朝からずっと雨だし、洗濯物でいっぱいな部屋は狭く感じるし、上の子は風邪っぽくて引きこもってるし、なんだかなぁ…な休日だったので娘の習い事の合間にロイホでお茶してきました。ささやかな息抜き。
面白くてあっという間に読み終えました。
編集や校正の仕事を経て今は翻訳の仕事をメインでされているお二人。言葉を磨き続けてきた人たち。随所ではっとするような表現に出くわします。
“考えるときは「自分のことばで」、書くときも「自分のことばで」、とそればかり考えてきたような気がします。”(くぼたさんの手紙より)
なんかね、良く聞く言い回しとかパッと使っちゃうとき、あるよね。言葉を雑に扱うそのインスタントさを言い当てられた気がしてドキッとしました。
言葉なんて、これだけたくさんの人間が使ってるのだから本当にオリジナルの表現なんてあり得ないんだけど、それでも、この言葉でいいのかな?本当に自分の思ったことを表現できてる言葉なのかな?みたいなことは、ちょっと立ち止まって、いつも時間をかけてでも考えたいなと思う。
「自分のことば」を探すことと、「言葉をケアする」ことはきっと、とても近い。忘れずにいたいなと思います。
斎藤さんの日記魔(?)(手書きとデジタルで何種類もの日記を記してる)なところもめちゃめちゃ面白い。わたしもログを残したい側の人間なので気持ちはわかるけど、飽きずに続けられてるのが本当にすごい。どんな形でもいいからわたしもログをもっと残そう!と謎に決意しました😂
少しずつ自分には理解し難いものになっていくもので、それでも感情を持ち出しながら最後までつきあう究極の「他者」、それが子供かもしれない”(くぼたさんの手紙より)
という言葉にもしみじみ考えさせられました。自分の子供がちょうど思春期で、少し距離を感じる時期で、それは親も子も互いに「他者」であることを知っていく時期なのかなと日々思っています。それでもやっぱり感情は切れないしあり続けるし、いやおうなくどちらかの「最後までつきあう」関係性であり続けること。「最後までつきあう」ためにも重荷にならない関係性を築けたらいいな。
眼鏡は一人でも拭けるけど、人と話しながら拭くとさらに遠くまで見える気がします。
という斎藤さんの最後の言葉、お二人のやりとりを読ませてもらったから、そうだろうな、と思うし、自分もリアルに色んな人と話してもっと遠くまで見たいな、と思いました。
そして当然ながら翻訳家のお二人のお話から、読みたい本が増える一冊でもありました。とりあえず、手元にあるクッツェーの『鉄の時代』読み返そ!