突飛な絶望と順当な希望の黄金比『ワールドトリガー』【246話&247話】

日和見雛
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公開:2024/10/7

今月の『ワールドトリガー』は、一挙2話掲載だ。こんな幸せなことがあるだろうか。だが、実際今回の話は、一気に話を進めていただかないと私をはじめ多くの人が苦しみを抱えた状態で次の1ヵ月を待つことになっていただろう。それほどまでに今月の掲載話は、『ワールドトリガー』にとって本質的で、読者にとっても切れ味鋭いものだった。

「目標設定」を相対化する少年誌

本誌最新話ネタバレ⚠️ 

麓郎は非力ながらに実力のある三雲修との違いを賢者に尋ねる。両者の違いの1つは目標への執着度であった。だが、三雲修の執着度は狂気じみたものであり、物語中でも単に目標があるということが正解とはならない。

厳格な目標設定とは結果に向き合うための手段である。賢者は冷静に諭していく。このあたりを読者に対して数ヶ月にわたって描くあたりさすが『ワールドトリガー』である。目標設定について相対化してくる少年誌はなかなか奇抜である。

現実世界の私たちも目標を設定することが当たり前となり、目標に向き合い続けなければならない生活を送っている。私自身、それに戸惑いつつも一方で、そうした世界観が甚だ的外れだとも思わないため、このテーマについてすごく前のめりになっている。

先月号について考察した際にも触れたが、目標が必然的に設定される主人公の特殊性はこの作品の核の1つだと思う。そしてこの作品がその期待値を超えてくるのは、読者と同じように主人公三雲修の特殊性に疑問を持ち、己の非力さを克服する鍵を彼に見出そうとする麓朗を丁寧に生々しく描いてくるところである。

私は、先月の段階で麓朗について彼の自己肯定感の低さが1つの元凶となっているのではないかと考えていた。もちろんこれは固定的な問題ではなく、彼のこれからの行動や環境によって変わっていく要素だという前提である。実際、麓朗の師匠も彼に成功体験を与えることで自己肯定感を上げる狙いがあったとも考えられる。彼のどこか自分の成長の鍵を第三者に探し求めている姿勢は、自分への信頼感によって変わっていくのではないかと思ったのである。

ただ、今月号の賢者の的確な問答と、文字通り膝から崩れ落ちる麓朗の真面目さが織り成す絶望と希望の黄金比は、私の先月の表面的な考察を蹂躙していった。

自己肯定感の負債

麓朗が自身の成長に人頼みなのは、賢者いわく的確な自己評価ができておらず、時期尚早の何度の高い壁に挑んでしまっているからだという。その無謀さゆえに、自分では為す術がなく人頼みになってしまう。

つまり、彼は自己肯定感が低いのではなく、むしろ意地悪に見れば、自己評価を誤って高く見るくらい自己肯定感は高いのである。

もちろん、ここでの「自己肯定感」の定義は横滑りしているが、あまりにこの逆説が読者の多くに身に覚えがありすぎてツラい。

たしかに、自分の成長にひたむきでなかなか結果が出ないことに強い危機感をもって自責を重ねて周りから「君は良くやってるよ」と言われるような人は、一見自己肯定感が低いようにみえる。だが実際にはその「自分の限界と成長の佳境」の前提となっている「これはできる」という自己評価のところがズレていて、無意識に過剰な自己肯定感が存在していたりする。

これがより露悪的なケースとしては、高度な悩みを抱えているポーズを取ることで、逆に自分は基礎的なレベルは優に超えていると示そうとするムーブがあるだろう。

麓朗は当然そんなタイプではないが、むしろ無意識に築かれていた自己肯定感が、ある日幻想と分かって崩れる絶望は計り知れない。自分は無意識のうちに、ありもしない足もとの確かさを担保に自己肯定感をもっていた。その前提が打ち砕かれた時、一気にそれまでの自己肯定感は自分の手元から回収されていく。その反対に先送りしていた自己肯定感の負債としての絶望だけが手元に残る。

突飛な絶望と順当な希望

そんな絶望に片足突っ込んだ状態の麓朗は、賢者により基礎的な能力を磨ける環境に身をおくべきだと提案される。これに対して麓朗は、仮に自分が超えるべき本当の壁を前にして、それすらも超えることができないのではないかと不安を吐露する。これに対し、賢者は自分が超えられる壁にまで刻んでいくこと、これを努力と呼ぶのだと諭す。

賢者の努力の定義それ自体も深掘りがいがあるのだが、ここで最も印象的で革新的なのは、それを聞いた麓朗の内省である。

彼は賢者から受けた言葉をほとんど的確には理解していないにもかかわらず、彼の中では全てがつながるのである。「自分は自分が本当の無能だと気づくのが怖かった」と。だから、自分には才能がない、力がないなどと勝負以前の劣勢を口にしたり、成長の鍵のような正攻法を他者に求め続けてきた。

環境や運に恵まれて、気づけば色々なことがそれなりにできるようになっている。ただ息をするように生きてきた中で、なにか踏ん張らないといけない時、自分が今どこから来て何に挑んでいるのか分からない。そんな恐怖が自分が歩んできたこの道を、間違って迷い込んでしまったものだと否定したくなる。あるいは、そんな現実をうやむやにするために、困難に相対しているふりをしてしまう。

麓朗ははじめて自分のそうした現実を直視した。彼はその絶望に向き合った。

そんな時賢者は麓朗に「自転車に乗れるか?」と尋ねた。自転車に乗れることを確認した賢者は、「できないことをできるようになってきた事実」を忘れるなとささやかな希望を与えた。

彼がこれからどうするのか。それは来月以降のお楽しみである。

だが、ここで革新的なのはこの彼の内省の内容ではない。それ以上に彼はこの瞬間「自分で考える」きっかけを本当の意味で手にしたように思えたのである。これは先月号でもあったように彼の師匠が彼に欠けているものとして求めていたものである。

「自分で考える」という難題をクリアする大きな第一歩を感じたのは、麓朗が突飛な形で絶望しているところである。麓朗は、賢者の話を受けて内省して絶望しているようにみえて、実は賢者の話とは全く異なることを考えているのだ。賢者が用いた「挑戦の壁」や「努力」という言葉の定義を無視して、言葉だけを自分の中で再構築している。これは悪いことではなく、むしろこの他者への的確な応答よりも優先される思考のトリガーが顕在化していることが麓朗にとって革新的なのである。

これは完全に私の所感だが、人との対話において、誰かが饒舌に喋りだし、そしてその内容が本人にとって最も納得感のあることを言っている時というのは、大抵その対話の文脈から外れている。だが、それが問題にはならないほどに、本人にとってはその思考が何よりも本人の問題にとって的確であり、その後の人生を左右するものになっているのである。

だからといって、他者と話すという対話そのものが要らないわけではない。むしろ対話を重ねるなかで応答に没頭する中で、自然と対話を拒む思考に行き着いたとき、「自分で考えた」ということになる。そして、仮にそうした突飛な思考によって絶望してしまっても、そこまで対話をしてくれた他者は順当にささやかな希望を与えてくれる。

『ワールドトリガー』は、突飛な絶望と順当な希望の黄金比によって、またひとつ神回を産んでしまった。

@hiyorimi_hina
24卒新社会人。大学で精神分析のゼミにいた余韻で、時々文字を書く