【観劇】個として落ちる―『メディア/イアソン』(後編)

hiraide
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肥大した内面世界の行く末

時空の歪んだ恋人たち

王女メディアのはまり役と聞いて思い浮かべるのは演劇に馴染みがある人にとってはマリア・カラスや大竹しのぶだと思う。先に挙げたナショナル・シアターの演目ではヘレン・マックローリー、メトロポリタン・オペラではソンドラ・ラドヴァノフスキーがディーヴァだった。アルフォンス・ミュシャのポスターでも有名なサラ・ベルナールがメディアを演じたのは50代のときで、ギリシャ神話のメディアといえば倫理にもとるショッキングな役どころでありながら、ベテランたちの憧れの大役という印象を抱いている。造型のパワーがそうさせるのだろうが、原典のメディアはおそらく三十にも満たない若い女性だ。

エウリピデスの生きた古典期のギリシャは厳格な家父長制をもとに社会が設計されていた。女性は十五歳程度の若い年頃に嫁入りをして、相手の男性といえば三十を超えていることが一般的だった。家父長制とは相続等を介して父系の経済基盤を維持するための仕組みでもあったため、若い女性はイエの資本を守るために父親の兄弟と結婚させられることもあった。身体のできあがっていない若年女性たちにとって産褥死は身近な未来だった。古代ギリシャ社会における寿命のジェンダー差は大きい。

男は、家で奥さんと鼻つき合わせていて、もし嫌なことがあれば外へ行って憂さ晴しをすることもできます、ところがわたくしたち女は、夫一人を頼りにしてゆかねばならないのです。よく世間では、男は槍を取って戦をしているのにわたくしたち女は家で何憂いなく気楽に暮らしている、と言いますね。でもこれは間違いです。わたくしは、一度お産をするくらいなら三度戦に出ることも厭いません。

丹下和彦訳「メデイア」244以下(エウリピデス『悲劇全集1』2012.4,京都大学出版会)

メディアもまた現代にしてみれば未成年と呼んで差し支えない年頃にイアソンと結婚したと思われるが、二人の特異性は―――少なくとも『アルゴナウティカ』を採用すれば―――ほぼ同年代の少年少女だったことである。『アルゴナウティカ』の成立したヘレニズム時代の婚姻事情は勉強不足でフォローしていないが、少なくとも古典時代のような年の差婚の規範から彼らは逸脱していることになる。若い少年少女が、同じ年頃で、外国人どうしで、親の承認を得ず、互いの気持ちだけで甘い結婚の約束をした。シェイクスピア『ロミオとジュリエット』がそうであるように、若者たちの恋愛はイエ制度や社会規範へのアンチテーゼであり、彼らも大人が考えているよりずっと覚悟を決めている。

本作のふたりもおそらく同じ年頃だ。イアソンは船旅に出る前が十五歳。アルゴー号の航海も長いようで半年から一年ほどと考えられているため(レムノス島で長い年月逗留していなければ)結婚当初は十六歳程度。これは本作に採用されているかはわからないが、紀元後にギリシャ神話をまとめたアポロドーロス『ビブリオテーケー』では夫婦はコリントスにやってきて十年幸福に暮らしたと記載がある。『メディア/イアソン』では双子がイオルコスで生まれたことから、凱旋後すぐに追放されたわけではないようなので、まったく同じタイムラインではないと推測されるものの、双子の年頃を考えると結婚生活も十年前後と考えて差し支えないと思う。つまり、破局を迎えたとき、ふたりはおそらく二十代後半だった。

