『ファーストボイス』を見た。わたしはこういう史実を元にした社会派映画が大好きで、『1987、ある闘いの真実』や『タクシー運転手』をはじめ軍事政権に抵抗する市民たちを描いた韓国映画や、『ペンダゴン・ペーパーズ』や『スポットライト 世紀のスクープ』などジャーナリストたちの闘いが描かれたもの、『コールジェーン』『ドリーム』など女性たちが権利を獲得してきた歴史フィクションも好きだ。
だけどそういう映画は日本ではあまり見ないなぁとずっと思ってた。日本には語るべき物語がないんだろうか?
そんなことはない。日本にだって映画化して語られるべき物語はたくさんあって、だけどそれを私たちはまだ知らないだけなのだ。と、本作『ファーストボイス』を観て改めて思った。そして語られなければ、教科書には載らないような市民の歴史はすぐに忘れられてしまうものだということも。なぜならわたしは本作を見るまで本作の元となった日本初のセクハラ民事裁判、福岡セクシャルハラスメント事件のことをまったく知らなかったのだから。
セクハラ裁判今昔〜『ファーストボイス』と『リーガルビート』
映画を見て最初に意外に思ったのは、ハラスメントの内容が身体的接触や性行為の強要ではなく、被害者に対する誹謗中傷などの環境型セクハラだったことだ。残念なことに2027年の現在においても権力勾配を悪用した性加害のニュースが後を絶たないせいか、とくに最初の裁判なのだからドン引きするような身体接触のハラスメントだと勝手に思い込んでいたところがある(とはいえ被害者が退職させられているので損害はもちろん大きいのだけど)。
前クールで『リーガルビート』という法廷ドラマがあった。『ファーストボイス』にも出演している鈴鹿央士君が主人公で吃音症の新人弁護士を演じている。そのドラマの6話ではある暴行を巡って若手男性社員が中年パート女性を訴えるという裁判が描かれるのだが、その原因となったのは男性から女性への性的なからかいや特定の業務押しつけなどの環境型セクハラが横行していたことが明かされる。
『ファーストボイス』(と福岡セクシャルハラスメント裁判)で裁判が始まったのは1989年、つまり27年前なのだけど、そのころ原告の上原恵さんが劇中で散々言われていた「そのくらい我慢しないと」という呪いの言葉は今も被害者たちの声を阻んでいる。
『リーガルビート』のセクハラ被害者の中年女性も、そして同様の嫌がらせを受けていた他のパート仲間も、「今までずっと我慢してきたんだから」「こんなおばさんがセクハラなんて」と声を上げるのをためらってしまう。これはフィクションだけど現実も同じであることを私たちは知っている。『ファーストボイス』のあとに『リーガルビート』の6話を見返すと、7年経った今も変わらないのだとしんどくなる一方、『ファーストボイス』では見られなかった大きな連帯が描かれて胸が熱くなる。変わらないこともあるけれど変わったこともあるのだ。
(『リーガルビート』はアマプラにあるので未見の方は見てみてください。『ファーストボイス』では被害者のために法廷で証言に立った鈴鹿君が『リーガルビート』では弁護士として法廷に立ちセクハラ被害者のために弁論を奮う姿に胸熱です。)
声を上げた人を一人にしない
ファーストサマーウイカさん演じた上原恵さんが唐突に立ち止まったり言葉を失ってしまったりするシーンが何度かあった。今それを見た私たちはフラッシュバックやPTSDという言葉がぱっと思い浮かぶのだけど、当時はきっと理解してくれる人は少なかったんじゃないか。また味方であるはずの支援者らや弁護人に責められるシーンも見ていて辛かった。
映画の中で上原さんはたくさんの人に囲まれながらもひとりぼっちに見えるシーンが何度もあった。たくさん傷つけられてきたからこそ、心の奥では誰も信頼できないような孤独を抱えているように見えた。表面張力ギリギリで、もうこれ以上は耐えられないのかもしれない、そう感じる場面もあった。
