前回⬇
全6回中の第1回⬇︎
※この文章の後半に出てくる「地震」には、地震や津波に関する具体的な描写が含まれています。どうかご無理のない範囲でお読みください。
●夕ごはん
台所から漂ってくるココナッツミルクの匂いに食欲をくすぐられつづけること4時間、満を持してカレーが登場した。綺麗な黄色に炊きあげられたサフランライスを器によそい、ルーをかけ、ゆで玉子とタンドリーチキンをごろんごろん乗っける。パクチーが大丈夫なひとはパクチーを、大丈夫じゃないひとはパセリをふりかけていただいた。ものすごくおいしかった。

あみだ湯の夕ごはんがはじまるのは、銭湯の仕事がひと段落する21時ごろ。以前は0時近くになることもあったらしい。「それだとあまりにも大変で。それで、こういう食事ケアが生まれました」と「賄い担当」のSさんが話してくれた。ボランティアとしてあみだ湯を訪れるうちに食事ケアの必要性を感じるようになったSさんが、自ら賄い担当を買って出たのだそうだ。夕食が3時間早くなるだけでも大きい。そのうえ食べられるのがSさんのごはんだなんて、これはもう劇的な変化だ。おいしいごはんは元気をくれる。ほっとできるし、話もはずむ。一日の終わりがいい感じになれば、それはきっと明日にもつながる。Sさんは偉大だ。ひとりの力でここまで環境を豊かにできるなんて。感嘆してから、でも、と思った。ボランティアというのは本来、こういうものなのかもしれない。ひとりひとりが柔軟に、自発的に、動くもの。共用の冷蔵庫の側面に、献立のリクエスト表が貼られていた。住みこみやそれに近い形であみだ湯にいるひとたちが、食べたいメニューをおのおの書きこんだものだ。Sさんのごはんをみんなが心待ちにしていることが、たった一枚の紙からありありと伝わってきた。
食事中に、どうしてここにボランティアに来たんですか? という話になった。地域おこし協力隊の活動の一環で、東日本大震災で被災した経験があって、ドキュメンタリー映画を撮っていて、もともと金沢芸術祭関連で縁があって……ひとそれぞれの理由や経緯が語られてゆく。そうしているあいだにも近所のひとがやってきて、「夕ごはん食べた?」「まだ」というやりとりのあと、当たり前のようにカレーがふるまわれる。地元のひと同士の会話が聞こえてきた。「……それで、各地に帰っていった人たちが、もう大丈夫だって話しているらしいんですよね」。日が経つにつれてボランティアが集まりにくくなっている、という話のようだ。「たしかに大丈夫になりつつあったのかもしれません。夏ごろまでは。でも、9月の豪雨ですっかり状況が変わってしまった」「じきに雪も降りはじめます」「泥かき、どうなるんでしょう」「どうなるんでしょうね……」「物流も止まるでしょうしね……」。黙りこみ、途方にくれるひとたちに、かける言葉がなかった。まだまだなのだ。一つひとつ乗り越えてきて、それでもいまだに、先の見通しが立てられない。
●皿洗いと水道事情
堀川さんが立ち上がり、みんなの食器を片づけはじめた。食後のお皿はめいめいが自分で洗う方式になっている。が、今日来たばかりの私は元気がありあまっているし、ほとんど働いていない分際で美味しいごはんだけご馳走になってしまったことに引け目を感じてもいたので、おのずとここはやらせてくださいという気持ちになり、堀川さんに続いた。
洗い場は、入り口の自動ドアを出てすぐの、屋外にある。屋根はあるものの風に乗って吹きつける雨までは防ぎきれず、背中が湿る。備えつけられた蛇口は冷水しか出ないもので、みるみるうちに手がかじかむ。カレーの油を落とすためにもお湯がほしい。けれどないものは仕方ない。「油、落ちませんね」「厳しいですね」「キッチンペーパーで拭いてから洗ってみましょうか」「そうしましょう」。相談しながら手を動かす。軍事侵攻によってインフラが破壊されたせいで水が、水すらも、得にくくなっているガザのことが、頭をちらつく。珠洲では今も給水車が必要とされている。大型免許をもっていれば、給水車を運転するボランティアもあるのだそうだ。11ヶ月、とまた思う。11ヶ月経ってもなお、水道が使えない。これは仕方のないこと、なのだろうか。どうしようもないこと、なのだろうか。