どうしても『アルゴナウティカ』を採用するならメディアとイアソンは同じ年頃だろうという期待があったため、キャスティングに戸惑ったのは正直な気持ちだ。これまでのメデイア劇のようにメディア(南沢奈央)が四十代以上のベテランでないのは『アルゴナウティカ』の少女時代を演じることを踏まえると納得のほうが大きかったが、イアソン役はまさかのミュージカル界でキャリアを重ねている井上芳雄である。演劇が年齢やジェンダーを超越するものとはいえ、少なくとも個人間では夫婦の性別役割に捕らわれていない(腕力にものをいわせない男性と、戦う女性の)パートナー関係を演じるのに、役者の年齢差は気になった。何か作劇上の意図があるのだろうか?と考えて、もしかしたらイアソンのほうが社会に迎合する大人のいやらしさを身に着けてしまい、メディアはいつまでも若い頃の誓いを忘れていないということなのでは……と観劇前は推測をしていたものの、どちらの年齢にあわせるにせよ近い年の俳優を揃えてほしかったという心残りは拭えない。もちろん芝居においてふたりはしっかり同世代に見えていたし、演じる側に落ち度はないのだが、どうしてもキャリアを重ねた井上芳雄がカーテンコールの中央を飾っている様子を見ると、本編とは関係ない部分でもやもやとした感触がある。その理由は後述のような『アルゴナウティカ』『メデイア』の性質にも関わるのだが、加えて、子どもたちが自らの身体性から自由になり、表現力のみで勝負をするような記号性の華を追求するぶん、ふたりはリアリティに寄せたほうがメリハリがあったのではないかと思う。

少女のざらつき

危なっかしい意味でやたら能動的な、ずいぶんと癖のあるメディアだったと思う。エウリピデス『メデイア』においては弁論にも人心掌握にも長けた知性的な女性も、『アルゴナウティカ』ではまだまだ勉強ができて頭の回転の早い少女という印象だ。その子どもらしさがどう落とし込まれているのか、きっと悩みながらも突き進むまじめな女の子なのだろう……とあれこれ想像していたものの、よい意味で斜め上の解釈だった。

侍女との会話では意味のない冗談が止まらない。ひとり恋心に思い悩む姿はとにかくうるさい。本作は原典を省略・改変しつつ引用した台詞が多いが、特に朗々と語る演者の多い中で、特にコルキス時代のメディアの口上にはあきらかなざらつきや、極端なまでのわざとらしさがある。自分に酔っている中高生のような感嘆詞。しっとり恋に悩むというよりは、少し落ち着こう、と声をかけたくなる暴れっぷりだった。そこからイアソンとの逢瀬に至るのだが、あきらかな挙動不審ぶりはとても可愛らしい。柱の影から未来に生まれる三人の子どもがひょいひょいひょい、と顔を覗かせるのも可愛い。子どもができるフラグとしての演出。

恋に落ちてしまったことによるメディアの苦悩・試練の攻略伝授・結婚の約束までは、一部の意図的な改変や省略を除いて、ほぼ『アルゴナウティカ』の翻訳を忠実に採用しているのだが、あれらの長台詞を恋する少女の挙動不審という現代的な感情表現に落とし込んだコメディタッチの解釈・演出は舞台になる醍醐味だと思った。黙読ではああいう想像になかなか至らない。自らのうちから湧き出る高揚感に振り回されている年相応の子ども。ところが彼女には極めた魔術を通して事態を一変させるだけの力がある。

怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの―――アカイア勢に数知れぬ苦難をもたらし、あまた勇士らの猛き魂を冥府の王に投げ与え、その亡骸は群がる野犬野鳥の啖うにまかせたかの呪うべき怒りを。かくてゼウスの神慮は遂げられていったが、はじめアトレウスの子、民を統べる王アガメムノンと勇将アキレウスとが、仲違いして袂を分つ時より語り起して、歌い給えよ。

ホメロス『イリアス』Ⅰ,1以下(1992.9,岩波文庫,松平千秋訳)

さあ今こそ女神よ、コルキスの少女の苦悩と胸中をみずから語りたまえ、ゼウスの子ムーサよ。私が思いを廻らせても、心は言葉を失って内側で旋回するのだ―――心を惑わすつらい恋の苦しみと言うべきか、あるいは恥ずべき恐慌か、なぜ少女はコルキスの部族を棄てたか。

アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』Ⅳ,1以下(2019.3,京都大学出版会,堀川宏訳)