心の傷はそう簡単には癒えないし、人は誰だって完璧じゃない。被害者だけが正しさを背負わされるのは間違っている。それでもやっぱりまだ声を上げた人に、自分たちの思う正しさを押しつける人は今もいる、ということは今年公開された『Black Box Diaries』をめぐる騒動でも思い知らされたばかりだ。支援する側にいる人は自分の行動に酔わず、支援対象者を自分の物差しで断罪してないか、自覚的に自分に問い続ける必要がある。声を上げた人を一人にしないために。
女性の側に立つファッション誌
時代を経てメディアは変わっただろうか。さすがに作中の90年代のように明らかに女性被害者を攻撃するようなメディアスクラムはさすがに減ったとは思うし、被害女性の告発を週刊誌が中心となって報じることも増えた。それでもいわゆる「男消し構文」(犯罪についての記事で加害者が男性の場合にのみ性別が報じられない)問題があったり、女性犯罪者の事件はセンセーショナルに取り上げられたりと、メディア内の男性社会っぷりを感じることは今でもある。
一方、良い意味で現代とつながってるなと感じられたこともあった。ファッション誌「MORE」が当時はまだ日本社会には浸透してなかった「セクシュアルハラスメント」を特集として海外の事例を紹介したこと、それが原告らを勇気づけた様子が劇中で描かれた。この特集が組まれたことも実話らしい。2026年の今、とくに「VOGUE」や「SPUR」らがデモやフェミニズムについての記事をたくさん出してくれてわたしたちを勇気づけてくれていることと同じだなと思ってうれしかった。
私たちはどんな服を着ていてもいいはずなのに
ファッションと言えば、劇中の原告である上原さんは髪はソバージュ、メイクバッチリ、裁判ではいつも勝負服らしい派手な色のボディコンスーツを身につけている。「最後の日くらい真面目な服装で」と弁護団の一人に釘を刺されたりもする。現実の世界で伊藤詩織さんが記者会見でシャツのボタンを上まで留めてなかったころが「被害者らしくない」とバッシングされたのは2017年だった。
一方『銀河の一票』のあるエピソードのことも思い出した。主人公である星野茉莉がピンクのスーツを着て年長の男性たちにお酌をして場を盛り上げていると、接待相手である会社の若手女性社員と二人になったとき「辛いです。私たちが変えようと戦っていることをそちら側にやられてしまうのは。女性であることを自ら強調して利用する、みたいな」と言われてしまう。
その服を茉莉本人が気に入って買って着ていたとしても、場の「華」として選んだ服でもあり、対等な仕事相手でなく「女性」として求められる役割をそつなく演じようとしていたのも事実だろう。茉莉は誰も見てない路地裏でピンクのジャケットをアスファルトにたたきつけて泣いた。
どうしてこんなに不自由なんだろう。上原恵が派手なボディコンを着ていたって、伊藤詩織さんのシャツが胸元まで開いてたって、茉莉の選んだスーツが華やかなピンクだって、何の問題もないはずだ。だけど社会はそこに不要な意味づけをしようとする。そして味方の顔をして「誤解されたくなければ地味で隙のない格好をしろ」とお節介なアドバイスをしてくるのだ。
実際のところ、女が派手な服装をすることへのさげすみや拒否感は今も変わってないように思う。だからこそ最終弁論で朝日弁護士が取った行動と言葉に、私たちは胸を打たれる。一体いつまで、とうんざりはしながらも。
ゴールはまだ見えなくても
福岡セクシャルハラスメント裁判で原告代理人を務めた辻本育子さんはパンフレットでこう語る。
原告が受けた扱いについて、大半の女性が「それは普通のことだ」と受け止めるような状況であれば、名誉毀損としては認められにくい。そういう意味では、勝つことが難しい裁判です。でも「憲法が禁じている性による差別だ」ということで裁判を進めるならば、もしかしたら勝ち目があるかもしれない。
〈すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。〉
法の下の平等をうたう憲法14条を思い出すとき、いつだってセットのように『虎に翼』の河原のシーン、それを読み上げた尾野真千子の声がよみがえってくる。
