【観劇】個として落ちる―『メディア/イアソン』(前編)

hiraide
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公開:2024/3/30

『メディア/イアソン』脚本・フジノサツコ 演出・森新太郎

本作のあらすじ

子どもは三人いる。うち二人は月光の中で語りだす。もう一人は離れて蹲っている。彼らの母親はメディア。父親はイアソン。子どもたちは両親の出会いから別れまでを語る。彼らの両親は平凡なカップルではなかった。波瀾万丈な人生を送った、ギリシャに名高い男女。

十五歳のイアソンは、弟から王位を奪われて塞いでいる父親、そして簒奪者であるいやみな叔父から離れるために危険な船旅に乗り出した。行き先である遠いコルキスという国で彼は王女のメディアに出会う。王女はイアソンに一目惚れをし、葛藤の末に権威的な父親を裏切ることを決めた。

魔術が得意なメディアはイアソンに課せられた試練を助ける。そして共に国を出奔・駆け落ちの末に結婚。しかし、国を捨てたメディアは父親からの報復を恐れている。母国コルキスからは追手がやってくる。彼女は父親の足止めのために自らの弟を殺し、遺骸を海にばらまいた。そうしてギリシャまで辿り着いた二人だったが、悲しいことにイアソンの故郷は安住の地ではない。

月日が経ち、三人の子どもに恵まれて仲睦まじく暮らしていたはずの夫婦関係は崩壊した。二人はコリントスというギリシャの国に流れついていたが、コリントスの王は他でもないイアソンを娘婿にと誘ったのだった。イアソンは誘いに応じてしまう。「家族のため」と言い訳しながら、実際は妻子を見捨てたも同然だ。

イアソンから理不尽な裏切りを受けたばかりか、諸悪の根源であるコリントス王からもメディアは追放の処分を下される。冷たい異国で孤立を深めたメディアは、友人であるアテナイ王の助力を取り付けることに成功する。それでも、彼女は裏切られた結婚の誓いと、傷つけられた誇りのために復讐を決心した。―――メディアはコリントス王や王女を殺害し、さらにはイアソンを悲しませるためと言って、彼とのあいだに生まれた子どもたちを手にかける。

子どもたちは何故死ななければならなかったのか。メディアにしてみれば、彼女が王族を殺害した時点で、子どもたちに災いが及ぶことは目に見えていた。しかも、これはメディアの奸計が原因だが、子どもたちは殺害計画の一端を担っている。子どもらがコリントスの大衆の手にかかる前に、メディアは自らの手で終わらせることに決めた。

子どもたちは殺され、メディアはアテナイ王の元へと旅立つ。子どもたちの死を知ったイアソンは悲しみに打ちひしがれ、泣き疲れたあと、どこかへと立ち去る。

残された月の光の中、二人の子どもたちは両親の人生を語り終える。ぽつんと佇むのは一人の子どもだった。いちばん上の子どもだけは、メディアの手を逃れ、生き延びていた。

きょうだいを置いて逃げ出した。その瞬間、母と最後に視線を交わした瞬間を振り返る。子どもは「たぶんこっちだろう」と、朝陽のほうへ向かって歩き出す。

古典のふたり これは個人の解釈です

概要

悲劇『王女メディア』として有名なあらすじは古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人であるエウリピデスによる『メデイア』(紀元前五世紀成立)に原型を求めることができる。古代ギリシャの劇作家(詩人)たちは、当時の人々が当たり前のように知っている伝説・伝承に独自解釈を加えたり、あらすじに大胆な改変を加えたりしながら、おおまかな言い伝えを詳細な物語へと作り替えていった。ゆえにエウリピデスも以前から存在したメデイアにまつわる伝承を下敷きに悲劇を生み出したのだったが、現在「ギリシャ神話のメディア」と言われて思い浮かぶストーリーの少なくとも半分はエウリピデスの作品に拠るものである。

