信頼、身体

hal9777
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公開:2024/7/15

今日は、髙橋ミナミさんが出演される「ドリーム声優オーディション」というショッピングモールのイベントスペースで開催されているイベントに参加した。無料だというのにものすごく間近で観れたし、メインの声優オーディションが存外面白かった。

亀有のアリオが会場だったのだが、駅に着いてスマホで地図を見ようとしたら、スマホの液晶が死んで真っ白になって辿り着けないかと思った。駅から真っすぐのところでわかりやすくて助かった。一日くらいスマホ見なくても問題ないが、ランチに入った店がモバイルオーダーで困った。スマホが壊れていることを伝える必要もないかと思ったが、咄嗟についた言葉が「スマホ持ってなくて…」で、奇異な目で見られる羽目に。充電がないとかで良かっただろうになぜ。そもそもあのスマホでオーダーさせるシステムはなんなんだ。

イベントはラジオとオーディションの二部構成。またしても、たかみなさんは話し上手だなあと思わされた。話し上手というと、自ら切り出して話を進めるタイプと、話を拾って広げるタイプとがあるだろうが、彼女は比較的後者で、しかもそこから笑いも起こしているのですごい。オーディションでの話にもつながるが、要所要所で身体的な動きがあるのも話を弾ませるのに一役買っているのではないだろうか。

オーディションにはファイナリスト7人、子どもから大人まで、今回は女性のみが残ったようで、オーディションの役が11歳の男子小学生というのは少し可哀想ではあった。大変失礼ながら素人と舐めていた部分はあったのだが、全員予想をはるかに超える上手さだった。ただその中でも一人群を抜いていた方がいて、やはりというべきか、彼女がグランプリになっていた。

ナンシーの『嘘の真理(ほんと)』での話にも通じるが、演技というのは、嘘(フィクション)を本当のように思わせること、信を与えること(donner sa foi)であり、つまりそのフィクションの世界の中では真理、本当のことであるように信じさせなければならない。「セリフっぽい」というのはまさにそれに失敗し大袈裟になっている/見える/聞こえる状態である。他方で、我々観客もそれを現実だと錯覚することもないし、フィクションであると知って/信じている。したがって、フィクションを創作する側もこのこと(観客が嘘だとわかっていること)を知りつつ、本当のように思わせる必要がある。ここに必要となるのは、ある種の双方向的な信頼である。換言すれば、観客が創作者に、創作者が観客に「これが嘘である」という共通理解を暗に持つことの信頼。フィクションであるとわかっていながら、真理(創作物)を示す上での。この塩梅、つまり大袈裟すぎずそれでいて本当らしく伝えるという点において、グランプリの彼女が最も長けていたように感じ、そこには信頼関係があったのだと思う。

演技には観客への信頼が必要なのである。このことは声優が一番むずかしいのではないだろうか。声優は声でしか伝えることができないのだから。しかし興味深いことに、審査員の音響監督と髙橋ミナミさんから身体の動きに関して話があり、動きは声に乗るという。これは経験者にしか理解できない感覚なのだろう。そういえば、エロマンガ先生だかのときの話で、大西さんが「たかみなはアフレコ中よく動く」と述べていたのを思い出したし、彼女自身も全身が疲れるくらい動くという話も過去にあった。声のみによる信頼の構築に、身体全てを使って臨んでいることがほんの少しわかった。ここで上のトークの話に戻るが、体を使って喋るということに身振り手振り以上の意味、つまり声そのものに身体性が宿るということがあるのではないか、と思うと大変面白い。

そして毎度のことながら、今日もたかみなさんはとてもかわいかった。今くらいの外ハネショートの髪型が一番好きかもしれない。ただまだ生で眼鏡姿を拝見できていないのが悔しい。

@hal9777
「誰でもよい、だがほかならぬあなたとともに生きるための言葉を投げつづけなければならない。」伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ ― 投壜通信』(p.146)