(※あみだ湯では震災の影響で配管が損傷し、上下水道が使えなくなっていた。私たちが滞在していた11月の終わりの時点においても、1階では、浴場のシャワー以外の蛇口からは水が出ない状態だった。洗い場の水道も洗面台の水道もだめ。トイレも使えないため、銭湯のお客さんたちは外の仮設トイレを使っていた。……が、つい最近、12月になってから、ゆとなみ社さんのご尽力で復旧が果たされたとのこと! よかった。ほんとうによかった……。)
●柿
作業を終えて台所にもどると、堀川さんがなにやらにこにこしていた。「それ」と指した先に、りっぱな柿がごろごろ転がっている。「食べていいんですって」。(堀川さんは柿が大好き)。ちょうど通りかかったこえさんと3人でわけましょう、ということになったのだけれど、いざ堀川さんが包丁を入れようとすると、よく熟れたそれは切り分けたらくずれてしまいそうなほどやわらかいことがわかり、だったら堀川さんがまるごと食べちゃえ、私は果物は甘酸っぱいもののほうが好きで柿はそこまでというわけでもないから、本当に? いいんですか? どうぞどうぞ、などというやりとりのあと、堀川さんはそれをスプーンですくい、幸せそうに味わっていた。「柿といえば」とこえさんが言った。「ボイラー室に干し柿があります」。好きなときに好きなだけ食べていいとのこと。紐でつるされたのをさっそくひとつもいでみる。え、なにこれ、めちゃくちゃおいしい。ねっとりと甘くて、まろやかで。干し柿って、こんなご馳走みたいな食べものだったの? 興奮しつつ「よく干すんですか」と訊いてみる。いや、はじめてです。あったから、干してみた……みたいな返事があった。おいしいですね。最高のデザートですね。いくらでも食べていいなんて天国ですね。明日の朝、天気がよかったら早起きして散歩したいですね、干し柿を持って。いいですね。じゃあ、ぼちぼち寝る支度でもしましょうか。ゆるやかに時間が流れていた、そのさなかだった。

※以下、地震や津波に関する具体的な描写があります。不安やストレスを感じられる方は「地震」を丸ごとスキップし、次の「ボランティアと優しさ」へとお進みください。
このまま読み進めていただく場合も、どうかご無理のなきようにお願いいたします。
●地震
22時47分、緊急地震速報が鳴り響き、あみだ湯が揺れた。大きな揺れだったはずなのだけれど、揺れの激しさや長さについての記憶があまりない。立ち竦む私の周囲でひとびとがぱっと散って扉を開けていたのだけは覚えている。テレビの速報によると、最大震度は5弱、震源地は石川県西方沖。珠洲の震度は4止まりだったが、あみだ湯のリーダーであるしんけんさんが引き締まった面持ちで「このあと2度目がくるとか、全然あるんで」と言い、近くの学校に車で避難することになった。必要最低限の持ち物を取りに急いで2階にあがる。一緒に階段を駆け上がった地元のひとが不安げだったので、努めてほがらかっぽい声を作って言ってみた。「なるべく落ちついて、でも急ぎましょう」。言ってしまってから、なに余計なこと抜かしてんだ、と思った。1月1日の怖さを身をもって知っているひとに向かって、落ちつけ、とか。そのひとが、はっとしたように「そうだね」と言ってくれて、少しだけ救われる。
お財布とスマホが入ったバッグと上着だけをつかんで階下に降りる。先に降りていたひとたちの多くがリュックサックを背負っているのを見て、自分もそうすべきだったと後悔した。みんなまだばたばたしており今すぐ車に乗りこむわけではなさそうだったから、ごめん私ちょっと荷物とってくる的なことを口走って2階に戻る。充電ケーブルとパソコンを引っ掴んで階段を駆け下り、だけど充電器を忘れてきたことに気づいてまた戻る。もちろん周囲の状況を伺い、まだ大丈夫そうだろうと確かめつつのことではあったけれど、愚かなふるまいだった。
身勝手な私が自分ひとりのことで慌てふためいているあいだにも、みなさんは協力して避難の準備を進めていた。駐車場に行っていたTさんが、困ったような顔でもどってきた。その足もとに犬がいた。知らない犬だ。「なんか、ついてきちゃって」。当惑するTさんに、あそこの旅館の犬だよ、と誰かが教える。あみだ湯に居着いている猫と同じところから来たらしい。この子を探して飼い主の避難が遅れたら大変だから、とTさんが犬を返しにゆくも、数分後、「家のひとたちみんな寝てました」と言いながら犬と一緒に帰ってきた。
