2026年5月の日記

Dr.ギャップ
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公開:2026/6/6

🌟今月の目標

気づいたら5月も半ばを迎えていたので今月の目標は立てませんでした。毎日日記を書いていないとこういうことが起こります。

5月2日の日記

ゴールデンウィーク初日~!! いろいろはしゃいだり良いめぐり合わせがあったりで、普段の二倍くらいの行動をしたのでしっかり疲れてしまいました。明日は明日で移動日なのですが……いまだに荷造りを一切していません。

長期休暇、帰省するとその先の挨拶回りだったりでなんだかんだのんびりした過ごし方にはならないよね、という話をしました。自分の場合は挨拶回りというほど大袈裟なものではないですが、父方/母方それぞれの祖父母に会いに行くのに1日ずつ使うので、そもそもの帰省のための移動日を含めるともうそれだけで連休のすべてみたいになります。行きたくて行っているし、そのための帰省とも思っているので不満などはないのですが、溜め込んだ書き物なりその他やることなりがあった時にそれを片付ける時間にはならないよねという。

移動時間が良くも悪くも長いので、その間に短歌をポチポチ作れたらいいなと思っています。あとパソコンは置いていくと決めたので、4月の日記の公開はゴールデンウイーク明けになりそうです(気づいたら5月になっていて驚きました)。

5月3日の日記

「短歌を詠む」という言い方があまり自分には馴染まないなあということをふと思った。特に自分の作った短歌について、あるいは自分が短歌を作ることについて「詠む」という動詞を使うのは、あらためて考えると何か違うような気がする、ように思う。じゃあ何が馴染むかと言えば「短歌を作る」で、あとは場合によって「短歌にする」が入るかといったと感じかも。

何かはっきり理由があって避けているというものでもないし、過去のツイートなんかを遡れば「詠む」もそれなりに使っていると思います。ただ、あらためて考えると何か馴染まないような気がした。

なぜだろうと考えたとき、最初に思いついたのは「自分の声に必ずしも結びつく短歌ばかりを作っているわけではないから」という理屈だった。「詠」は「朗詠」や「詠唱」など「声に出す」の意味がある(それとは別に「詩歌を作る」の意味もある)。

自分は短歌を作るとき、それを声に出しているわけではないし、また二次創作短歌が顕著なように「自分ではない誰かの声」を想定した短歌を作ることもある。だから、「自分が声を出しているわけではない/自分の声を出すわけではない」というところで「詠む」に馴染まない感覚があるのかもなあと思ったのでした。

5月4日の日記

寝つきの悪い夜だなぁ、ということで、寝つきの悪い日記を書きに来ました。現在5月4日の午前1時22分です。普段だったら3日の日記に入れるところだけど、なんとなく4日の日記ということにしました。

昨日、今日と早起き続きだったので眠いはずなのですが、そして実際眠くはあるのですが、なんとなく寝付かれず……雨の音が気になるせいか、YouTubeを流していたのが良くなかったのか。思い切って起き出すほどの元気はないので、こうして布団のなかで夜中の日記を書いたりしています。少しだけ喉が痛い。風邪というよりは、人ごみのなかを出歩いたのといっぱい喋ったのが原因だろうと思っています。帰省初日はこうなりがちです。

5月6日の日記

今日は読んだ本の話から。

岡田悠『駅から徒歩138億年』

少しずつ読みすすめていたのを今日読み終えました。岡田さんはオモコロの記事が好きで、この本もオモコロの「宇宙の歴史138億年を学ぶために多摩川138kmを歩く」という記事を通じて知りました。旅にまつわるエッセイ+日記+コラム集なのですが、単に“○○へ行く”だけでなく、たとえば「古いカーナビの案内で歩く」や「仮想空間をさまよえる『私』に逢いに行く」のような“○○をしてみたい/したらどうだろう”という個人的な興味や好奇心から始まるところに特徴と楽しさを感じる一冊でした。自分も旅行が好きで、楽しいことも好きで、なんとなく親近感というか「自分と好きなことや好奇心の向き方が似ていて、かつそれを行動で追いかけている人」というふうに感じます。旅行、「知らない」とか「新しい」に触れるのが好きです。