『アルゴナウティカ』第四歌冒頭は、ホメロスの英雄叙情詩『イリアス』のパロディである。叙情詩の主役といえば英雄―――つまり男性のことで、もちろん魅力的な女性が登場しないわけではないものの、彼女たちが主体的な役割を演じることはなかった。その伝統の中で『アルゴナウティカ』は歌いだしのパロディというかたちで、ほかでもないメディアを『イリアス』におけるアキレウスと同じ位相に据えた。叙情詩の主人公に女性が躍り出たのである。(※このあたりの解釈・解説はパンフレットに寄稿した古代ギリシャ研究家・藤村シシンが講師を担当しているオンライン講座に拠る)もちろん『アルゴナウティカ』もエウリピデス『メデイア』の未来を予見させる不穏さをことあるごとに匂わせるものの、若い夫婦が障壁にも負けずに共同で道を切り開いたり、終幕はイアソンの故郷・イオルコスの港に辿り着くまでだったりと、言い争いはありながらもあくまで冒険譚の体を保っている。

本作は『メデイア』部分と接続するメディアの葛藤や行動が前面に押し出されているため、彼女の恋や助力はすべて破滅への道すがらにしか見えない。本作でも引用されている「異国のお方、あなたがコルキスの館に来られる前に海に打ち砕かれたらよかったのに!」という『アルゴナウティカ』のメディアの嘆きは、エウリピデス『メデイア』冒頭の乳母の「ああ、あのアルゴ船が、青黒いシュンプレガデスの間をすり抜けて、コルキスの地へやって来さえしなかったら―――」という嘆きと対になっている。神話伝承でも『アルゴナウティカ』でも、メディアの恋はイアソンを守護する女神・ヘラの取り計らいによるものだが、それでも恋ゆえの葛藤にこそ人格や価値観を滲ませて主体性を駆使していた印象がある。一方で神の介在が不明である本作における選択は、決して道を切り開くものではなく、次々と選択肢を縮めていく袋小路への道のりに過ぎない。

逃げ場がなくなる

前述のように『アルゴナウティカ』では軍隊を率いるほどの力のある兄として描かれていたアプシュルトスは、本作ではより古い神話に従って幼い弟にしている。こちらのほうが人口に膾炙しているし、スタンダードだと思う。コルキスの共同体という定位家族を切り捨て、イアソンとの創設家族を選ぶ象徴的な儀式として実家の長男を殺すことは反家父長制的とも解釈できる。しかし、跡継ぎとしての資質が疑わしい、アイエテスに溺愛されているだけのアプシュルトスを殺す行為は、ただ「保身のために弱い弟を害した姉」という追い詰められた個人を浮き彫りにするだけだった。

ちなみに、神話伝承に関しても本作に関しても、イアソンがメディアを捨てる理由としてこの弟殺しを挙げる解釈を多々みかけるのだが、それはあくまで受け手側の自己投影であり、イアソン自身はむしろその凶行で利益を得て、かつ非難しなかった側であることには留意が必要だと思う。セネカ『メデア』ではかつての助力を否定的に評価する場面もあるが、それも自身の婿入り先に見咎められて以降のことである。

イアソン おまえはいやに恩着せがましい言い方をするが、わたしの考えでは、あの航海のときわたしを助けてくれたのは、神も人間も入れてただ一人キュプリスさまだけだったと思っている。おまえのことだ、胸のうちではわかっているが、口に出して言うのは癪なのだ、おまえに逃がれられぬ恋の矢を射かけて、無理やりわたしを救うよう仕向けたのはエロスさまだってことを。まあこのことは、あまりやかましくは言うまい。どんなかたちにせよ、助けてもらったことは結構だと思っているからな。

エウリピデス『メデイア』526以下(エウリピデス『悲劇全集1』丹下和彦訳,2012.4,京都大学出版会)

イアソン そもそもわたしがどんな罪を犯したと告発できるのだ。

メデア わたしの犯した罪すべてです。

イアソン 少なくとも、おまえの罪のせいわたしまでも有罪になるのだ、ということは間違いないな。

メデア それはあなたの罪、あなたの罪です。犯罪で得をする者、それこそが実行者なのです。世の人すべてがあなたの妻を人非人扱いしようとかまわない。あなただけは妻を擁護し、無罪であるとあなただけは言ってください。あなたのための罪人なら、あなたにとっては無罪のはず。

セネカ『メデア』497以下(セネカ『悲劇集1』小林標訳,1997.7,京都大学出版会)

本作でも多大な犠牲を払ったメディアに対して(もちろんいちばんの被害者は弟自身なのだが)イアソンの感情はみえない。舞台裏で済まされ、時間は経過して共寝の場面に至る。

