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全6回中の第1回⬇︎
●みんなのあみだ湯

大谷地区での泥かきを終え、あみだ湯に帰り着く。2階の大部屋の奥に布で仕切られた半個室が数個あり、それを堀川さんと私にひとつずつ確保していただいていた。荷物を持ちこみ、布団をのべ、すっかり自分の空間として整えてしまったあとで、我々以外のほとんどの方が雑魚寝、脱衣所に布団を敷く、ソファをベッドがわりにする、などといった形で寝ていることを知る。たったの2日しかいない、しかも初日は2時間も働かずに終わった身に「半」とは言えども個室は分不相応に思われ、後ろめたかった。(が、けっきょくそのまま使わせていただいてしまった……)
荷物を片づけ、下に降りる。2階と1階の繋ぎ目にある台所に、いい匂いが立ちこめていた。カレーの匂いだ。おうちカレーではなく、ココナッツとスパイスの、南国風の。コンロの前に立っていたSさんが「賄い係をやっています」と自己紹介してくれる。こんなに本格的なカレーが賄いだなんて! テンションが上がりつつ、先へ進む。
1階は、番台の向こうが銭湯、こちらが休憩所になっている。休憩所は単なる銭湯の休憩所というだけではなく、もっと広い意味での、みんなの休憩所だ。「みんな」というのは「誰でも」ということ。お風呂あがりのひと、あみだ湯の運営をしているひと、ボランティア活動から帰ってきて休んでいるひと、お風呂には用はなくただ来ているひと、家族が車で迎えにくるまでの待合い室がわりにしているひと、そういったひとびとが混ざりあい、ローテーブルを挟んで向かいあう長いソファ、そのまわりに置かれた丸椅子、マッサージチェア、畳の小上がりなど、めいめい好きな場所を選んで座っている。おしゃべりしたり、本棚の漫画や雑誌を読んだり、持ちこんだものを食べたり、作業をしたり……。腰の痛む私は2階にもどって布団に寝そべりたい気持ちもあったのだけれど、せっかく来ているのだからなるべく人といたほうが良いようにも思い、夕食までの長い時間をそのまま下で過ごすことにした。(堀川さんは「仮眠が必要!」と言って2階に引っこみ、素早く短時間眠ったあと、予告したとおりの時間にしゃきっとした顔で戻ってきた)

(これは翌日の朝に撮ったもの。雰囲気が少しでも伝われば…)
大谷の現場で一緒だったボランティアのTさんが、マッサージチェアで『スキップとローファー』を読んでいた。「珠洲が出てくると聞いて読みはじめたら、面白くて。ここにいるあいだに最新刊まで追いつきたいです」。そこにSさんが通りかかる。Tさんの足もとに置かれた碁盤と碁石を見て「え!」と目を見ひらいた。「その碁石って、あれ? あの泥まみれだったのを、ひとつひとつ拭いたの?」。Tさんが、はい、と頷き、Sさんが、まじか、と唸る。「糸川さん、その碁盤、すごいところから出てきたんですよ」「これもです」碁盤のかたわらにあった冊子のようなものを、Tさんがひらいて見せてくれる。古い文集だった。中の写真は白黒で、奥付けの日付は大正だ(ったと思うのだけれど、記憶があいまいです……)。ぱらぱらめくる。まだ泥で汚れているページがある。それをTさんがウェットティッシュでぬぐう。慎重に、丁寧に。ついさっき作業道具を川で洗ったときのことを、こびりついた泥の重さとしつこさを思いだしながら、私も1冊取って拭く。紙と紙が貼りついて剥がれない箇所がある。「入口の自動ドアに、写真洗浄のポスターが貼ってありますよね。ああいうところに持っていったらいいかもしれません」。Tさんが言い、この文集の持ち主は今どうしているのだろう、と私は思う。
その場にいたひとたちに、一軒の泥かきを終えるのにどのくらい時間がかかるんですか? と聞いてみる。「どうなんでしょう。今日行ったあの家には、先週から行っているみたいですが」「いつごろ終わるのでしょう」「そうですねえ……泥をだしたあとも、床下を乾かして、消毒したりもしなければならないので、まだまだ、なんじゃないかなあ」「雪が降りだすと泥が凍ってしまうと聞きました」「そうですね。それまで、どうにか作業を終えられるとよいのだけれど……」
