖や不安感をどう扱えばいいのだろうと考えてみました。
有さんが仰る“乗り越える”というのは、恐怖や不安感をなくすこと=それ以降気にならなくなるということではなくて、“折り合いをつけて恐怖や不安の対象に向かっていく”ができるようになるということではないかと考えていますが、ズレていないでしょうか。
これを自分に引きつけて考えようとして思い浮かんだのは飛行機でした。自分は飛行機がちょっとだけ怖いです。本当にささやかな恐怖ですが、離陸と着陸の瞬間や、窓からの景色を見ると(落ちることもあるんだよな……)とか(落ちたら死ぬよな……)と思います。
そう考えてみて、飛行機が怖いことは仕方がないと思います。恐怖を感じないようにするというのは並大抵のことではできないと思うからです。でも、怖いままでも飛行機に乗れる──この「怖いままでもできる」が重要じゃないかと思いました。そして、あるいは、自分が本当に飛行機が心底怖くて信頼できなかったとして、自分が乗らないのは自由だけれど、家族や友人など自分にとっての大切な人が飛行機に乗ることを無理やり制限せずにいられるか、自宅上空を飛行機が飛ぶのを不当だとして飛行機のルートを変えさせようとしたりしないかということが大切なのではないのかとも思います。
ただ、でも、自分が心底飛行機を疑っていて(あれが普通に使われている世の中のほうがおかしい)と思ったら、そもそも飛行機に乗る/が飛ぶ自由があるのがおかしいと思うのかなあ……そのほうが自然だよなあ……とも思って、「自分の恐怖や不安の体感で他人を縛らない」ことが必ずしも正しいのかというのも悩みどころです。飛行機も“落ちるかもしれない”は間違いではないし、じゃあ墜落可能性がどのくらいであれば飛行機を使わないほうが正しいのか、他人の搭乗を阻止しても妥当なのか、住宅街の上を飛ぶなというのが正しいかというのは、確率の問題だけでは片付かない気がします(ということを有さんが提起してくださっているんですよね……戻ってきてしまいました)。
ただやっぱり、難しいなと思いつついろいろ考えるなかで「自分の恐怖や不安があったとしても実行してはいけないこと」を呑み込めるかが大きなポイントなのではないかという気がしています。その意味で恐怖や不安感を乗り越えるにはどうしたらいいのだろうか……他人がもっと信頼できたらいいのかなと、ふとそう思ったりもしました。それを怖がらなくても良いと伝えてくる他人を、その人の体感を、自分の体感の隣に置いてやるようなイメージを今描いています。
違う世界を見ているけれど同じ世界で暮らしているなかでどうしたら上手くやっていけるのか。気づいていなかった難しさを確認した気持ちです。
「顔が良い」の話
Aぇ!groupさんのお話! 有さんのポストに登場する頻度が少しずつ上がっていくのをニコニコ拝見しております。
元々「顔が良い」って言い方があまり得意ではなかったんです。自分の性的・恋愛的な好みの話をしているような気がして…。
「顔が良い」というと性的・恋愛的な話題だと感じていたのですが、どう見たって表紙が輝いて見えるので、「なるほど、推しが光り輝いて見える、眩しいと感じることを『顔が良い』と表現するんだな~」と学びになりました。
顔がいい=性的・恋愛的な好み話という感覚は自分とはまったく逆だったので(そうなのか!)と衝撃的でした。自分はむしろ個人の嗜好を重視しない、客観性のニュアンスを含む言い方のように思っていました。もちろん(?)オタク語彙として実際に使われている場面を見れば、客観性から離れて使われていることも多々あるとは思いますが……言うなれば「(自分の好悪はさておき、)自分以外の誰が見たって顔がいい」というようなニュアンスの言い回しだと思っています。有さんの「どう見たって表紙が輝いて見える」とも通底する気がしますがどうでしょうか。
ちなみに自分は「顔が良い」という言い回しを使うことはあまりなく、特に実在の人物に対しては同じニュアンスで「顔が整っている」を使うことが多いように思います。