個人的にはイアソンは金羊毛を手に入れて高笑いをしたあのときから「味をしめた」のだと思っている。アイエテスの試練に関しては少なくとも自らの労力を割いて乗り越えたのだったが、大蛇から金羊毛を奪取したとき、彼は一度は勇気を振り絞ったものの、結局はメディアがすべてを解決してしまった。『アルゴナウティカ』ではその後もふたりが共同で乗り越えていくさまざまな事柄があったものの、本作のイアソンはメディアがすべてを解決する味を覚えてしまった。だからメディアが自己保身とはいえ引き裂かれる思いで成し遂げたことを彼は黙認する。「迷惑」なんてとんでもない。イアソンはメディアによく言えば甘えることを覚えてしまった。だから彼女が感情のある人間で、相談もせずに一方的に捨てることもできるし、奇しくもイアソンはまたグラウケ王女というかつてのメディアと同じ「王家の女」を手がかりに利益を得ようとする。

ふたりが洞窟で金羊毛を敷いて「結婚」をする場面は『アルゴナウティカ』にあるものの、弟殺しの直後に配置されているため生死の匂いが色濃い。四肢を引き裂かれた幼い子どもの死。直後の「結婚」はそのまま性交のことで、性交は子づくりだ。ふたりの性交に際してニンフたちが歌を歌い、アルゴー船の仲間であるオルペウスが琴を奏でながらサンダルを大地に打ち付ける原典に対して、本作では白い雫型の仮面を被った子どもたち三人が踊り、床にサンダルを打ち付けてプリミティブな躍動を表現している。原典を上手くアレンジした演出だと思ったし、仮面は子種だと解釈した。残酷な死と打楽器の原始的なリズムで彩られる性交のコントラスト。殺人も結婚も、古代にとって逃げ場がなくなるという意味では同じものだと思う。

完全体になる

コリントスでの蜜月十年が描かれるかと思ったらそんなことはなかった。(パンフレットの対談集によればアルゴー船から十二年後の設定らしい)砂漠でのオリジナルシーンでぎゅっと要素を提示して、舞台中央でメディアがおどろおどろしく呻いている。われわれのよく知るメデイア劇のパートに突入した。省略は多いものの、ここからはほぼエウリピデスの原典に忠実になり、芝居と演出と再解釈の領域になる。

少女時代のメディアの芝居を「わざとらしく、ざらついている」と感じたものの、メデイア劇パートに入った途端そのわざとらしさが完全にハマったと思った。わざとらしいというなら叙情詩・悲劇が原作なのですべてのキャストがそうなのだが、朗々たる読み上げに対して、どこか現代的な印象を残しているので、余計に外れ値を意識してしまうという個性もあるのかもしれない。貞子や伽椰子やホラーヒロインのような呻き声をあげて恨みつらみを述べながら、コリントス王クレオンや、アテナイ王アイゲウスが登場すると、ぱっときれいな若妻になる。ベテランたちの演じるイアソンへの恨みに満ちたメディアと比べて「しんどい思いをしながら怒っているアラサーの若いママ」というイメージのほうが合っていると思ったし、メディアの実際を考えるとそのほうがリアリティがあると思う。

彼女に対して思うのは、神話伝承でも本作でも同じなのだが「法律にも制度にも守られていない孤立無援の外国人妻」という立場である。メディアの復讐は苛烈で共感を呼べるものではないが、われわれと違って不利益を被っても彼女には自らの正当性を訴える先がないどころか、ほかでもない国の最高権力者(コリントス王)に迫害を受けている。メディアは一般市民なのだが、外国人であること、人より能力を持った女性であるということで、当たり前の不満や恨みつらみを述べているだけでも「恐怖・迫害」の対象になる。結果的にメディアはクレオン王の恐れのとおり王・王女に復讐をするのだが、ある意味それはクレオン王のイメージを忠実になぞるかたちで自身の行動を決定したともいえる。偏見を後押しにして、逆説的に彼女は望まれたように行動をした。法テラスも民法も労働基準法も消費者庁もない、特に自分だけその恩恵が受けられない社会にいる、と我が身に置き換えてみれば、復讐という尊厳回復の試みが過激になるのも(方法はべつにして)わからなくはないと思う。復讐に至る道筋においてメディアの人格はさまざまな要因のひとつでしかない。

