この記事を書いてからつらつらと考えていたら、僕がソフトウェアエンジニアリング、特にアジャイル開発が好きな理由も、人間系という自然をいかに活かし、美しく構成するか、という取り組みだからなのではないか。そういうことを思い始めた。
いや、まあ眉唾っていうか、まあそういうこともあるかもしれないね、レベルの話ではあるんだけど。
この記事で書きたいのは、そこから派生して、責任の話。
ずっと、ビジネスの文脈における「責任」というものが苦手というか、嫌いだった。
人はきっかり人ひとり分の責任しか負うことはできない。言い換えると、それぞれの人には、きっかり人ひとり分の責任がある。以上。
だから、○○に責任があるとかないとかいう議論は内心ナンセンスだと思っていたし(結論がはじめから明白だから。いつだって人が担えるのは人ひとり分の責任だよ、以上)、特に「責任者」みたいな考え方が苦手だった。「組織長であるからには、組織のことに責任がある」みたいな。
「組織に対する責任」とかいう謎の概念を背負わされたくないから、組織長的な立場には立ちたくないまであったと思う。あったと思うというか、おおむねそう公言していたかな。(そういう機会があればだけど)
ところが今日、自然と芸術、そしてソフトウェアエンジニアリングのことを考えているうちに、責任ってあるのかもな、ということにはたと気づいたのだ。
まあ、もともと「必要悪」みたいなものだとは思っていた。言葉の定義というか、解釈のしようによっては、人ひとり分以上の責任というものも存在しえて、まあ、目的によってはそれが必要なケースがあるのかもしれないね、程度には。
でもなんだろうな、もうちょっと積極的な意味を見出してもいいのかも、と思たのだ。
人間系という自然を目的合理的に構造化するにあたって、責任という概念がけっこう役に立つ。この「目的合理的に構造化する」というのは、「自己組織化の力を目的のために活かす」と言い換えてもおおむね問題ない。
そうだな、わかりやすく「CTO」のことを考えてみようか。技術組織の責任者だ。
CTOは技術組織に責任を持つ。あるいは、技術戦略に責任を持つ、とかかもしれないが、そこの細部はそれほど重要ではない。
CTOが存在できるのは、技術組織に責任を持つからだ。逆ではない。つまり、CTOであるからには、責任を持たなければならない、という順番ではない。ある人が、技術組織に責任を持つことによって、CTOという立場が初めて存在しはじめる。
なぜなら、責任を持たない人を、人はリーダーとみなさないからだ。技術組織のリーダーとみなされなければ、CTOは務まらないだろう。
僕はこの「責任を持つ」という言葉を、「コミットメント」という言葉と近い意味で使っているようだ。技術組織へのコミットメントがあるから、CTOが務まる。それは「技術組織に責任を持つ」ということとほぼ同義だ(と思う)。
そして、ここまで省略していたが何より重要なこととして、CTOは役に立つ。CTOがいることでうまくいくことというのが色々とある。必要なのだ。その必要なものに、何より先立つと言っても過言でないのが「責任」であれば、それが全面的に悪であろうはずもない。
いや、ここまでの議論で論理的には悪の可能性を別に否定できてはいないんだけど、悪でない可能性を考えてみてもよかろう、と思えたという話。
CTOがいることで、チームの自己組織化は断然機能しやすくなる。そういう実感がある。おそらく、いなくても不可能ではないだろう。ただ、いることによってうまくいきやすくなる、そういう側面は否定しがたい。それが先述した「人間系という自然を目的合理的に構造化するにあたって、責任という概念がけっこう役に立つ」ということの意味だ。
さて、「責任を持つ」ことと「コミットメント」は(もちろん)厳密には同義ではないはずなので、どういう違いがあるのだろうか、とか、「組織に対する責任」以外の文脈でも同様の議論が成り立つのだろうか、とか、色々と話題の広げようはあるけど。
今日はここまでにしておく。