特に楽しかったのが「古いカーナビの案内で歩く」で、これは自分が“歩く”が好きなのもあるかなと思います。古いカーナビの案内だとちっとも思い通りにならなくて、それが「知らない」や「新しい」につながるランダム性のようなものを連れてきてくれること、楽しそうだなと思います。

自分も旅行を記録にしてみたいし、遠くに行かなくても日々のなかに旅を差し挟みたいな~!と思いました。


暮田真名『死んでいるのに、おしゃべりしている!』

図書館で借りようとして、借りる前に館内でほとんど読み切ってしまいました。一気読み。自分も読めてよかった本なのは間違いないのですが、自分以上にこの本が大きな存在になる人がいるだろうなとも思って、そういう人に手渡すつなぎになれたらいいなと思いながらこの文章を書いています。

業界最注目の川柳人による、〈人間をうまくやれない〉と思わされてきた者たちに贈る初のエッセイ集にして、極私的な回復記!

柏書房の書籍紹介ページより

読めてよかったし、人にも勧めたい本なのだけど、感想を書くのが難しい。書籍紹介に「回復記」とあり、本の裏表紙に「〈人間をうまくやれない〉と思わされてきた者たちへ。」とあるように、「ままならなさとの格闘」という印象が一つある。特に自分は「こころ」の章を読んでいてそれを感じた。ただ、じゃあこの本が「ままならなさ」に対抗したり付き合っていったりするためのハウツー本かというとそうとは言えない。暮田さんが通ってきた道や使っているやり方は普遍性のあるものには見えなかったから。でも、「こういうやりかたでままならなさと付き合っている」という話を聞かせてもらうというのは、真似できるかするかとは別にそれそのものが心強くて嬉しいことじゃないの、と思う。

自分にもままならなさはあるけれど、それはそんなに切実な存在ではなくて、言ってしまえばこの社会という仕組みや環境のなかで自分は生き延びれているほうだと思う。“人間”が上手じゃないところもあるけれど、それでも大した傷も負わずにずーっと元気に暮らしている。でも、だから想像にしか過ぎないけど、それでも、この本が本当にすごくすごく大きなお守りになる誰かがいるように思うし、そういう人のために書かれた本という面もあるのだろうなと思っている。あとがきの最後に「次は、あなたが川柳に出会う番です。」とあって、これは必ずしも川柳とは限らない「あなたにとっての川柳」を指しての言葉であり、かつ“それ”が川柳だったら嬉しいという願いの潜んだ言葉なのだろうと解釈しています。

好きな箇所の話をします。

過去に散らばったコミュニケーションの齟齬そごにまつわる記憶、急に大人が怒鳴り出した記憶が、「ASD」という言葉を目印に整列しはじめた。自分と同じような理不尽な目に遭っている人間がほかにもいるとわかることが、これほど心強いとは思わなかった。ノンバイナリーかつアロマンティックだが、「いわゆるノンバイナリー像」や「いわゆるアロマンティック像」に当てはまらない部分が多くあるわたしにとって、帰属意識を持てる属性がはじめて見つかった瞬間だった。

(暮田真名『死んでいるのに、おしゃべりしている!』収録「ワレワレハウチュウジンダ」)

エッセイ全体どころかこの文章全体の話ですらなくて申し訳ないと思いつつ、マーカー部分のようなことを他の人の口から聞けるのが嬉しくてつい「おっ!」となってしまいました。自分はアロマンティック・クワロマンティック・アセクシュアルを自認しているけれど「いわゆる」的な位置にはいないんだろうなということをなんとなく感じていて(最近はそもそも「いわゆる」ってそんなに強固なのか?とも思っている)(が、これは積極的に他者の声に触れていないからかもしれない)、帰属意識を持てないというほどではないけれど、でもたとえば「アロマンティックが主人公の物語」に触れて(自分とは全然違うな)というへこみ方をしたりもするから、そういうひとが他にもいて、その話をしてくれるのが嬉しかったです。

まえがきの全文公開もあるので気になる方はぜひ。


歩きスマホをしていると散歩中のダックスフンドを見逃してしまうので良くないな……と気づきを得るなど。

5月7日の日記

ああこれもきみの魔法か 毎日のしあわせを願われていること  眞鍋せいら『人魚と林檎』

ああこれも真水の比喩か、透きとほるグラスに冷ゆるレモンの輪切り  濱松哲朗『翅ある人の音楽』

最近読んでいた歌集と、最近読みはじめた歌集で、詠いだしが重なる短歌があっておっと思いました。〈ああこれも○○の○○か〉という形は珍しいというほどでもない気がするし、かといってかぶって当然というほどでもない気がするし、ちょうど「おっ」という温度感でした(自分が知らないだけでそれぞれ同一の短歌を先祖に持っている可能性はある)。