彼らが決してビジュアルだけを強みにしているとは思わないんです。「ビジュアルの強さ」を強調する言い方は、やはりまだ苦手と言いますか…。決してそんな事はないのに、「他が劣っていてもビジュアルが良ければ売れる」という偏見が生まれそうで、抵抗感があります。
褒めるにしろ貶すにしろ他人の外見に言及することそのものが基本的にあまり行儀のよくない振る舞いだ、と最近は感じるのですが(芸能人など“見た目で売る”をしている、そうしていると判断される立場の人についてはまた別の態度が必要かと思いますが)、ビジュアルの良さに言及することで逆説的に他の部分が劣っているとしてしまうような(だとしてもビジュアルが良いのだからその人には価値があるのだというイメージ付けに加担してしまうような)葛藤というのは、ビジュアルと他の技能を同時に強みとする立場ならではなのだろうなと感じました。また有さんが、Aぇ!groupさんのビジュアル以外の部分(歌唱力など)を高く評価している、高く評価されてほしいと思っているからこそでもあるのだろうなと思います。
でも眩しいと思ってしまう……というのも分かるというか、(どうして自分はそう感じるのだろう)や(これをどう制御するべきなのだろう?)という形の思考には思い当たるところがあるので、有さんがこれからその気持ちとどう付き合っていくのか、どう分析して言葉にされるのか、また教えていただけたら勝手ながらですが嬉しいです。
また一つついでにお話しますと、自分にもおそらく似た葛藤はあります……顔というよりは表情や振る舞いに対してで、アイドルではないもののタレント的な活動をされている方の笑顔に(おっ)と気持ちが動いたとき、反射的にブレーキをかけようとするような、その気持ちの動き方は変ではないかと自問自答するような感覚があります(そしてこのブレーキがスルーする対象もいるので、“どうしてこの人には働こうとするのか”というのもいっそうの戸惑いの原因になっています)。
新たな話題(“推し”と呼ぶ/呼ばないこと)
さて、すでに長いお手紙になってしまっていますが、一つだけ新しい話題をこちらからも投げかけさせていただければと思います。「推し」についてです。
外から見たら推しかもしれないけど、自分の感覚と語彙からすると“推し”という呼び方は適当ではない……という対象が自分には複数あります。そもそも“推し”という語彙が馴染まない感覚があり、積極的に“○○推し”という言い方をしようとはあまり思いません。
どうしてだろうと考えたとき、自分のなかで“推し”という言葉はすごくポジティブなイメージがあって、そのあたりが自分の感覚にそぐわないのかもなと思いました。“推し”に据えたものを全面的に肯定して、そう扱うこともまた全面的に良しとするような……特に“推し活”という言葉に連なるムーブメントには、推しを持つことや推しにまつわる活動全般を強く肯定している気分を感じます。
“推し”的な存在を否定したりしたいわけではないけれど、たとえば自分の場合なら二次創作にいくらかの後ろめたさがあったり、実在の人物を全面的な肯定の対象にしてしまってよいのかという気分があったり……というあたりが“推し”という言葉を使わない理由になっているような気がします。あるいはもっと単純に、なんとなくの照れくささのようなものの為かもしれませんが。
有さんは「推し」という単語にどういうイメージを持っていますか? 「推し」という言葉では指しづらい対象はいますか? もしよろしければお聞きしたいです。
一通目のお返事をしたためてみて、油断するとすぐ文章が長くなるな……と痛感しています。次のお手紙ですべての話題に触れていただかなくても大丈夫ですということを一応までお伝えさせてください。話し足りないところは通話でお喋りさせていただけたら嬉しいです。
そしてあらためてお返事大変お待たせしてしまってすみませんでした。お互いのんびり、長く続けられたら嬉しいなと思っています。
春が近づきつつありますね。忙しない時期ではありますが、有さんにとって楽しく明るい季節になりますよう。