エウリピデス『メデイア』の独自性はメデイアが裏切りの夫への復讐として子殺しを選択するというあらすじである。このあらすじを引き継ぎ翻案した有名どころではローマ時代のセネカ『メデア』やフランス古典劇コルネイユ『メデ』がある。1952年にマリア・カラスがタイトルロールを演じてリバイバルを果たしたオペラ『メデア』は作曲がルイージ・ケルビーニ、台本をフランソワ・ブノア・ホフマンが担い、1797年に初演を迎えたもので、コルネイユ『メデ』を原作としながらもエウリピデスやセネカから大きな影響を受けている。この「メデイア劇」と呼ばれるあらすじは、演劇や映画・ポップカルチャーを通して現代でも目にすることが多い。

一方でその前日譚にあたる「アルゴー船伝説」と「金羊毛伝説」はメデイアの強烈な個性に比べて現在では霞みがちである。(金羊毛伝説は牡羊座の空飛ぶ羊の神話として有名かもしれないが、これがアルゴー船伝説と地続きであるということはあまり知られていないはずだ。)イアソン率いるアルゴー船が「世界の果て」コルキスまで辿り着き、宝や花嫁をギリシャに持ち帰るという―――略奪遠征ともとれる―――伝説は、少なくとも紀元前八世紀のたいへん古い時代には完成していた。この伝承を元にした叙情詩で、現存しているもののうちのひとつがロードスのアポロニオスによる『アルゴナウティカ』である。エウリピデス『メデイア』の後年、紀元前三世紀に成立した『アルゴナウティカ』は、異国の財宝(そこには女性も含まれた)を母国に持ち帰るという男性中心主義的な冒険譚を塗り替えた。物言わぬ財産ではなく意志を持ち葛藤するメデイアという女性像と、集団をソフトパワーでまとめあげる民主的なイアソンという反英雄的な男性像は、苛烈な家父長制を敷いた古典社会が成り立たなくなった後に立ち現れたヘレニズム時代の夢や理想だったのかもしれない。パブリックイメージほど完成されているかはわからないが、アルゴー号伝説の翻案において、イアソンがどちらかといえば威張り散らかさない柔和な美青年として描かれた場合『アルゴナウティカ』の影響があると思う。しかし、このイアソンも「メデイア劇」の未来を迎えることは避けがたい。

象徴化する女性 装置になる男性

「メデイア劇」を切り取るとき、そこには時代に合わせて代入可能な装置としてのイアソンが浮上する。彼はメデイアの「不実な夫」でさえあればよく、その不誠実さが観客にとって怒りを買うようなものであればあるほど、比例してメデイアの行動に説得力が生まれると同時に、世間のおおよそが思いつきもしない選択をする彼女にわれわれは突き放される。劇中の二人は互いの正当性を主張し合うが、観客にとって彼らはどうあっても共感し得ない他者だった。ときに作品は広報として作劇のアクチュアリティを主張するが、既視感のある社会システムの中で繰り広げられるのは彼らの個別性から生まれる摩擦であり、それが現実離れしていればいるほど象徴として機能するような気がする。たとえば愚かしく戯画化された登場人物を楽しむ質のさまざまなエンタメが、現代における共通のリアリティに偏見的な解釈を加えることで娯楽的な単純化を図っているように、古代ギリシャにおけるメディアとイアソンとの関係にも「(土地や血統に基づいて相続される)社会的地位や経済力や資本の向上をもたらさない外国人妻との結婚」という、メディアに向けられたダブルマイノリティゆえの差別というリアリティが横たわっているように思える。古代にも例はあったのかもしれない関係性におけるアクチュアリティはメディアとイアソンの人格的な個別性によってわれわれから切り離され、切り離されたそれが事象の単純化された象徴として観客へと返ってくる。