出発の準備が整ってからも避難はなかなかはじまらず、靴を履いたまま玄関で待機する時間がつづく。手持ち無沙汰で、そういえば今日はほとんどスマホをさわっていない、まほやくのログボももらってないわと気づいてログインするなどしながら、おのれの危機感のなさに危機感をおぼえた。2011年の3月11日、私は高いビルの最上階で働いていた。比較的新しかったそのビルは、免震構造のせいもあってものすごく揺れた。遊園地の海賊船型アトラクションが頭をよぎるような左右に大きく振れる揺れが、じっさいは30秒ていどのものだったようだけれど体感ではいっかな終わらず、あ、死ぬのかも、と本気で思った。死にはせず、幸いにもその場では怪我人も出なかった。けれど、つれあいと連絡が取れなくて、気が気じゃなかった。交通網が麻痺して動くに動けず、余震の危険もあったため、その後数時間は同僚たちと職場に待機した。つれあいからの着信を待ってガラケーを握りしめつつ、当時はまだ少なかったテレビが見られる携帯電話をみんなで囲んだ。刻々と明らかになってゆく惨状を眺めることしかできなかった。日が暮れてから、ようやくつれあいと連絡がとれた。おたがい歩いて帰り、家で会おう。決まるが早いか職場を飛びだし、道路沿いを延々歩いた。暗かったけれど、帰宅困難者の列がどこまでもつらなっていたから怖くはなかった。手のなかの携帯電話の電池が今にも切れそうで、そちらのほうが怖かった。今後二度と充電を怠るものかと心に決めた。13年後の今、私はしばしば充電をしそびれる。長年使っているスマートフォンはバッテリーの減りが異様に早く、充電器を持ち歩くべきだとわかっているのに、習慣にならない。あの日、電池切れ以外にもさまざまな怖さを身をもって知った。時とともに、その多くを忘れてしまった。
●ボランティアと優しさ
そうこうするうちに、周辺の家のひとたちがぽつぽつとあみだ湯にやってきた。建物の作りが丈夫だから津波さえこなければ比較的安全だろうということで、木造の家に住んでいるひとたちが仮避難的に集まってきたらしい。誰からともなく靴をぬいで室内にもどり、ソファや座布団に腰を落ちつけてゆく。地元民のBさんが、愛犬をつれてきた。もともといたあみだ湯の犬+Tさんに着いてきた旅館の犬+Bさんの犬で、犬がたいへん充実する。猫もいる。猫は地震に動じておらず、ただ人間たちの気配から何かあったことは察しているようで、で、どうすんの? あんたらがどっか行くなら自分も行くが? みたいな顔で下駄箱の前にすわっていた。しばらくのあいだ人間たちの様子を眺めていたが、特に動きがないらしいと理解したのだろう、やがて部屋の奥にもどっていった。

これは、かまいたがりの犬を避けて積みあげられた箱の上に逃げた猫。下から吠え立てられても余裕の表情でくつろいでおり、それを眺めることで人間も和んだ。こういうとき、人間以外の生き物の存在はありがたい。いてくれるだけで気が紛れる。
近所から避難してきたひとたちのなかに、私たちとほぼ同日程で珠洲に滞在しているボランティアさんがいた。そのなかのひとり、Iさんと、少し話した。「私はもともと、しょっちゅう珠洲に遊びにきていたんです」Iさんはそう言った。「ここに友達もいて、その友達からボランティアに来てみないかと声をかけられて、それで来ました」。同じだ、と思った。「私もです。私もここに友達がいて。あと、東日本大震災のときに自分がボランティアをしなかったことがずっと頭にあって。今回、ご縁がある土地がこんなことになってしまったのを見ていて、今行かなくていつ行くんだよって思って」。だけどIさんにとって、私たちの動機は「同じ」ではなかったらしい。「え、それだけで来たんですか? 」ちょっと驚いたように、Iさんは言った。「……優しいですね。私は呼ばれなければ、自分からは来ようとは思いませんでしたよ。ただ友だちがいるだけじゃ、動機にはなりませんでした」。俯き加減に言われて慌てた。なぜって、私はまったくもって、優しくないから。
東日本大震災のあと、周囲のひとたち数人から、災害ボランティアとして現地に行ったという話を聞いた。