二首から感じる手触りは自分のなかでは結構違って、〈ああ〉の声のトーン/感情からして違って感じるな~と面白く思いながら並べて眺めています。

せいらさんの短歌について、〈きみの魔法〉は①きみが“私”にかけてくれた魔法、②きみが誰かにかけてもらった魔法、の二通りで読めるかなと思うのですが、短歌外の情報がどうにも混ざってきてなんとなく①のイメージで読んでいます。嬉しい魔法を他にも君から受け取っているなかで〈ああこれも〉という気づきのシーン。魔法は比喩と実景の間のようなイメージで受け取っています。ファンタジー世界の話というわけではなくて、願うことが魔法そのものに連なる行為だというような。〈ああ〉はしみじみとした喜びのイメージ、キラキラした昼下がりの光に溢れる情景をイメージしています。

濱松さんの〈ああ〉は嬉しいとか悲しいとかの強い感情ではなく平熱に近いような、あるいは強いて言うなら諦念のようなイメージで受け取りました。飲食店のお冷でレモンの浮かんだものを提供しているところがありますが、〈透きとほる〉以下からはそれを思い浮かべました。〈真水〉は混じりっ気のない水を指す言葉なのでレモンの浮かんでいる水は真水には当たらないはずなのですが、これが〈真水の比喩〉になるというのはわかるなあと思います。飲食店のお冷のようなシーンにおいて、レモンはむしろ水──良い水としての水の純度を高めるための存在とでもいうようにそこにいて、だから〈真水の比喩〉として成り立つ、という。それでどうして〈ああ〉に諦念を感じるかというと具体的な根拠はないのですが、〈ああこれも〉から“私”がそこに欺瞞を感じ取っている、という印象をもらったからかもしれません。〈も〉は〈真水の比喩〉にかかっているのではなくて、〈比喩〉というテイでそれそのものではないものが幅を利かせたり、その意味を拡張させたりしていくことに対するそれなのかなと。それを“またか”というあきらめのような感情として受け取ったのかな、と思っています。

せっかくなのでそれぞれの歌集の好きな短歌も紹介します。

眞鍋せいら『人魚と林檎』

ときどきは花の降る日もあるでしょうわたしたちみんな遺されたもの

習わねば泳げもしない生き物に成り果ててからの何億の夜

絶望をしてもおなかが空くことの優雅さ 三月は羊のように

二首目、幻想的なイメージが実感をもってするりと呑み込めてしまう、不思議な印象で好きな一首です。転生を連想しはするものの、〈成り果て〉た状態で生まれついたこの生を振り返る手触りを同時に思います。だとしても〈何億の〉は人間一人の人生におさまるスケールではないので、個人の生というよりは人間という種族を振り返っているのかなという広大さを感じます……と書きながら、魚類から人類へという進化を思い出したりもしました。そうして進化して何になる、どんな立派な存在になれたのだ、という眼差し。

三首目は好きとは少し違って、〈優雅〉という語彙や感覚をせいらさんの他の短歌でも見ることがあって、ちょっと気になったのでメモの気持ちもあっての選出でした。自分では使わない語彙だし身近じゃない感覚だから気になるのかな。羊、ふわふわしていて可愛いなと思うと同時、供物のイメージがよぎってドキッともします。

濱松哲朗『翅ある人の音楽』

海沿ひに住めばやさしくなれさうな気がして、気がするだけで終はつて

随分ととほくまで来た 自転車でどこへでも行く大人になつて

吊り革が額をつつく 厄介なひとと思はれ出してうれしい

一首目、分かるなあという気持ちと(でもそこなんだ)という気持ちがあって印象に残りました。〈海沿い〉というシチュエーションにはなんとなく素敵なイメージがあります。そこに〈住めば〉と理想を思い描く感覚に共感しつつ、そこで出てくるのが〈やさしくなれさう〉なんだなあ、というのが印象的でした。穏やかな暮らしとか楽しい暮らしとかじゃなくて、暮らしを描くんじゃなくて、自分が優しくなれるんじゃないかというところに期待を抱くんだ、という。〈気がするだけで終はつて〉というのは、実際に引っ越しても優しくはなれなかったというのではなくて、そういう風に考えただけでそのままの生活が続いていくだけだった、という風に読んでいます。