イアソンと出会ったばかりの頃のようにメディアは袋小路に入り、追い詰められている。かろうじてアテナイという亡命先を取り付けたものの、このままだとイアソンやクレオンの言いなりの、尊厳を剥奪された、無配慮に扱ってもいい、何もできない無能力の女として彼らの前から立ち去ることになる。一矢報いたい、ネットの誹謗中傷なら開示請求をかけたい、違法請求をされたら消費者庁に相談したい、職場のハラスメントは労働基準監督署に通報したい、そのときのエネルギー。復讐と言ってしまうと大仰だが、ようするにそういうことだと思っている。

前述のとおりメディアがイアソンではなく罪のないグラウケ王女を殺害するのは「浮気相手の女を殺した」という通俗的な嫉妬心ではなく、彼女こそ家父長制の中で王権を媒介する道具だからで、彼女を殺すことでメディアを迫害したコリントス王家の世襲そのものを否定する意味がある。グラウケはイアソン―クレオン間に生じている男同士の利益供与の関係に利用されているに過ぎないが、跡継ぎたるアプシュルトスを殺したように、大人たちの利権システムの道具である子どもたちをメディアは殺し、自らも我が身の利益のために三人の子どもたちを手にかけようとする。アンチテーゼを示しながら自らもその環の中に取り込まれていくのがメディアの限界であり、彼女はイアソンの前を立ち去った後も、アテナイ王アイゲウスという男性の庇護を求めて生活をすることになる。

逆光から進み出て、血糊にまみれたドレスを見せつけたメディアの「私の愛し子です!」。ここで挙動不審な少女だったメディアが確固たる人格として完成したように見える。自己保身のために却って選択肢を狭めていったメディアは、自らの誇りを回復するために凶行に走ることを選んだ。彼女はあきらめて、言いなりの、弱いただの女であれば「被害者」のまま自らの正当性を失わないでいられたのに、子どもたちへの愛情という一貫性を捨てずに最悪の行動を取った。かつての自己保身的な成り行きと異なり、明らかな決意をもって行われたそれは、行為こそ常軌を逸するものの、子どもの人格を他者として扱わないよくある親の挙動のように見える。それはメディアと離れようとしたイアソンも同じで、妻に対しても子に対しても、適切な心理的距離が測れないからこそぞんざいに扱う、夫/父親のステレオタイプが再現されている。

人格的一貫性

アポロニオス『アルゴナウティカ』のイアソンは成立したヘレニズム時代に合わせた「新しい男性像」が表現されている。ヘラクレスのように武勇を誇る筋肉質な英雄像は古く、時代は民主的で知性的な若いリーダー像を欲していた。彼は仲間たちの心理的な支柱であり、よく弱音をこぼしては周囲が慰め、そのたびに結束が深まる。反マチズモといえば21世紀の現代でも通じそうな表象だが、悲しいかな、このイアソンもエウリピデス『メデイア』のように妻子を見捨てる未来が待っている。何がどうしてそうなった?

先に成立したエウリピデス『メデイア』のイアソン像は、弁論術がもてはやされていた時代らしく、イアソン・メディア双方ともに頭の回転が早く口が達者なのだが、それでもイアソンはアルゴー船伝説のプリミティブなイメージ―――異国への略奪遠征―――を想定してキャラクターメイクされた人物だと思う。一方で『アルゴナウティカ』のイアソンは落ち込みながらも仲間の批判を甘んじて受け入れる姿勢があり、強烈なリーダーシップがない代わりに可愛がられるタイプの良い子で、多少八方美人のきらいがある。たとえば『アルゴナウティカ』を実写化した古典的な特撮であるレイ・ハリーハウゼン『アルゴ探検隊の大冒険』(1963年)でイアソン(ジェイソン)とメディアは幸福なハッピーエンドを迎えるのだが、正直あのイアソンのほうがリーダーシップがあり、悪く言えば強引なので、将来エウリピデス『メデイア』に至る想像がしやすい。アポロニオス『アルゴナウティカ』のイアソンは何がどうしてああなってしまうのか、本当にわからない。