たとえば、弟。都のボランティアバスで被災地に行ってきたと母づてに聞いたときの感想は「え! あの弟が!?」だった。弟はいいやつだけれど、私がそうであるように、利他の類からは遠いところにいるひとだと思っていた。
それから、同僚。連休を使って福島でボランティアをしてきたと知ったときは驚いた。ただしその驚きは行動力に対するものであり、弟のときのような意外さはなかった。彼女は常日ごろから他者への思いやりを大切にするひとだった。貴重な休日を他人のために捧げたのか。やっぱりすごいひとだな。私とはまったく別の世界のひとだ。畏敬の念を深くしながら、自分にはああはなれない、と心のなかで線を引いた。
被災地に行ったひとがいる。行こうと思えば自分も行けた。なのに行かなかった。この事実がいつからか、もやもやと胸の底を漂うようになった。”善い”行動ができない自分への後ろめたさは、時として、それができるひとに対する気後れという、不健全な形で表れた。
その後も地震や豪雨に見舞われた地域が災害ボランティアを必要とする状況に陥ることは、何度もあった。いずれのときも私は、少なくとも体力面やスケジュール面では活動可能な状態にあったが、けっきょく一度も行かなかった。今回、ご縁のある土地が被災地と呼ばれるようになったことで、重い重い腰をようやくあげた。能登半島地震が起きた日から11ヶ月、東日本大震災のときから数えたら13年、こんなに長いあいだ動かなかった私は、どう考えてもぜんぜん優しくない。ただ、そういうタイミングだった、順番が回ってきた、それだけの話だ。……という実情をIさんに伝えようと言葉を尽くしたのだけれど、うまく伝えられたかはわからない。
友だちから呼ばれなければこなかった、とIさんは語った。私はどうだろう。こえさんがいなくても珠洲に来ただろうか。こなかった気がする。だとすると行動するために「困っているひとがいるから」以上の動機が必要であるという意味において、やっぱり我々は似ているのではないか。いっぽう、珠洲で出会ったひとたちのなかには、縁もゆかりもないけど来ました、というひとたちもたくさんいた。すごいなと思う。でも、かつて同僚に対して思ったように「自分とは違うひと」だとは思わない。思わないよう気をつけている。線を引いて他者を持ち上げることは、そのひとを孤独にすることだから。
何はともあれ、Iさんは来た。私も来た。泥の詰まったバケツを運んだ。珠洲を見て、ここで暮らすひとたちに会い、話を聞いた。それでいいんじゃないだろうか。「困っているひとがいるから」という以上の動機が必要でも、優しくなくても。
この文章を読まれた方が、あれ、災害ボランティアって、もっとすごいこと、立派なこと、一部の”善いひと“がやること、のように思っていたけれど、案外そうでもないのかも(*)……と思ってくれたら嬉しい。バケツリレーの列に加わるひとは、ひとりでも多いほうがいい。
けっきょく、寝床に引き上げたのは2時前だっただろうか。翌日の作業にそなえてさっさと寝たかったのだけれど、なかなか寝つけず、スマートフォンのライトが漏れないよう頭からかぶった布団のなかで、電子書籍を立ちあげた。『世界』10月号をひらき、瀬尾夏美さんの「静かな”被災地”」を少し読み、それから眠った。
(「珠洲に行ってきた話⑤ 2日目:災害対策強化・銭湯掃除・毛蟹」に続く)
*もちろん被災地に足を運ぶことができるのは、体力面、健康面、金銭面、環境面などの諸条件をクリアした状況・状態にあるひとに限られる。そういった意味では、現地でのボランティア活動は「誰にでもできること」ではない。状況も状態も変わるものだから、可能なときに可能なひとが入れ替わり立ち替わりやってゆけたらいいなと思う。
被災地のことが気に掛かっているけれど現地に行くのは難しいという方は、のと部のSNSアカウントをフォローしてみるとよいかもしれない。自分のいる場所からできることが、きっとみつかる。東京近郊に住んでいるひとであれば、のと部の「東京からできること」を探す班に加わってみるという手もある。
あわせてお読みいただきたい文章です。9月の豪雨の直前にこえさんと交わしたメッセージと、こえさんが見せてくれた珠洲の風景。こえさんと相談しながらこの文章を書いたことが後押しのひとつとなり、今回の滞在に辿り着きました。