三首目、一字あけの後がどうにも好きだし、見て見てという気持ちで引きました。自分はこの〈厄介なひと〉について、“何かのために抗うことで厄介扱いされている”という風に読んでいて、つまり〈厄介なひとと思はれ出してうれしい〉は、“私”は厄介扱いされても抗っているし、抗える自分であることを肯定的に捉えているんだなと思って、嬉しくなります。抗うというと強いて戦っているように聞こえるかもしれないけれど、“今ここ”の不合理や居心地の悪さや不平等を無視するほうが不自然で苦痛で、抗うほうが“私”にとって自然で居心地が良いのではという気もします。なんとなくのびのびした印象があって、ちょっとうきうきして、「いいぞ、やれやれ!」とか「一緒に厄介な存在でありましょうね」みたいな気持ちになります。


斉藤倫さんが「さく」の一人にいる絵本『まちがいまちにようこそ』を読む。斉藤倫さんは『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』ですっかりファンになってしまって、著作を見かけるたびに少しずつ読んでいます。『ポエトリー・ドッグス』も大好きです。

いわゆる言葉遊び絵本なのですが、「いちめんの あなばたけ」「いぬほり の きせつ」といった言葉遊びが、遊ばれた言葉のまま絵になっていて、それがすごく面白い一冊でした。あとは動物たちがあんまりにこにこしていないのが印象的で、絵本ってなんとなくにこにこ楽しい雰囲気のイメージがあるので、くままわしのくまや、てあみのちーたーがフラット気味な表情をしているところに味を感じて、そこもいいなあと思いました。まちがいまち、ちょっと旅行しにいってみたいです。

5月9日の日記

6日の日記で感想を書いた『駅から徒歩138億年』の岡田悠さん作のアプリDokokaで散歩してきました。とても楽しかったのでお散歩レポートを公開しています。

方向と距離だけを頼りに匿名の「どこか」を目指すことで思いがけない散歩体験ができてとっても楽しく、今後もお世話になる予感がしています。

5月16日の日記

夕方からDokoka散歩第二段を決行。一日中引きこもってしまったので、夕飯がてらに少し歩いてきました。前回(初回)はブラウザ版を使ったのですが、新たにAndroido版がリリースされ、到着データは引き継げる一方で「現在の目的地」が引き継ぎにならないようだったので、せっかくならとブラウザ版で表示されている目的地に到着してからアプリ版を使いはじめようと思ったのでした。

今回の目的地はスタート地点である自宅から1キロほどの場所で、前回ほど迷わなかった気がします。徒歩だったのでルートを微調整しやすかったのもあるかも。ただし「あとは直進するだけ!」と思って歩いていたら目の前を横切る形で線路が現れたときにはoh……と思いました。そのあたりを電車が走っていることは知っていたのに! もっと近所を攻略していかなくては、と思います。

場所としては最初の目的地と近いところに設定されていたようで、それも面白かったです。目的地までの距離がだいぶ減ってから鳥居が見えたとき(前回空振りだったあの神社か……!?)とひらめいて慄く一幕がありました。実際は別の場所でした。

夕飯は少し前にできたラーメン屋にて。ちょっととろっと感のあるスープとチャーシューが好みで(スープに生たまねぎが入ってるのも美味しかった)、家からも近いしまた来ようかなと思えたのが嬉しい収穫でした。ご飯ものとしてチャーハンがあればさらに嬉しかった……!

5月17日の日記

  • 自作短歌の「自分のどこから出てきたか分からないやつ」の愉快さ。

  • 短歌の“私”について、職業や年齢といったプロフィールは架空でバリエーションを作ることもできるが、作品に内在する価値観は作者から離しがたいという点でバリエーションになり得ていないのでは……という論(うろ覚え)に対して、文体のバリエーションという視点があるのではないかとふと思う。

5月21日の日記

先日投函した手紙が切手の貼り忘れで帰ってくる。2マス戻る。


どっくーんと詠むよ オモコロ原宿短歌100連発を配信で見る。すごく楽しかったし素敵な短歌も多かったのであらためて感想を書きます。絶対だ。本当はアーカイブ期間中に書きたかった……!!

