こちらの続編です。
「責任を取る」という言葉がある。「部下の自主性に任せて、責任だけ取るのがいい上司」みたいな言説もあったりする。(この言説の真実性はここでは問わない)
責任取るってどういう意味なんだ、と昔から思っていた。
冒頭の記事にも書いたように、人は人ひとり分の責任しか持てないと思っている。
だから、そうだな、わかりやすい例として、ある会社で、ある人(仮に「Tさん」と呼ぼう)の部下がとんでもないミスで1000億円の損失を出したとして、その上司(「Tさん」)が「申し訳ない、私の責任だ。責任は私が取る」と言ったとしよう。
どうやって取るんだろう。Tさんが一生身を粉にして働いたとしても、たぶん1000億円は稼げないんじゃないかな。その可能性は高いと言わざるを得ないだろう。そんなTさんという人ひとりが、どうやって「責任を取る」んだろう。それが、僕が言う「人は人ひとり分の責任しか持てない」というフレーズの意味だった。ざっくり言うと。
でも、冒頭の記事にも書いたように、責任という概念には不思議な力がある。世の中の人びとは、Tさんの「私の責任だ。責任は私が取る」という言葉の意味をそれぞれなりに理解し、納得しているように見えるのだ。だから、責任という言葉には価値があるらしい。
Tさんが言っているのはどういうことなのだろうか。
おそらく、Tさんは会社内で、絶大な信頼を得ていたはずだ。「部下に1000億円の損失が出うる案件を任せる」という行為が可能な程度に。
そこに「責任を取る」という言葉の本当の意味があると思う。
信頼されている人物のコミットメント。これを、「責任」という言葉への僕なりの当座の理解としたい。
Tさんは、信頼されている(少なくとも、信頼されていた)からこそ、Tさんの「責任を取る」という言葉には意味が生まれる。事前にも、事後にもだ。
逆に言うと、信頼されていない人物は責任を取ることができない。どういうことか。
今日新卒で入社した新入社員、仮にNさんとする、その人のことを考えてみよう。Nさんが「みなさん初めまして。さて、X事業に1000億円投資しませんか。責任は全面的に私が取りますので」と言ったとする。もちろん、Nさんに責任など取れるはずがない、ということは直感的にわかるだろう。
しかし、なぜわかるのだろうか。
上司のTさんには責任が取れ、部下のNさんには責任が取れないと考えるとき、人はその人に寄せられている(寄せられてきた)信頼の大きさを見ている、と思うのだ。
いやいや、Tさんの方が高い役職についていて、給料が高いからではないか。その立場を危うくすることこそが責任ではないか、と思う人もいるかもしれない。
それもなくはない。ただ、極論Tさんの一生を棒に振っても、おそらく純粋な金銭価値として1000億円には値しないのだ。極めて下卑た言い回しで恐縮だが……。
これは、「辞めて責任を取る」という行動が「いけてない」場合があることの説明にもなっていると思う。その人一人が辞めたところで、別に大したことではない、かもしれない。
人が「責任を取る」ときに本当に求められているのは、「受けてきた信頼と、責任の大きさに値する行動」だ。
結果的にそれが「辞める」ことである場合もないとは言わない。ただ、そうであるケースは実は結構少ないのではないか、と思っている。たとえ1000億円の損失の責任であったとしても、いやむしろ、1000億円の損失の責任であればこそ、と言うべきかもしれない。
ところで、1000億円の損失を出してしまった「Tさんの部下」は、その行為の責任が取れるのだろうか。
もちろん取れる、と僕は考えている。人は人ひとり分の責任をもともと負っている。「Tさんの部下」の行動の結果は、良し悪しや程度によらず、原則的にTさんの責任だ。
だから、俗に言う「部下の自主性に任せて、責任だけ取る上司」における「責任」というものは、僕が言うところの「人ひとり分の責任」とは違うものなんだな。
同じ言葉が使われているから、ずっと混乱していたわけだ。
改めてになるが、僕は当座、ビジネスの文脈における「責任」という言葉を「信頼されている人物のコミットメント」と理解しようと思っている。
もし、よりよい定義をご存知の方がいらっしゃれば、教えてもらえると嬉しい。