その後もあみだ湯の休憩所には、お若い方からお年を召した方までたくさんのひとが、だけど多すぎはせず、ひとりひとりにあいさつできるていどの人数が、途切れることなくやってきた。地元のひとたちはみな仲が良い。かといって顔見知りだけで閉じている感じもなく、もともとそうなのか、ボランティアを多く迎えるうちに来訪者を受け入れることに慣れたのか、自然に輪のなかにくわえてくれる。ありがたい。が、話題選びが難しい。日々の文脈を共有しているひとたちと、ぽんとやってきた余所者とで、どんな話をしたらいいのだろう。地震や豪雨にかかわることを聞くのは躊躇われる。地震から11ヶ月、豪雨からは3ヶ月、そのあいだに入れ替わり立ち替わりやってきた人々から似たような質問を受けつづけてうんざりしているかもしれない。復興のための作業中や現場への移動中ならばまだしも、そうではない生活の時間にまで震災の話を持ちこんだら、そのひとが本来持っている多様で複雑な顔のうち「現在"被災者"という状態におかれている」という側面ばかりを見せつづけるよう強いることにもなりかねない。かといって自分のことを話すのもなあ、もっと長く滞在するならばまだしも一日二日で去るだけの通行人Aになんて、みなさん関心なかろうし……などとごちゃごちゃ考える私の隣で、Kさんが地元のひとたちと他愛もない冗談を言って笑いあっている。Kさんもボランティアのはずなのに、もうずっとここにいるひとみたいに溶けこんでいる。いつからこちらにいらっしゃるんですか。そう訊ねると、昨日です、と返ってきた。
Kさんだけじゃない。たいていのひとが場に馴染んでおり、少し眺めただけではボランティアのひとのうち誰が今日来たばかりで誰が長くここにいるのか、どころか、誰がボランティアで誰が地元のひとなのかも、判然としなかった。(このあと周囲のひとたちとの会話を通じ、徐々にこのあたりがあきらかになっていった。地元のひとのなかにも移住者が多かったりして、境界線は思っていたよりも曖昧なのだった)
あみだ湯にはさらに、猫と犬が一匹ずついる。猫は近所の旅館の猫なのだけれど、半分あみだ湯の猫になっているとのことで、私たちの滞在中はほぼずっといてくれた。誰に対しても友好的で、写真を撮ろうとスマートフォンを向けた手に頭をこすりつけにきてくれたりする。近すぎてぶれたり見切れたりした写真を、ここぞとばかりにつれあいに送りまくり、自慢した。



犬のほうは、ごく最近あみだ湯にやってきたそうだ。山の中で迷子になっていたところを拾われたとのことで、おなかまわりの肉づきがまだ心もとない。ひとりぼっちでいるあいだに怖い思いをしたりしたのだろうか、見慣れない人間には容易に気を許さない。だけどあみだ湯の運営管理をされているしんけんさんにはすっかり心をひらいており、しんけんさんがそばにいるときは、くつろいだ表情をみせていた。(ほかにもスッポンとどじょうがいた。猫と犬ばかりかまいすぎて、そちらにはあまり気持ちを向けられないまま終わってしまったのが心残りだ)



いい空間だった。人間も、犬も猫も、ただ居ることがゆるされる。ゆるされるというか、そういうものとしてある。お金が媒介となる場所ではこうはゆかないのではとか、東京にこんな場所があるだろうかとか、そんなことを思いつつ、こえさんに聞いてみた。「珠洲には、ほかにもこういう場所があるんですか? みんなの居場所、みたいなところが」。少し考えるような間のあとで、あまりない気がする、と返ってきた。どうやらこのおおらかさは土地柄というよりも、銭湯という場所のもつ性質と、もともとのあみだ湯のかさねてきた歴史、現在あみだ湯の運営を譲り受けつつあるガクソーが居場所づくりをしてきた団体であること、そういったさまざまな要素が混ざりあうなかで培われてきたものであるらしい。
1月4日、こえさんから震災後はじめてもらったメッセージのなかにあった言葉を、思い出す。
「避難所への公的支援はほぼなくて、それぞれの自宅から持ち寄ったもので賄っている状態です。七輪で火を焚いて料理したり、みんな逞しく生きています。」