エウリピデスのイアソンは家父長制の旨味に負けた程度のことに、あたかも立派な屁理屈を並べて自己正当化を図る。セネカのイアソンは権力者の誘いを無下にすることを恐れて延々と被害者面をしている。コルネイユになるとイアソンの動機に恋愛が加わり、軽薄な浮気男としてのイメージが強くなる。オペラのイアソンは社会的に認められた善良な妻との再婚を選びながら、駆け落ちで結婚した外国生まれの異端性の強い女性に後ろ髪を引かれる「普通」の比較的善良な男だ。それらを列挙すると、権力と正しさをイコールにして、屁理屈で自己正当化を図っては妻をやりこめようとするエウリピデスのイアソンこそ、現代の新自由主義的で有害な男性性に通じるいやらしさがあり、物語の登場人物としてはもっとも魅力的だと個人的には思っている。物語人物の魅力はその人の正当性や善性と必ずしもイコールではない。

このようなイアソン像は、しばしば英雄の堕落した姿と捉えられる。 英雄たちの「その後」は、彼に限らずおよそ悲惨である。 アルゴ船遠征後のイアソンがそれである。ちょうどメディアがギリシアへ来ることによってその魔女性を稀薄化させたように、 イアソンもギリシアへ帰ってくることによってその英雄としての姿を喪失した。過去の栄光で世渡りできなくなったイアソンは、今日の糧を得るためにせねばならない。もはや彼は英雄ではなく、ふつうの市民にすぎない。そう作者は彼を捉える。ただ彼は英雄でなく一人の市民、つまり人間としても、堕落した。神聖なる結婚の誓いを破ったのである。人間としての裏切りは弁明の仕様がない。しかもその卑しい自己保身を、「子供のため」という家族愛的美装にくるもうとした。ところがそれがけっきょくは己の墓穴を掘ることになる。

丹下和彦「『メデイア』を読む―裏からの声」(エウリピデス『悲劇全集1』2012.4,京都大学出版会,422頁)

ほとんどのメデイア劇のイアソンは、そのときどきの時代が求める「苛烈な女・メデイア」を引き立たせる端役に過ぎない。たとえば「セネカのイアソンは同情されやすい人柄で、一方メデイアは悪として描かれている」とみる解釈もあるものの、善悪のレイヤーではない評価を下すのであれば、弱腰で主体性のない無難を突き詰めたイアソンは、結局のところ人ならざる女神のように描かれたメデイアを引き立たせるサブキャラクターに過ぎず、物語人物としての魅力を背負うに値する存在ではない。

だからといってメデイアも正当な扱いを受けているわけではない。自己の正当性を主張するメデイアは「悪女」というエクスキューズのもとに象徴化され、善良な女性の連帯から切り離される。新しい男性像を与えられたはずのイアソンは破滅の結末を回避する役割を与えられず、希望に満ちた『アルゴナウティカ』の人柄さえも「あの頃はまだ若くて純粋だったから」といわんばかりの文脈に縛り付けられ、『メデイア』に至る怠惰な道を進む以外の変革を求められていない。

特にイアソンはもう一度メデイアと対等の魅力を取り戻してほしい。異なる作者によって生み出された若き日と結末とを、新しいかたちで接続されるような物語がほしい。

子どもは親の言いつけなんて守らない

「眠りなさい」はいわゆる温情主義だと思う

狂ったようにさまよう少女(メディア)を、ティタン族の娘神、地平から新たに昇るメネ(セレネ)が見つけて、嬉しそうに高笑いを上げると、心のなかでこう言った。「ラトモスの洞窟に忍び込むのも私だけではなく、美しきエンデュミオンに焦がれる者が他にもいるよ。恥知らずな女―――おまえは巧みな呪文でたびたび私に恋の喜びを思い出させて、夜の暗闇に隠れ悠然と、おまえの好きな魔法の仕事をしたものだったな。それが今、自分でも同じ狂気を身に受けたらしい。無慈悲な神がイアソンを、つらい苦しみとなるよう与えたのだ。さあ行け、賢いおまえではあるけれど、それでも嘆きに満ちた苦痛を担って進むがよい」こう言った。少女は急いで足早に駆けていった。

アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』Ⅳ,57以下(2019.3,京都大学出版会,堀川宏訳)