そしてこの14条の草案を書いたアメリカ人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンさんのことも。あなたの書いたこの法文はこんなに後々に至るまでたくさんの女性を救いましたよー!と天国のベアテさんに手を振りたい気持ちだ。
また本作上映時には『劇場版 虎に翼』の予告が劇場で流れた。劇場版では男女雇用機会均等法の成立についても描かれるようだ。その男女雇用機会均等法について、辻本さんはこう語る。
「『男女雇用機会均等法』は要するに『機会を均等に与えましょう』であって、チャンスは与えるけれど、その結果が平等になるかどうかにまでは関与しませんよ、という法律なんですよ」と。
いつだってゴールは遠い。性差別の禁止が憲法に書き込まれても、男女雇用機会均等法が成立しても、清野さんの訴えがセクシャルハラスメントに対する社会のありようを変えたとしても、いまだに賃金の格差、家事育児負担の格差、そしてハラスメントも性加害問題もなくならない。それでも諦めず一歩一歩こじあけるように、自分たちの受けた理不尽を次の世代に引き継がないように。そう願って声を上げ、行動してきた人たちが切り開いた未来に私たちは立っている。だから私たちも受けたバトンは必ず未来の誰かに渡したいと、この映画を見て改めて思った。
バザーとカメオ
わたし自身が手芸を始めてからやはり衣服や手作りっぽい作品にはよく目が止まるようになった。
本作では裁判費用のために支援の会の女性たちがバザーを開く場面がある。いかにも手作りっぽい編み物が並んでいて懐かしさを覚えた。わたしも子どものころはバザーで誰かのお母さんの作ったビーズの指輪を買った記憶がある。映画の舞台の80〜90年代はバブル期の華やかなイメージもあるけど、まだ昭和っぽい素朴さを感じる場面が多々ある。そういえば最近はバザー自体減ったし、あっても学校関連だと未使用の既製品のみだったりする。既製品がとにかく安くなったということもあるだろうけど、作家ものと呼ばれるような一点ものをのぞく既製品以外の作品には、今はもう触れることさえめずらしくなってしまったのかもしれないと時代の変化を感じた。
また上原恵さんが細かな刺繍の入ったデニムシャツを何度か着用していたのだけど、それがとても素敵で実際に手に取って見てみたいと思った。また朝日弁護士がいつもブラウスの襟元にカメオを付けていて、こちらも最近はほとんど見ないけどカメオってエレガントなアイテムなんだな〜と思ったりした。今とは違う女性たちの、しかもたくさんの数の女性たちのファッションが見られるという意味でも貴重な映画だったと思う。
映画というバトン
この映画の情報が出たときは、テーマ的には強く惹かれたもののセクシャルハラスメント裁判なのに見出しから〈セクシャル〉の部分が抜け落ちていたり、こういうテーマならまだ少ない女性監督にやってほしかったなという気持ちがあったりしてちょっと複雑だったのだけど、蓋を開けてみれば好評でわたしもこうして長々と感想を書くくらいなのだから観て良かったなと思ってる。なにより邦画というジャンルの中でこれほど女性だらけ、しかも若くない女性たちだらけの作品なんて伊丹十三作品以来かもしれない。
そしてなにより、映画を通して晴野まゆみさんのこと、そして日本初のセクシャルハラスメント裁判のことを知ることができて本当に良かった。声を上げて戦った人の物語は日本にだって(私が知らないだけで)他にもたくさんあるはず。だからこんなふうにじゃんじゃん映画化して教えてほしい。同じ社会に、こうして勇気を出して戦った人がいたこと。それを知ることができるだけで励まされる。誰かの物語は語られることによって初めてバトンになる。それは今を生きる自分たちだけでなく、未来を生きる誰かの心を救うかもしれない。だからこんな作品がもっともっと増えることを願って、わたしも「ファーストボイスは見た方がいいよ〜!」とまわりに勧めていこうと思った。
ちなみにわたしは十代の息子を連れて行った。見てほしいと思ったから。元々は『スパイダーマン』を一緒に見る予定だったところに二本立てでねじ込んだので文句言わずに見てくれるだけで御の字、と思っていたのだけど、意外にも面白かったと言ってくれたのでホッとしたしうれしかった!