私が被災したとして(それはまったく、非現実的な話ではない)。今住んでいる街には、私にとって「みんな」と呼べるひとが一人もいない。集合住宅の上も下も右も左もほぼ話したことのないひとたちだし、友人や知人や同僚はそれぞれが離れた街にぽつん、ぽつん、と点で暮らしている。今の街で私が親しんでいるのは、つれあいをのぞけば川と鳥だけだ。それだって一方的な関係にすぎず、能登を襲ったのと同じ規模の豪雨がくれば、川は私の友人面などおかまいなしに牙を剥く。そのとき私はどうなるのだろう。一緒に七輪を囲むみんながいない場所で、どうやって生きてゆくのだろう。

●今さらのこのこ
銭湯のお客さんが落ちついてきたタイミングで、お湯をいただく。家以外のお風呂はひさびさだ。自分もふくめて4人しかいない広々とした湯船で、ゆったりと身体を伸ばす。バタ足こそしないけれど、ひと掻きふた掻き、移動のついでにちょびっと浮いてみたりもする。熱めの湯が作業後の身体にしみわたる。
出発前に、あみだ湯のことを少し調べた。今は営業を再開しているこの銭湯もまた、元日の地震で甚大な被害を受けたという。浴場の天井が落ち、排管が折れ、津波で室内に砂が入り……だが、水を温めるためのボイラーは無事だった。さらに、破損したパイプを修理すると、これまでのように地下水を汲みあげて使えるようになった。全域で断水した珠洲においてこれは奇跡的なことで、どうにかみんなにお風呂を提供できる状態にしたいと、しんけんさんを中心とするひとびとが、自身も避難生活を送りながら奮闘した。その結果、地震から3週間足らずで営業を再開することができたのだそうだ。待ち侘びていた地域のひとたちがあみだ湯の前に列を作る様子を、写真で見た。避難所での生活を余儀なくされるなか、時間を気にせずのんびり入れる温かいお風呂に、どれだけ心身を救われたことだろう。
私は5月にも、ボランティアとして珠洲に来ることを検討していた。詳しいことはすでに「珠洲に行ってきた話① 事前準備」の「1. なかなか行けなかった理由」に書いた。ただ、そちらでは「自治体や団体の制度を利用するつもりでいくつか応募してみたが、結果はすべて落選だった。」というところで話を終えている。実は、あれにはもう少し続きがある。
「自治体系のボランティアは全部落ちちゃいました」。こえさんにそう報告したところ「だったらあみだ湯に来ませんか?」というお誘いをいただいた。入浴支援の仕事があるんです、とこえさんは言った。「地元の銭湯を市民に向けて開いているのです。まだ水道も通ってなく、いまだにお風呂に入れない人も多くいる中、元々地下水を利用していた銭湯なので早いうちから再開していて、僕たちが運営しているんです。」「番頭さんでも掃除でも薪割りでも(!)僕もいる団体なので、気を遣わず、ラフな感じでお手伝いにきてみてはどうでしょう?」。ありがたい申し出だった。なのに私は辞退した。その理由の半分は、私自身の想像力不足や臆病さ、自信のなさなどに起因する個人的なものだ。だけどもう半分はわりと一般的な話のような気がするので、詳細を書いておく。
私はつい最近まで「個人がボランティアをしに行くのならば、“ちゃんとした制度”を利用しなければならない」という考えに囚われていた。(詳しくは「珠洲に行ってきた話① 事前準備」の「1. なかなか行けなかった理由」へ)こえさんの提案してくれた「ラフな感じでお手伝い」は、その”ちゃんとした制度”の枠からはみだしたもののように思え、それがブレーキになった。今ならば、「ラフな感じ」でまったく問題なかったというか、そういった草の根レベルでのお手伝いもまた切実に必要とされていたのだと、よくわかる。現地の状況を想像しようという努力が、まるで足りていなかった。
ただ、私が”ちゃんとした制度”に囚われていたのにも原因がある。特に大きかったのが、地震が起きたすぐあとに石川県知事をはじめとする行政関係者によって行われた発信(「能登への不要不急の移動は控えてください」「現在、個人のボランティアは受け付けておりません」など)と、それを受けてまたたくまにできあがった自粛ムードだった。
