(前回の続き)結局看護師として再就職した。キリスト教と関係ない一般の病院だ。まず驚いたのは、「聖書」や「祈り」が一切ない出てこないことだった。当たり前だけれど。ハレルヤとかアーメンとかの教会用語も出てこない。それが教会に辟易していた自分にとって、どんなに楽だったことか。
同時に自分がいかに教会用語や、いわゆるクリスチャンらしい所作に染まっていたか気づかされた。そして信者でない人たちを「この世の人たち」とか「滅びゆく魂」とか「さまよう羊たち」とかと見下げていたことを。
そんな一般の人々に、教会解散後はたくさん助けられた。とにかく「普通」なのが良かった。「普通」でいられるのが良かった。クリスチャンは「傲慢の罪」に敏感なはずなのに、なぜクリスチャンであるというだけで、そこまで上目線になれるのか。なぜ信仰を持たない人たちと、信仰を持つ自分たちをそこまで「違う」と言えるのか。何も違わないのに。
むしろ視野が狭まって根拠のない選民思想に毒されている分、クリスチャンの方が偏屈で、嫌な奴で、付き合いづらいのではないだろうか。
教会解散後の日曜は、あちこちの教会の礼拝に行ったり行かなかったりした。普段の生活では聖書を開かないし、祈らない(祈れない)。礼拝では賛美を一切歌わない。いや、歌えなかった。(次回に続く)