冒頭から『メディア/イアソン』の物語をナビゲートするのは二人の「月光の中の子ども」(三浦宏規、水野基以)である。傍らには「月光から外れた子ども」(加茂智里)が蹲っている。劇中を通して月はメディアの殺人に意味づけを与える。そしてたびたび話題にあげられる月の女神セレネは、『アルゴナウティカ』でも彼女の運命を高笑いしながら見守る存在だった。月の女神セレネとエンデュミオンとの恋物語を子どもは語る。一見残酷に見える永遠の眠りは、物語上の解釈では世界との断絶ではなく、あくまで愛するものとの関係を完成させる手段である。エンデュミオンの眠りとリンクするように母親に教えられた子守唄を子どもは歌う。滅びた言語による歌詞は、混沌とした世界への出生否定とも取れる内容である。両親の過去を子どもは語る。子守唄を楽しげに歌いながら、元気に歩き回り、過去を演じ、たびたび「いつ生まれるの?」と問いかける。この時点で母親の「眠りなさい」という歌に込められた言いつけは守られていない。反出生主義と言ってしまうと厳密に過ぎるだろうが、誕生と死にまつわる倫理こそ問いかけられつつも、個人としての子どもらは不完全で混沌とした世界でも生きたかったのだという答えは明らかだ。

「夢みてるの?」「夢じゃないよ」愛らしいやり取りをするきょうだいの掛け合いが真実なら、月光の中にいる子どもたちや「たぶんこっちだろう」と光の射すほうを目指して歩き出した子どもの歩みこそ現実で、劇中を通して繰り広げられる両親の一生のほうこそメタフィクションなのかもしれない。三人の子どもたちは入れ代わり立ち代わり両親を取り巻く人物に成り代わる。ギリシャ悲劇の全盛期、どんなに登場人物が多くても俳優は最大三人だったらしい。少人数で仮面をつけかえ衣装をつけかえ、さまざまな人柄を演じる当時の上演スタイルのパロディとして子どもたちは立ち回る。

すべてになれる自由を与えられた子どもたち

多くのメデイア劇でメディアとイアソンの子どもといえば男児ふたりである。引用元によって名前はさまざまだが、メルメロスとペレースが一般的だと認識している。脚本を担ったフジノサツコがパンフレットに寄稿するところによれば、双生児と年の離れた末っ子の三人、うち一番上の子が命拾いをするという設定は、ディオドロス『神代地誌』(紀元前一世紀)より拝借されている。

これほどふたりの子どもたちが前面に押し出された翻案は、知る限りではあるもののかつてないと思う。子どもたちはいつでも両親、ひいては両親を取り巻く社会システムの物言わぬ犠牲者であり、作劇上は悲劇のギミックとして組み込まれた人格なき舞台装置に過ぎない。この数年ではイギリスのナショナル・シアター『メディア』(2014年)やメトロポリタン・オペラ『メデア』(2022年)をライブビューイングで鑑賞する機会があり、子どもたちはいずれも本当に幼い児童が演じていたのだが、母親に殺されるというショッキングなシナリオにおいて児童の心を守るための出演上の工夫やケアはされていたかどうかを毎回気にしてしまう。本作で子どもたちを演じるのは古代ギリシャと同じく、少なくとも児童ではない俳優なので、その点で安心して没頭することができる。きょうだいたちと見つめ合って歌う冒頭の子守唄以降、ほとんど笑顔を見せない長子らしい加茂智里・きょうだいや両親を常に気にかけている心優しい次子の三浦宏規・立ち振舞いや声色まですべてが愛らしい末子の水野基以。子どもたちの演じる役柄で特に印象に残ったのはそれぞれペリアス(水野)アプシュルトス(三浦)アイエテス(加茂)だった。