発災直後は道路が寸断されるなか緊急車両の通行を最優先にしなければならない状況だったり、ボランティアの拠点はおろかトイレすら確保できていなかったりしたわけだから、あの時点での呼びかけとしては「能登に来るな」も間違ってはいなかったのだろう。とはいえ、取材のために現地入りしたジャーナリストまでもがSNSで叩かれていたのは、やはり異様だった。あのとき押し寄せていたひとびとは、「来るな」と「行くな」、どちらの言葉を使っていたのだったか。そして、その後もしばらく後を引いた自粛ムードが、ボランティア経験も特筆するようなスキルもないけれど能登が気になるという私のような人々を、遠ざけはしなかったか。
この件に関連した神戸新聞の記事を、以下に引用する。
“ボランティアの自粛ムードは東日本大震災(2011年)や熊本地震(16年)などでもみられた。
議論の源流は阪神・淡路大震災だ。当時全国から駆けつけたボランティアの活動をどう捉えるか。「混乱」と「自由」の両側面が指摘されたが、大阪大大学院教授の渥美公秀さん(62)=災害社会学=は「行政側は『混乱』と捉え、全て管理したいという空気がその後、出てきた」と指摘し、続けた。「市民活動を信じない風潮が根底にある」
渥美さんによると、能登半島での活動を希望する学生もいるが、「SNS(交流サイト)でたたかれる」と萎縮し、被災地入りを諦めているという。”
“「被災地NGO恊働センター」(神戸市兵庫区)顧問の村井雅清さん(73)も阪神・淡路で殺到したボランティアについて「行政は混乱したが、被災地は助かった」と振り返る。”
“行政は混乱したが、被災地は助かった”。
……事実そうなのだろう。移動中の車の中で、こえさんも言っていた。
「ガクソーがお世話になっている東京の団体が、地震のあとすぐに駆けつけてくれて、すごかったです。道路も通行止めだったはずなのに、どうやって来たのでしょう。わからないけれど、ありがたかったです」
しみじみと噛みしめるように口にされた言葉を聞いて、後悔した。来ればよかった。1月は難しかっただろうけれど、せめて5月に、ごちゃごちゃ考えてないで来ちゃえばよかった。今でも人手は必要で、今回来たのはずっと来なかったよりはそりゃまあよかったけれど、でも、もっとずっと必要とされていたときに私はここに来なかった。今さらのこのこやってきて、ろくな働きもせず、修繕されたお風呂でくつろいでいる。
被災後のあみだ湯の日々は、InstagramやXに記録されている。それらを見ただけでも、復興の苦労の一端が伺える。なんにもわからなくても、スキルや腕力どころか人間としての基本的な自信すらない私でも、来ちゃえばできることは絶対にあった。「番頭さんでも掃除でも薪割りでも」とこえさんも言っていた。薪割りは怪しいけれど、掃除ならばできただろう。接客が好きだから、番頭だってきっと。だけどお風呂からあがってソファで休みながら、番台に立つEさんがお客さんひとりひとりに「温まっていってくださいね」と心をこめた声をかけるのを聞くうちに、いや、やっぱり私には番頭は務まらなかったかも、と思った。Eさんは、お正月に珠洲に遊びにきていて被災し、そのままあみだ湯に残っているのだという。
ひとあし早くお風呂から出ていた堀川さんが、わくわくしたような困ったような妙な顔をしていた。なんでも明日の作業は泥かきもしくは銭湯の掃除なのだそう。復興のお手伝いをしにきたのだから泥かきがしたい、でも銭湯の掃除にもちょっと、いや、かなり惹かれる……と頭を抱えているらしい。(堀川さんは銭湯が大大大好き)。私は泥かきがしたかった。帰り際に派遣先のおうちの方がかけてくれた「ありがとうございました」「またお願いします」という声が耳に残っていた。ただ、明日も腰が痛むようであれば泥かきは厳しいのではという懸念もあり、その点においては銭湯掃除のほうがいくらか負担が軽そうにも思われた。今日決めなくてもかまわないとのことだったので、保留にする。滞在中、疲労由来の痛みの話が何度か出た。肩がばきばき、腕が悲鳴をあげている、などといった声はあったけれど、腰が痛いのは私だけだった。なんとなく、一番だめな痛めかたのような気がした。
(「珠洲に行ってきた話④ 1日目・後編:美味しいごはんと地震の夜」に続く)
あわせてお読みいただきたい文章です。9月の豪雨の直前にこえさんと交わしたメッセージと、こえさんが見せてくれた珠洲の風景。こえさんと相談しながらこの文章を書いたことが後押しのひとつとなり、今回の滞在に辿り着きました。