5月22日の日記

退勤後、帰りたくないな~の気持ちで散歩に繰り出す。Dokoka散歩第3弾です。

なぜ帰りたくないな~だったかというと、明日から一泊で県外に出かけるので、帰ったら荷造りをしなければいけないからです。県外へのお出かけ、ひさびさの一人旅だし楽しみではあるんだけど、なにせ100%自発意思によるお出かけではないので……義務が混じっているお出かけなので……ということで、明日が近づいてくるから帰りたくないな~からの散歩なのでした。

今回の目的地はなんとなく目星がついていました。前回到着後に入れ替わりで設定されて、帰宅後に確認したタイミングで(あそこでは……?)という心当たりが生まれ、その後に通勤退勤のたびに使う交差点で確認したときに(あそこではなくこちらでは……!?)と調整が入り、じゃあせっかくなら歩きはじめてからは画面を確かめないようにしてみようと歩いてみました。さすがにノールック散歩ではなかったのですが、ラスト900メートルくらいはスマホの充電が危うかったこともあって画面は見ずでした。

今回の散歩で面白かったのは、残り900メートルくらいのとき、矢印の先は目の前の道の直線上ではなかったのですが、道からちょっと角度の逸れたほうに目をやって「900メートルってことはあの辺かな……」と見渡したりしたことです。当たり前の仕草かもしれないけど、これは前回までにはしなかったなあと。なぜなら前回までの散歩たちで通った道は住宅の間で見晴らしが悪く、「だいたいあの辺」と遠くに視線をやるのが難しかったからです。見晴らしの悪さに加え土地勘のないあたりだったこともあって、画面と道とを首っ引きで見比べるように歩いていたのですが、もっと画面を見ないスタイルで歩くのも面白いなと。n回しか画面を見ちゃいけないDokoka散歩もやってみたいな。

もう一つ面白かったのが、県道を歩いていて経路案内の標識(青い四角い白文字のやつ)を見かけたときに「へ~○○県まで200キロくらいか~」と思い、その「200キロか~」がDokokaに表示されている「目的地まで1.3キロ」の延長線上にあるような感覚になっていて、こう、この看板の白い矢印のほうにまっすぐまっすぐ200キロ歩いたら二つ隣の県に行けるんだなと思って、その感覚が面白かったです。実際に歩けるかどうか、歩くかどうかは別として、歩くこととつながるものとして自分のなかにその情報が入ってくるんだ!みたいな。

目星をつけていた場所が本当の目的地で、なかなか自分の目測も捨てたものじゃないなと思い、一方でその目的地が一つの区画のなかに複数の“目的地になりそうなもの”があるところだったのですが、その端にたどりついて残り120メートルと表示されたときに(じゃああの辺か……)と思ったら60メートルくらい通り過ぎてしまっていて(じゃあこのくらい引き返してここか……)と思ったらまたしっかり40メートルほど通り過ぎていて、100メートル前後の距離なら25メートルプール換算でなんとなくつかめるような気がしていたのですが、全然そんなことはないんだなという発見もありました。

今日のルートには咲きかけの紫陽花があり、小ぶりで色づきかけの枇杷があり、綺麗に熟した茱萸があり、もさもさのゴールデンレトリバーがいました。枇杷と茱萸は祖父母の家での思い出と結びついていて、遠く離れた土地でも会えると嬉しい気持ちになります。

荷造り、大雑把にしか終わってないですが今夜はもう寝ます。

5月23日の日記

ホテルでアメニティの紅茶を飲もうとして(あえてきちんとカップを温める……)と思って一度カップにお湯を注ぎ、それを捨ててから紅茶を淹れたのですが、飲み終わってカップを洗う段になってプラスチック製だったことに気づきました。熱伝導率〜!?