本作のイアソンは「メディアの不実な夫」と「柔和で民主的な英雄像」を繋ぐ人格的一貫性を持たせるための解釈をふんだんに加えている。このイアソンの解釈が、下手をすれば古典のツギハギで終わってしまう構成を支える共通項目にも関わってくる。本作は全体的にひとつのテーマをさまざまな角度からリフレインしている印象を受けた。結論から言えば複数の個別具体的な事象はすべて「親子」の物語であり、これまでのメデイア劇が「男女の夫婦の話」としてフレーミングされてきたところから距離を置いている。いや、たしかに「男女の夫婦」の話ではあるのだが、本編に加えられたさまざまな解釈から、子どもたちが親の従属物ではなく分かち難い「家族構成員」として扱われているようにみえる。

イアソンとメディアはたしかに夫婦なのだが、生殖を介して親子を形成するためのパートナーとしての男女であり、こう言ってしまうとたいへん保守的で古い家族観だが、ロマンチック・ラブイデオロギー的愛憎メロドラマとして扱われるより、一周回って現代的なような気がする。子どものケアをする一対の大人の家族構成員としての夫婦観。その信頼関係が崩れた―――当初イアソンは「家族のため」と言いながら子どもの追放を黙認している言行不一致があり、メディアの口添えによってはじめてコリントス王家に子どもの件を働きかけようとした―――ことで、子どもをケアする協力者として彼の存在をあてにしていたメディアの生活の見通しは崩壊した。メディアにとっては愛を失ったことよりも「協力者ではなくなった」ことの幻滅や怒りの理由として大きいように見える。子どもがいるからこそ怒りが湧く、というよりも、メディアの生活を構成していた子どもの存在すら、言行不一致で屁理屈を言うような相手が、他でもないメディアの身寄りのない外国での生活基盤を支えていた。メディアのコリントスでの生活はイアソンのギリシャ人男性という身分あってこそ成立していた。前述のとおり、メディアはギリシャ社会において身分を保証する権利を持っていない。そのメディアがシングルマザーになる意味を、イアソンは理解していたのか、鈍感だったのか。

話を戻して、本作でイアソンの解釈として付与されたのが「親から逃げたい息子」としての自我だった。イアソンとペリアスの会話を描いているピンダロス『ピュティア祝勝歌』で、イアソンはアイソンの息子であることを誇り、ペリアスからの王権返還を当然のものとして堂々対峙している。一方で本作のイアソンの立ち位置は、弟のペリアスに王権を奪われた父親(アイソン)の使いっ走りだった。イアソンは神話伝承と違って父親と同居している。ここが運命の分かれ道であり、もとの物語との最大の違いなのかもしれない。神話伝承のイアソンは父親が王位を奪われた幼少期に、英雄を育てる半人半馬の賢者・ケイローンのもとに預けられている。人生のほとんどを親を知らずに過ごし、成長して自ら王位継承権を主張するためにペリアスに対峙した。本作でもアルゴー船の仲間・ペレウスの息子である小さいアキレウスが船の見送りに来ているという場面があったが、これは『アルゴナウティカ』準拠である。アキレウスもまたイアソンと同じようにケイローンのもとで養育されており、ケイローンの妻・カリクロの腕の中で父親を見送った。ケイローンはアキレウスに父親を見送らせたかったばかりでなく、イアソンの旅路も祈っていたのだが、本作でイアソンがケイローンと縁があったのかはわからない。もしここに関係がないとすれば、この時点で馴染みの神話と異なるIFの世界がはじまっていたことになる。イアソンはケイローンに養育されていたかどうかはさておき、少なくともうんざりするほどの時間を奪われた王権に固執する父親と過ごしており、そこから逃れるために航海に出た。具体的な野望や夢はまだない、何者でもない十五歳の少年で、進路を決めかねている中学生と思うとリアリティがある。レスポンシブである一方でまだ自我がない。アルゴー船の冒険は少年の通過儀礼的な解釈がされることもある。本作のイアソンは、この通過儀礼の中で「味をしめた」結果、エウリピデス『メデイア』的「不実な夫」へ至る想像がたやすい。終盤の彼は自身が「話が通じないよ」とこぼした叔父・ペリアスに負けず劣らず理屈が通じない大人に成り果てている。