ペリアス as 水野

イアソンの父親にあたる兄から王位を簒奪したペリアスの「お前の父親は蛙だ」からはじまる一連の台詞は、どの原典にも存在しない本作オリジナルである。『アルゴナウティカ』にイアソンとペリアスの掛け合いはなく、冒険の前日譚としてピンダロス『ピュティア祝勝歌』第四歌や、紀元後に編纂されたギリシャ神話のまとめとも呼べる書物(アポロドーロス『ビブリオテーケー』やヒュギーヌス『神話集』)にその記述がある。コルキスへの遠征をイアソン自ら申し出る流れは、手元にある書籍の中だとまずアポロドーロス『ビブリオテーケー』が目についた。ピュティア祝勝歌でペリアスに対峙するイアソンは英雄然としているが、本作ではここにも独自解釈が加えられている。それは後述する。

愛らしい末っ子から一転して現れた居丈高な叔父は、盃を掲げながら、よく知っている場面で、なんだか聞いたことのない台詞を朗々と語る。新鮮な開幕を担う芝居だ。ニヤリとした顔や、片足サンダルを指摘するときのいけしゃあしゃあといった様子もたいへん良い。ちなみにこのペリアスはイアソンらの凱旋後、王位を譲るイアソンとの約束を反故にしたことによりメディアの計略で殺害されるというのが伝承におけるほぼ共通のあらすじなのだが、本作ではそもそも譲位の約束はしていない上に「叔父さんと上手く行かなかったのかもしれないね」と触れられるに留まり、結末はわからない。案外元気にやっているのかもしれないし、ペリアスの命運があきらかにならないことこそ、彼の命がメディアやイアソンにとって幼いアプシュルトスより重要ではない(たとえ死んでいたとしても)という示唆のようでグロテスクな味わいがある。

アプシュルトス as 三浦

アプシュルトスも子どもたちと同様、メディアとイアソンの利害によって殺害されるだけの哀れな記号である。叙情詩における台詞はなく、人格は不明である。というのも『アルゴナウティカ』でのアプシュルトスはそもそも弟ですらなくメディアの兄である。コルキスの軍事力を率いて彼女を追う紛れもない家父長制の後継者としての役割は、メディアとイアソンの若いカップルが共同作業で乗り越えるための障壁であり、本作でも改変を加えながら採用されているイアソンの台詞の導く先は少なくとも対等な戦闘である。

「お止めなさい、不幸な方よ。それはこのわたしにも気に入ったことではない。そうでなく、われわれは戦いの開始を引きのばそうと狙っているのです。あなたのために、このような敵の大軍が雲かとまがうばかり炎のようにとり巻いています。というのも、この国の住民はすべてアプシュルトスを助けて、あたかも生捕った女のようにあなたを故郷の父親のもとに連れ戻そうと望んでいます。刃をまじえて戦うなら、われわれ自身一人残らずみじめな破滅のうちに生命を落とすでしょう。もしわれわれが殺されて、あなたをかれらの餌食に残すなら、もっとひどい苦しみにあわれるでしょう。だがこの取り決めは、あの男を破滅におとしいれるわれわれの策略を成功させてくれましょう。また近隣の住民は、あなたを守る者であり兄でもある王子さえいなければ、あなたのためにコルキス人から援助を求められても、同様にこころよく応じないでしょう。わたしがコルキス人とまともに戦って引けをとることはない、もしかれらがわれわれの通行をはばむなら。」かれはなだめながら言った。

アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ―アルゴ船物語―』Ⅳ,395以下(1997.8,講談社文芸文庫,岡道男訳)

もちろん「コルキスの追手を逃れるために殺害される弟」の伝承のほうが古く一般的に知れ渡っている。ディオドロス『神代地誌』の採用も含め、本作はエウリピデス『メデイア』とアポロニオス『アルゴナウティカ』の忠実な合作ではなく、解釈の中心的な下敷きにしつつ、さまざまな可能性を組み合わせながら織り上げるパッチワークのような作品だ。台詞に原文の採用が多いことも含めてまったく独自の作品になっているという印象はなく、むしろ忠実な印象を受けるのに、振り返ると明らかに知らない話にも思えてくるという不思議な感触だった。一度目の観劇は「原典に独自解釈を加えてハンバーグの繋ぎにしたアルゴナウティカ&メデイアリアルタイムアタック」という感想を抱いたが(申し訳ない)二度目の観劇ではまったくオリジナルの作品を見たような気分になった。おそらく初見はもともとの話との差異に気を取られて全体の構成が見えていなかったのだと思う。