今日はDokoka散歩で二ヶ所を巡りました。本当は一ヶ所だけのつもりだったのですが、到着までかなりうろうろしたことで(もっと上手にできるはず……!!)と火が点いてしまい……Dokokaのランダム性や「思うようにいかなさ」を気に入っている一方で「上手くやりたい」という気持ちも生まれており、複雑だなあと思います。なまじ地図が読めることに自負があるせいで、Dokokaも上手くやりたくなってしまうのかもしれない……

一ヶ所目はとにかく方向が曲者で、おおよそこっちだろうと思って歩いたら全然違うところを矢印が指している、ということを何度も繰り返しました。これは自分の目測のつけ方がうまくないのもあると思うのですが、位置情報が反映されきる前に画面を消して移動してしまったせいもあるかなと思います。こうして少しずつ攻略していくぞ……

あと昨日、いったん道を無視して矢印方向にまっすぐスマホを向けてみるという技を得たはずなのに、途中まですっかり忘れていて悔やまれるところでした。三角関数とか連想してる場合じゃない。


デイリーヤマザキでバター餅と梨ウォーターを買う。

梨ウォーターはオモコロチャンネルのデイリーヤマザキ回(俺たちはデイリーヤマザキのことを何も知らない)で聞き覚えがあったのでおっと思うと同時「まだあったんだ!」とビックリするなど。件の動画が2年前投稿だったのに加え、バズ商品の文脈で言及されていたので、なんとなく期間限定商品のように思っていました(※オモコロチャンネルには梨ウォーターの実物は登場していなかったので、当時のそれと自分が見たものは別物の可能性もあります)。味について、梨の再現度という観点から見るとう~んと思うところがありますが、甘さとさっぱり感がちょうどよく、今の時期やこれからの時期に嬉しいなという印象でした。

一方のバター餅はカレー沢薫さんの『ひきこもりグルメ紀行』で知って以来気になっていたのでこちらもおっと思ったのですが、「台湾で今話題の味」といったポスターを見かけてあれ?となるなど。『ひきこもりグルメ紀行』は国内のご当地グルメを取り寄せて味わうエッセイだった気がするけど……?と思いつつ確かめてみたところ案の定別物だったのですが(『ひきこもりグルメ紀行』で紹介されていたのは秋田県のバター餅。こちらもいつか食べてみたい!)、デイリーヤマザキのバター餅も美味しかったです。外側はバターたっぷりでカリッジュワッとしていて、中心部分はほんのり甘いお餅という感じでした。また食べたくなった時に手に入れられるお店が近所にあるのかと思うと切ないところですが……


昼ごはんをどうしようと思い、ふと目に入った魁力屋というラーメン屋はオモコロ絡みのどこかで見た気がするなと思って入ったら「いらっしゃいませ!!」の声量がすごくて少し後ずさってしまいました。後ずさったのはやや誇張表現ですが入口のドアに手をかけたままちょっと動きを止めてしまった。退路の確保。

これは声を小さくしろという話では全然なくて、こういう威勢がいいタイプのお店に近年全然入ってなかったなという気づきと、大きな音が人より苦手なのかもな〜そんな気はうすうすしていたが……の話です。なんなら映画館も慣れるまではちょっとうるさく感じるので、最初は少し我慢のターンが入ります。


持ってこようと思っていた本(※資料的な意味合いで)を一冊忘れていたことに気づき、必須ではないけれど手元にあった方が心強い……となり、カーリル(都道府県ごとに図書館の横断検索ができる)と日本の古本屋(いろんな古本屋さんの在庫を横断検索)を経て無事ゲットしました。

カーリルで近隣の蔵書が見つからず(この本は刊行が古めだし内容もニッチだから図書館の所蔵はそうそうないよな~……“刊行が古い”……!?)と閃いて日本の古本屋の検索をかけたとき、自分って冴えてるなと思いました。日本の古本屋さんのことを普段は通販サイトとして捉えているので(ここで在庫を確かめて直接買いに行けばいいのでは!)と閃いたのは我ながらファインプレーでした。

5月25日の日記

「スベスベ」を「ドスケベ」に空目して、(これをそのままSNSに投稿するのはやや……憚られるな……)と思い、(しかしこのくだらなさのためにふせったーのワンクッションをクリックorタップさせるのも憚られるな……)と思い、最終的にここにきました。ドスケベ蟹なんていなかったんだ。


国家情報局設置も反対だし、経営・管理ビザの資格取得のための資本金要件引き上げは今からでも撤回すべきだと考えるし、OTC類似薬の自己負担増も反対だし、先島諸島(沖縄県の離島)の全島避難計画ってどうしてそんなことになってるんだすぎるし、なんかもう一回全部立ち止まりませんかと思う。