重複的な相関図

本作には複数の親子・きょうだい関係が登場する。拾いすぎだが、思いつく限りを並べた。

直系の親子関係 1.メディア/イアソン―三人の子どもたち 2.アイソン―イアソン 3.アイエテスーカルキオペ/メディア/アプシュルトス 4.クレオンーグラウケ 5.カルキオペ/プリクソスーアルゴス 6.ペレウスーアキレウス

面識のある姻戚関係  1.アイエテスーイアソン 2.クレオンーイアソン

きょうだい関係 1.双子のきょうだいと末っ子 2.カルキオペ―メディア―アプシュルトス 3.アイソンーペリアス

子どもを殺害/加害を図る親 1.メディア→三人の子ども 2.アイエテス→メディア (3.父親の妻である女神ヘラ→ヘラクレス)

子どもを失う/失いかける親 1.メディア/イアソン―三人の子どもたち 2.アイエテスーアプシュルトス 3.クレオンーグラウケ 4.カルキオペ/プリクソスーアルゴス(未遂) 5.ペレウスーアキレウス(未来)

きょうだいを殺害/他殺される 1.メディア→アプシュルトス 2.長子→次子・末子 (3.ペリアス→アイソン ※神話伝承ではペリアスがアイソンを直接殺害しているバリエーションがあるが、本作では不明)

擬似的な父親になるはずだったヘラクレスは『アルゴナウティカ』と同じく旅の序盤で別れてしまう。イアソンをアルゴー船の船長に据えたのはほかでもないヘラクレスだった。その頼れるヘラクレスと別れることで、イアソンは自らが中心となって試練を乗り越えなければならなくなる。

そのヘラクレスが武勇伝として「赤ん坊の頃に殺されかけた。蛇を送り込まれたが、この手で握り潰してやった」と語るのは、本作だとシチュエーションがわかりづらいものの(まるで非行集団のカチコミのような口ぶりだ)父親である最高神・ゼウスの正妻である女神ヘラから殺害未遂を受けたときの話である。ヘラはゼウスが性懲りもなく不倫をしたため、生まれた子を殺すために蛇を送り込んだ。ヘラクレスとヘラはのちに和解をして、ゼウスとヘラの娘であるヘーベーと死後結婚することになる。父親の妻であり、ヘラクレス(ヘラの栄光)の名前の根拠であり、妻の母であるヘラは、ヘラクレスにとって苛烈で厄介な擬似的な母親である。ヘラに殺されかけたヘラクレスの話は、のちのメディアを想起させる伏線である。(▼ジョシュア・レノルズ『幼児のヘラクレス』1785年〜1789年頃)

わかりやすいものからわかりづらいものを含めて、本作は繰り返し親子ときょうだいの関係をリフレインする。中心にはたしかにイアソンとメディアのカップルが存在するのだが、ふたりの行動の根拠にあるものは結局のところ親の存在だし、同時に自分たちも―――身勝手な愛情はたしかにあったのだろうが―――客観的に見て適切な養育者にはなれなかった。イアソンもメディアも父親から逃げるために海を渡り、そうやって逃げることはできても、自らの親と同じく「立派な大人」にはなれなかった。同じく「メディアはたしかにイアソンに恋していたがイアソンはそうでなかった→だからふたりは上手く行かなかった」という評価を下したくなる気持ちをぐっとこらえてみると、ここの関係も結局、精神的な愛情があたかも結果に結びつくかのように語ってよいものだろうか? たとえ十分な愛情があったとしてもふたりは子どもたちに対して適切な養育者たれなかったのだから、選択肢がない中で吊り橋効果のように結ばれたふたりに欠けていたのは、甘ったるい愛情の多寡ではなく、もっとべつの何かだったように思う。

メデイア劇を上演する意味?

テーマが苛烈なせいか、演劇にせよオペラにせよ「王女メディア」の物語が上演されるときは作品にアクチュアリティを求められることが多い。たとえば今でも同様の悲劇が起きているとか。現代でも変わらない人間どうしの諍いだとか、愛情のもつれとか。

個人的にはそうした一般的な解釈に落とし込むのもずれてしまう気がして、というのも、現代で親が子どもを殺害する背景は虐待にせよ心中にせよ、現代的な社会の欠陥のしわ寄せが原因であり、個別性が強いと言わざるを得ない加害的な親のケースさえ、結局は子どもを社会で見守るシステムの構築できていない(親子を孤立させて見えなくする)世の中の問題に行き着かざるを得ない。メディアの場合も確かに彼女を孤立させたギリシャ社会の影響下にあったが、イアソンと子どもが不可分であり、かつメディアの罪が子どもにも振りかかるような家族主義的な復讐文化の産物である以上、特に日本社会からは程遠いように見える。ほかの例だと「現代のメデイア」と言われたアメリカ南部の黒人奴隷のマーガレット・ガーナーは1856年、逃亡後に追手に囲まれて四人の子どもと心中を図ったが、一人の子どもを殺害後に連れ戻されてしまった。この凄惨な事件をもとにトニ・モリスン『ビラヴド』は生まれている。いずれにしてもその社会・その時代の背景を念頭に置かなければ悲劇の本質には迫れない。

メディアが凶行に至った背景についての解釈は、あれこれ一人で考えてきたものもあれば、友人との会話や講座から示唆を受けたものもある。イアソンの動機については「生活の安定」というわかりやすさなのであえて語ることも多くないが、後年の作品の方向性からエウリピデスのそれでさえ惚れた腫れたの不倫と誤解されていたり、メディアの外国人妻という属性が透明化されたりすることもある。以上が一般的な神話伝承を巡る解釈だが、それと本作を照らし合わせる作業が楽しかった。

生き残った子どもは親から切り離されたが、子どもが最後に視線を交わした母・メディアもまた、本作で繰り返し描かれる「親子」という分かち難い関係を断ち切ってしまった。エウリピデス『メデイア』のメディアは殺害した子どもたちを自ら神殿に埋葬することを宣言する。丁重な埋葬までが家族や集団の義務だからだ。けれども、本作のメディアはただどこかへ歩き出す。セネカ『メデア』のように子どもの遺骸を投げ捨てるでもなく、殺したあとのことは一切言及しない。月光の子どもの視点なので、そこには触れられないだけで、実際に埋葬は行われたのかもしれない。それでも、表現されているものだけ見れば、メディアは子どもとか、夫とか、家族とか、そういうものから切り離されてしまった。生き残った子どもについても同様である。執拗に描かれていた親子・きょうだい・家族関係から孤立して、個人として歩き出す。

参考文献 ほか

  • エウリピデス『メデイア』(丹下和彦訳・京都大学出版会『エウリピデス 悲劇全集(1)』)

  • セネカ『メデア』(小林標訳・京都大学出版会『セネカ 悲劇集⑴』)

  • アポロニオス『アルゴナウティカ』(堀川宏訳・京都大学出版会)

  • アポロニオス『アルゴナウティカ アルゴ船物語』(岡道男訳・講談社文芸文庫)

  • アポロドーロス『ビブリオテーケー』(高津春繁訳・岩波文庫『ギリシア神話』)

  • ヒュギーヌス『神話集』(松田治、青山照男訳・講談社学芸文庫『ギリシャ神話集』)

  • ピンダロス『ピュティア祝勝歌集』(内田次信訳・京都大学出版会『祝勝歌集/断片選』)

  • コルネイユ『メデ』(戸張智雄訳・講談社『世界文学全集(11)』)

  • オペラ『メデア』ケルビーニ作曲(2022年10月22日公演 メトロポリタン・オペラ https://www.shochiku.co.jp/met/program/4670/)

  • 映画『王女メディア』(1969年公開 監督:パゾリーニ・主演:マリア・カラス)

  • 佐藤りえこ「エウリピデスの悲劇『メデイア』ー異類と人間の婚姻が破綻するとき」(小鳥遊書房『西洋文学にみる異類婚姻譚』)

  • ドラマトゥルギー講座「メデア」(2023年4月9日(日)日生劇場 講師:山形治江)

  • 獨協大学オープンカレッジ「ギリシア悲劇への招待」(2023年10月 講師:堀川宏)

  • NHKカルチャー 古代ギリシャ講座(講師:藤村シシン)※外部リンクあり

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