兄ではない弟のアプシュルトスは老王アイエテスに後継者として溺愛されている。おおよそ家父長制に適応できなさそうな、内向きの豊かな世界を持っていそうな少年。『アルゴナウティカ』でメディアは出生したイエの後継者を殺害することで、イアソンという新しい家族―――ひいてはギリシャ社会の仲間入りを果たした。彼女は父親から夫へと引き渡される受け身のバージンロードに収まる器ではない。ところが不穏な影は落としつつも意思の強さを感じさせる『アルゴナウティカ』に比べ、本作のメディアは主体的な決断を重ねるごとに千年後を夢想できたかつての自由を失っていく。一方でいつのまにか船に乗り込み「外の世界を見てみたかったんだ」とはにかむアプシュルトスには少年の自由さがある。それは貝殻遊びをしていた幼馴染の船出を見送ったメディア自身も抱いた夢だったかもしれず、イアソンに結婚を約束されて手に手を取って駆けずり回ったときに想像した新天地への期待だったかもしれない。メディアはアプシュルトスを編み髪のように切り落とすことで自らの童心をも殺したのかもしれない。直後にメディアはイアソンと閨を共にして婚姻を成立させる。

選択肢が煮詰まった二人の前に現れるアプシュルトスのシーンは良い意味で最悪の場面だった。また「弟はいつ船に乗ったのだろう?」という神話におけるツッコミどころを無駄なく効果的に利用しているところも上手いと思った。希望に満ちたあどけない台詞で登場させてからの急転直下と、アイエテスの嘆きまでの一連の場面、何度でも繰り返し見たいほど。

アイエテス as 加茂

アイエテスの造形もとにかく良い。アイエテスもあれで太陽神ヘリオスの息子であり、常人ならざる力を持った半神だからこそ、メディアの魔術に頼らなければ乗り越えられない試練を「私がいつもやっている」と言ってイアソンに課したのだった。冠は太陽を模しており、王笏の先には金の羊の頭が飾られている。「王笏を奪うつもりだな」という台詞を含めてこのあたりのやり取りはほぼ『アルゴナウティカ』に忠実だ。ちなみにセネカ『メデア』では子殺しを完遂したメディアが「これでやっと、わたしの王笏と弟と父とを取り戻すことができた。黄金の羊の毛皮は、今はコルキスの民のもの。王国が再建されたのだ。」と高らかに語る場面がある。アイエテス―アプシュルトス―王笏―金羊毛はメディアにとって連想ゲームのように故郷を構成するものであり、イアソンらが王笏(王権)を奪うことを警戒したアイエテスも結果や全体を俯瞰すれば正しい判断だったといえる。

腰を低く落としてガニ股で動き回る、老いているのかむしろ元気なのかわからない、知性派を装うペリアスとは違った意味であきらかに話の通じなさそうなアイエテス。溺愛する息子のアプシュルトスと、仮にも孫であるはずのアルゴス。彼らへの振る舞いの違いを見れば、彼が好悪激しく贔屓で物事を判断する理屈の通じない人柄であることがよくわかる。腰を落として駆けずり回り、王笏を振り回していたアイエテスも、やがて低く屈んだ腰で息子の四肢を拾い集めることになる。老いてなお力強さの証明のようだった身体表現はシームレスに悲嘆へと変換される。

性役割はない ただの子ども

子どもたちが演じる役について「女性俳優が年嵩の男性を演じているところが記号的で華があり、叙情詩が原典である当該作品にマッチしていてよかった」というようなことを書こうとしていたが、そもそも女性や男性とジェンダリングされる俳優たちが演じている子どもの性別はすべて明かされていないことに思い至った。採用したディオドロスに準じるのであれば全員男児だと思う。けれども子どもたちは子どもたちであって、たとえばエウリピデスも意識していた「イアソンの跡継ぎとしての男児」の役割からは解放されている。(末っ子が弟か妹かは触れられていたような気がするが、忘れてしまった。)

エウリピデスのメディアは世継ぎを求めるアテナイ王・アイゲウスと言葉を交わしたことで、男性にとって後継者としての子ども(男児)がいかに重要か気づいてしまう。イアソンがコリントス王家に婿入りをするのもクレオンの後継者になるためで、結婚相手にあたる花嫁はイエの権力や資本を媒介する道具に過ぎない。だからこそイアソンに利益をもたらす子どもや花嫁、舅のすべてをメディアは抹殺しなければならなかったのであり、少なくともエウリピデス『メデイア』において家父長制やジェンダーの背景は踏まえる必要がある。外国人妻を差別する排外主義もイエを中心とする経済システムに依拠している。子どもたちに限定すれば本作の彼らはそうした役割をもたない。性別はどちらとも解釈できるようになっているし、どちらであっても物語に影響を及ぼさない。本来そうあるべき、本当にただのかわいい子どもだった。

朝陽のほうへ歩き出すということ

古代ギリシャの当時、殺人の場面は舞台上で行われず背後から悲鳴が聞こえる等の演出が用いられていたそうである。本作ではここもオマージュされているが、いままさに母親の凶行から逃げ惑う台詞はきっと殺害時の悲鳴を聞かされるよりもショッキングだった。「私の贄祭りを見たくない者は逃げるがいい」という台詞をメディアが事前に観衆に向けるのは妥当な解釈をすれば冷酷な宣言以外の何ものでもないのだろうが、自分にとってはまるで親切なアテンションである。どのみち結末を見届ける役目を逃れられないのだが。

本作ほど子どもたちを前面に押し出した翻案はないが、子どもたちの生命が丁寧に描かれていたかといえばそうとも言えない。月光を通して子どもたちは両親の人生を語り、あらゆる人物へと変貌するが、いままさに生きている子どもとしての彼らは既存の作品と同じく物言わぬ舞台装置のようだった。両親の会話を黙って聞き、母親の言いつけどおり父親に抱きついてみせたり母親の手を握ってみせたりする。唯一長子だけが父親に抱きつく場面でぎこちない振る舞いをするものの、大人にとって都合のいいあどけない子どもとしての範疇を逸脱しない。そうしているうちに彼らはメディアの手にかかる。

時系列を踏まえれば、殺害されて(月光に抱かれて)次子と末子ははじめて自由に語り出す。両親の物語である限り、子どもたちは語り出せなかった。彼らは物語の主人公ではなかった。親から不本意な切り離しを受けたことで「自由」を手にしたふたりも、先刻まで「殺される」と泣いていた。唯一逃げ延びた長子は、母親と最後の視線を交わして決別する。両親の都合でまなざされ、振り回されるだけだった客体の子どもが、はじめて主体として―――他者として―――母を見るという行為が差し挟まれる。文字通り視点は切り替わり、両親はもはや子どもたちにとって語られるだけの伝説でしかなく、メタフィクションの中に閉じ込められる。「それがあなたたちのためだから」と甘い温情主義を振りかざすような母親の子守唄に反抗するように、長子は夜明けの光が差し込む方向へ、「たぶんこっちだろう」と曖昧な確信をもって踏み出す。

朝になれば当然起きなくてはいけない。朝の子守唄ほど無意味なものはなく、メディアがどれほど望んでも、子どもに自らの正当性を主張することはできない。長子は父親とさえ二度と出会わないのだろうと思う。両親の物語は千年、二千年を超えて生き延びているが、子どもたちの物語をはじめるには彼らと決別しなくてはいけない。

→(後編へつづく)