投票したら終わりじゃないから、政治家に全権委任で丸投げするわけじゃないから、おかしいと思ったり反対を伝えたかったら意見を送るけど、あまりに意見を送る回数や「これはおかしい!意見を送ろう!」と呼びかけ合う頻度が高くて、もう少し手放しで任せられる人に政治を任せられないものだろうか……と思うよ。

5月27日の日記

風が気持ちよかったので退勤後にDokoka散歩をする。1キロ以内のお散歩モードで目的地を設定してもらったら、36メートルの表示でほぼ到着しているようなものだった。(もしや……)と思うまでもなく職場に戻されて笑った。

これじゃ散歩にならないじゃんともう一ヶ所出してもらったら120メートルくらい先に次の目的地を見つけてくれて、こちらはそこそこうろうろ歩き回ったのだけど(もっとうまくなりたいという気持ちふたたび……!)、結局職場のなかの別地点に戻されてしまったので、今日はさっさと帰れという思し召しなのだなと思って帰ることにしました。

帰って風呂に入ってチンジャオロースもどきを作って食べました。美味しかったです。

5月29日の日記

衣替えをしてから下に履くもの(いわゆるボトムス)がなんとなく足りないなあ、なんでだろうなあと思っていたのですが、去年は割とスカートの気分だったのに今年はそうでもなく、つまり去年ローテーションに入れていたスカートを今年は頭数に入れてないせいだなと気づきました。あとズボンも一本ゴムがゆるくなりすぎて部屋着オンリーにしたのでした。

でも去年買ったデニム地のワンピースはこの時期によさそうで、ズボンと組み合わせたりしつつ外に連れて行きたい気持ちはある。そうします。

5月31日の日記

マンスーンさんの『まだ夜な気がしてる。まだ7時な気がしてる。まだ土曜日な気がしてる。まだ家にいてもいい気がしてる。まだ仕事しなくてもいい気がしてる。まだ働かなくてもいい気がしてる。まだ15時な気がしてる。まだ4月な気がしてる。まだ26歳な気がしてる。まだ22時な気がしてる。本当はもう朝になろうとしている。』を少し読む。だいぶ前に買って、少し読んで、置いて、読んで、置いて、読んでということをしている。

なんとなく少し怖い本と感じていて、なんでだろうと思う。いわゆるホラーやサスペンスジャンルの本ではないし、ジャンルの話を置いておいても「怖さ」で売ってたり、それが特徴になる本ではないと思う。版元ウェブサイトによれば「(略)2018年より約7年間にわたってTwitter(現 X)に投稿された“日記のような何か”の全貌」で、実際読んでいても“日記のような何か”だなあと思う。のに、どことなく怖さを感じる。だから一気に読めない、というのもある。

なにに怖さを感じているのか、それが本当に「怖さ」なのか、探りたいなと思っています。


疲れているし寝たほうがいいのに、夜更かしして少しだけの日記を書いている。

5月某日の日記

手を握っていてほしいという気持ち。来週あたりに山……ではなく街、所用で見知らぬ街に行くので手を握っていてほしいなという気持ちがむくむくと沸いてきました。でも自分がどうして見知らぬ街に行くことになっているのかと言えばお世話になった先生の助太刀をするためで、つまり自分がその先生の手を握りにいくわけです。

ここまで全部比喩です。手を握っていてほしいことだけが本当です。

人の手を握るとき、自分の手を別の誰かに握っていてほしいというのは不誠実なような気もするけど、でも実際のところってそうじゃんとも思います。

今月分のまとめ

6月6日の夜に書いています。今月の日記、清書前は9,000字くらいだった気がするのですが、気づけば結構な長さになっていて驚きます。本の話題(感想)が多い月だからかな……?

5月は思い返せば移動の多い月でした。ゴールデンウィークの帰省に始まり、他にも2度県外に出ています。あとDokokaを使いはじめてはしゃいでいるのでお散歩もしています。平日にも散歩ってできるんだな、というのは良い発見でした。

ここ一週間くらいちょっと疲れ気味で生活を取り戻さねばと思っているのですが、これは全然6月に入ってからの話ですね。これから梅雨も始まるし気温も上がるはずなので(書いているだけでげんなりしますが)、元気に頑張っていこうと思います。

@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。今はまっているのはツイステとオモコロと匿名ラジオです。短歌で楽しいことをするのが大好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop