2024年11月の終わりに、災害ボランティアとして珠洲に行ってきた話。↓からの続きです。
以下、了承をいただいた方と、同日程で現地にいた旨をご本人が発信されている方のことは実名や愛称で、それ以外の方のことはAさん、Bさん、などと書いています。人間以外の生き物については悩んだのですが、名前は出さず、犬は犬、猫は猫、スッポンはスッポン、などと書く形にしました。
11月26日(火)
この日の概要:2泊3日の1日目。8:55羽田発の飛行機(ANA747)で発ち、ほぼ定刻どおりに、のと里山空港に着く。こえさんにピックアップしてもらって滞在先のあみだ湯に向かい、身支度を整えてからボランティア先へ。泥かき作業を2時間ほど。16時に撤収、以降はあみだ湯で過ごす。夜、大きな地震があった。
●出発・空港から珠洲市内へ
冬の能登にゆくのなら防寒具が必要だ。それだけでも荷物がふくらむところ、今回はさらに作業着やら長靴やらが加わるわけで、あれまあ我が家で一番大きなリュックサックにも収まりきらないじゃないの、と出発前夜に気がついた。”被災地”にスーツケースをがらがら引いてゆくのはどうにもそぐわない気がしたけれど、入らないのだから仕方ない。そう開き直ったはずなのに、当日の朝、リュックサックひとつで待ち合わせ場所に現れた堀川さんを見て、さっそく小さく後悔した。とにもかくにも飛行機に乗る。空のうえで過ごす1時間はあっという間で、機内サービスのコンソメスープを飲みながらおしゃべりしているうちに、気づけば着陸体制に入っていた。
のと里山空港に着くと、こえさんが出迎えてくれた。こえさんは私の恩人だ。今からちょうど10年前に大変お世話になった。とはいえ、いつまでも恩人と呼びつづけるのもなんだか重くていやなので、最近では友人と呼んでいる。そこまでたくさん言葉を交わしたことがあるわけではなく、声を聞くのも顔をあわせるのも今日がはじめてだ。こえさんに運転していただいて滞在先へと向かう道すがら、積もりに積もった10年ぶんの話の山を少しずつ崩していった。
災害ボランティアとして能登を目指すにあたり、私は珠洲にこだわった。理由はいろいろとあるのだけれど、その根っこにいたのが、こえさんだった。そもそも私は、こえさん(と、こえさんのことを知るよりも少し前に知った二三味珈琲というお店)がきっかけで珠洲を知った。そこから徐々に、半島の先端という特殊な地形や画面越しに見る美しい風景に心を惹かれるようになり、5年前には友達に付き合ってもらって旅行で訪れたりもした。……と、そのようなことを、堀川さんへの「ここまでのあらすじ」説明もかねて、しばらく話した。
こえさんもいろんな話をしてくれた。まさか自分が被災者と呼ばれる立場になる日がくるなんて思ってもいなかった。本当に大変なことになってしまった。でも、震災がきっかけで疎遠になっていたひとから連絡をもらったり、旧交が温められたり、といった嬉しいこともあった。そんな言葉が印象に残っている。
こえさんの声は、ぽつり、ぽつりと小さくて、後ろの席の堀川さんにちゃんと届いているかが気になった。それで途中まで通訳みたいな話し方を心がけていたのだけれど、そのうちやめた。もしも車内の会話がいまいちよく聞き取れていなかったとしても、窓の外には見るべきものがたくさんあったから。それらを見て、受けとめるだけで、目も頭も心も十分に忙しいだろうと思った。
珠洲市に入ったあたりから、震災の爪痕が目につくようになっていた。ひびが入った道路、危うい角度に傾いた電柱と道路標識、もとは2階建てだったのに1階が完全に潰れた状態で倒壊している家……11ヶ月のあいだ画面越しに見ていた景色のなかに、自分はいる。その事実に圧倒されながら、でも、と思うことがあった。
地震のあった1月から今日までのあいだに、こえさんと何度かメールを交換してきた。そのなかでこえさんは、被災の苦労をあまり語らなかった。いや、ぽつ、ぽつと聞かせてはくれていたのだけれど、私の印象により強く残ったのは、それとは別の部分だった。
「家族も含めて無事で、家も潰れていません(近辺ではましなほうです)。避難所への公的支援はほぼなくて、それぞれの自宅から持ち寄ったもので賄っている状態です。七輪で火を焚いて料理したり、みんな逞しく生きています。」
「暖冬なのが救いで、日が出ると暖かいなあとか、星が綺麗だとか思いながら生きています。」
「いつか復活して、もっときれいになった珠洲の風景を見せられればなあと思っています。建物は壊れても海も山も、自然は残っているので。できることなら、そこで生きる人の営みも残ってほしいと思っています。」
どの言葉からもひとびとのしなやかさやたくましさや温かさ、それから慣れ親しんだ土地や自然への愛着が伝わってきて、その向こうにときおり、珠洲(をふくむ能登)が”被災地“としてばかり語られるようになってしまったことへの戸惑いや遣る瀬なさが覗いた。自分が”被災者”と呼ばれることへの違和感について「(被災者という言葉が)いまいち好きではないというか、しっくりこない……」と書かれていたこともある。(2月頃のことなので、今は感覚が変わっているかもしれない)
“被災地”の今に目を向け、地震から11ヶ月経ってもいまだに支援が必要とされていることや、豪雨からは3ヶ月しか経っていないのだからこちらも当然支援が必要であること、そうした現状を伝えることは、いうまでもなく重要だ。私だってこの景色を目に焼きつけて帰るし、帰ったら周囲のひととも話をする。だけど、それだけで終わらせたくないとも思っていた。私がここに来たのは、こえさんとのご縁がきっかけだ。であればそのこえさんと、あたうかぎり視線をそろえたかった。同じものを見るのは不可能だし、寄り添うなんていうのもおこがましい(し気持ち悪い)。ただ、こえさんが見ているものを、”被災地”というだけではない、生活の場やふるさととしての珠洲の景色を、少しでも近い形で想像できるようになるために、目を凝らしたかった。
8月にこえさんからもらった数枚の写真が、心に残っている。「“被災地”の外にいる私たちに見せたい景色はありますか?」という問いかけに応えて送ってくれた写真だ。自宅から仮設住宅への散歩道を撮ったものとのことだったので「今も散歩はしていますか」と聞いてみる。「最近は、あまり。暗くなるのが早いので、家から仮設への移動も車になっていて」。できることなら、あの写真の散歩道をじっさいに見てみたかった。でも、こえさん自身が最近は歩いていないのなら、わざわざ頼むのも違うと思った。そうでなくとも、あなたの生活圏を見せてくださいだなんて、立ち入ったお願いだ。
「その後、生活はどうですか」。抽選で当たった仮設住宅はご両親とこえさんの3人で住むには手狭で、こえさんはひとり実家で寝起きしていると聞いていた。実家は今もトイレとお風呂が使えないため、仮設住宅のものを使っているのだとも。今も状況は変わらずですか、と尋ねると、こえさんは言った。「トイレはやっと使えるようになりました。ごく最近、ほんとうに、最近のことです」。しみじみとしたくちぶりから、1週間前とか10日前とか、そのぐらい直近の話なのかなと想像した。「ふしぎな感じがしますね。レバーを回せば当たり前に水が流れるっていうのは。そうか、こういう感じだったかって、思い出したというか」。嬉しそうなこえさんの傍らで、私は改めて茫然としてしまった。だって、ほぼ1年だ。それだけの時間が経ってようやく、なのか。なんと言ったらいいのか、ちょっと言葉がみつからず、みつからないまま、これは怒っていいことなのではないか、という気がした。この状況に対して、それから、この状況がろくに報じられていないことに対して。でも、こえさんは少なくとも目に見える形では怒っておらず、私もただ頷くにとどめた。
震災とは関係のない話もした。趣味のこととか。旅行のこととか。「この辺にはどんな鳥がいるのでしょう」「鳥、ですか」「はい。鳥です、野鳥」。私はモズに執着しているため、いつも知らない土地を訪ねるとそうしているように、このあたりにモズはいますか、と聞いてみた。「どうでしょう」とこえさんは首をひねった。「いたとしても、わからないかも……。あ、そういえば」「はい」「今日泊まるあみだ湯には、犬がいます。大丈夫ですか?」。大丈夫もなにも。堀川さんと私ははしゃいだ。
●通行止め、通行止め

11時半頃、滞在先の「海浜あみだ湯」に到着した。あみだ湯は、珠洲市飯田町にある築35年の銭湯だ。オーナーの膝の不調をきっかけに運営が徐々に後継者へと引き継がれつつあるところで、現在はNPO法人ガクソーのメンバーが中心となって切り盛りしている。震災後、珠洲は全域で断水したが、地下水を汲みあげ、ボイラーで湯を沸かしていたあみだ湯では、蛇口をひねれば水が出て、その水を温めることもできた。ガクソーのメンバーと地元の業者の方々が、故障したポンプの修理やヒビが入った配管への応急処置に尽力した結果、地震から3週間足らずで営業再開へとこぎつけた。以来、地域のひとたちにお風呂を提供しながら、みんなが集い憩う場にもなっている。加えて今は、珠洲におけるボランティア活動の拠点のひとつとしても機能しているのだった。
銭湯の脱衣所を借りて、作業着に着替えた。もともと着ていた動きやすい服の上にワークマンで買った撥水用の上下をさっとかさねるだけの、簡単なものだ。朝から現場に入っているチームと連絡をとったこえさんが「今日は泥かきだそうです」と教えてくれた。9月の豪雨で土砂が流れ込んだ家の床下に堆積した泥を掻きだす作業、とのこと。台所に用意されていた白いおにぎりをひとつポケットに入れ、長靴をはき、出発した。
現場までは、こえさんが車で送ってくれた。(滞在中の移動は、すべてこえさんのお世話になった)派遣先のおうちまでは30分ほどと聞いていたが、道中で何度も通行止めに遭って遠回りに次ぐ遠回りを強いられた結果、着くまでにおよそ2時間かかった。地滑りなどの影響で突然道が通れなくなることが、いまだによくあるらしい。「突然の通行止め」と聞いて、おのずとパレスチナのことが頭をよぎる。パレスチナの土地は、分離壁と検問所によってズタズタに切り刻まれている。住民の(住民なのに)通っていい道と通ってはいけない道が決められており、昨日は通れた道が今日は通れない、ということもあると聞く。地図上ではすぐそこの職場や学校に通うために、夜明けと同時に家を出なければならないひとたちがいる。検問所からずらりと伸びた車の列のなかには、病人や妊婦を乗せたものもふくまれる。そうした不便と苦労が”当たり前”の日常となっている。つぎつぎ浮かぶ連想を、そっと押しやり、遠ざける。この2泊3日のあいだは目の前の珠洲に集中する。事前にそう決めていた。
私たちを阻む通行止めは、人間の手によるものではなく、自然が原因となって起きたものだ。であれば従うよりほかにない。迂回路の山道をゆく。ふだんは通らない道らしい。陥没していたり、崖が崩れていたり、ガードレールがぷつりと切れて落っこちていたり、その頭上で、木々がこがねいろに染まっていた。これを見られたのはよかったです、とハンドルを握るこえさんが言い、ならばよかったです、と私も思った。
山道を抜け、海沿いの道に出る。なんだか見覚えのある景色だと思ったら、それもそのはず、5年前、珠洲から輪島に移動するときに通った道だった。免許はあるのに運転ができない私は、あの旅のあいだも一緒に来てくれた(というか、「さいはて」の景色が見たいという私を車でえんやこら連れて来てくれた)友だちのお世話になりっぱなしだった。海が見えるカフェ。その2階で買った草木染めのブックカバー。塩味のソフトクリーム。夕日を浴びた棚田。それから、半島の先の先にある静かな浜辺。よいお天気だった。他に誰もひとがいない海岸で、シーグラスを拾いながら歩いた。友人は大きなのをみつけるのがうまく、私は爪ほどの大きさのかけらみたいなのしかみつけられなかった。そのかけらを、今でも小瓶に入れてとってある。思い出に浸りかけたところで、またもや通行止めにでくわした。こえさんが車を降り、同じように立ち往生している他の車のドライバーに話を聞きにいってくれる。堀川さんが地図をにらんで状況を把握しようとしているあいだ、私は日本海を見ながらおにぎりを食べ、きつねの嫁入りの伝説について書かれた看板を読み、看板の手前に繁茂していたふしぎな形の草の名前を調べた。(センニンソウだった)。

堀川さんがやってきて、ふたりで海を眺めた。ごろごろと、巨大な白い岩の目立つ海だ。車内でこえさんが、あの岩はぜんぶ地震で海底が隆起したせいで出てきたものだ、と教えてくれていた。「のと部で聞いた話を思い出しますね」と堀川さん。私も同じことを考えていた。すでに何度も震災後の能登を訪ねている瀬尾夏美さんが、現地の状況を伝えてくれた。沿岸部の海底が4メートルも隆起して、浅瀬の漁場がだめになってしまった。海苔の養殖もできなくなってしまい、仕方がないから山の方の畑でがんばるかとどうにか切り替えようとしていた矢先、今度は豪雨がやってきて、土砂で畑が埋まってしまった。家業を失う重さは、私の想像を超えている。
戻ってきたこえさんに、堀川さんが訊ねる。「あの岩の白い部分が、地震前は海のなかにあった、ということですか?」。おそらく、とこえさんが応える。地震前の風景、白い部分が見えず、これほど岩だらけではなかった景色を思い描こうとするが、うまくいかない。一夜にしてすっかり景色が変わってしまうほどの、自然災害。その恐ろしさを正しく想像することは、じっさいにそれが起きた場所に立ってもなお、難しい。地震のあと、石川県の面積が福井県を抜いたらしいです。こえさんが、あわく笑いながら言う。けっきょく、なにもなければ内陸の道をまっすぐに行けたはずのところ、山を越え、能登半島の東側(内浦)から西側(外浦)へとぐるりと回りこむルートで向かうことになる。

●泥かき
13時半頃、ようやく目的地の大谷地区にたどりついた。9月の豪雨の被害が特に大きかった地域だ。窓の外を流れてゆく景色は、こちらに来てから見てきたもののなかでもことさらに痛々しい。あちらでもこちらでも家が潰れている。通行人のすがたのまばらな歩道に、土砂がうずたかく積まれている。ここでもまた、のと部で聞いた話を思いだす。川底の砂が豊かな土を覆って田畑を駄目にしてしまったこと。地震のあと公営住宅が建てられるはずだった場所が、豪雨のあとで災害危険区域になってしまったこと。
派遣先の民家に到着した。作業中の住人の方とボランティアの方々、あわせて10人ほどのひとたちに簡単な挨拶をしてから、ブルーシートが敷かれた室内に土足であがる。奥の部屋の床板が外され、床下に数人がもぐっている。そのひとたちがまず泥を掻き集め、バケツ一杯になったところで床の上のひとに渡す。みっしりと重たいバケツをリレー方式で玄関まで運び、ネコ(手押しの一輪車)に乗せて運んで路肩に捨てる。という一連の流れのどこに私は入ればよいのでしょうか。確認してから、バケツリレーの列に加わえてもらう。すかさずバケツが回ってくる。え、重。よろけた拍子に背中が柱にぶつかってしまった。気をつけなければ。ひとさまのおうちなのだから。そう思って注意していたはずなのに、すぐにまたぶつかってしまう。見かねたひとが、柱の前の位置を代わってくれた。
その後も私はひどく動きが悪かった。からになったバケツが玄関から戻ってくるタイミングと泥の詰まったバケツが奥からやってくるタイミングがかさなることが頻繁にあり、頭ではからになったほうをいったん床に置いて重いほうを受けとるべきだと思いつつも、体がすでに手にしているからのバケツを先に送ることを優先してしまい、隣の堀川さんにばかり重いバケツを運ばせてしまった。餅つきや大縄や大人数の会話が苦手なタイプの人間には、バケツリレーも難しい。でもどんくさいからと言って邪険にするようなひとはおらず、おかげで私もへこたれることなく元気に作業を続けられた。現場の空気はあかるい。誰も彼もがてきぱき動き、お腹から元気に声を出す。私は前者がへたなぶん、後者を頑張る。はい、お願いします、はい、ありがとうございます、これ重いです、気をつけて、はい、行きます、はい……。
開始から30分経たないうちに腰が痛くなった。知らなかった。泥がこんなに重いだなんて。時計を見る。終了予定時刻は16時。あと2時間半もこれが続くのか。バケツは無限にまわってくるが、前のひとの背中の向こうに見える床下の眺めは大きく変わっているようには見えない。きりがない。途方もない。この気が遠くなる作業が、ここでは日々続けられてきたのだ。明日もあさってもしあさっても、私が去った後も当分続いてゆくのだ。「私なんぞが被災地に行って、できることがあるのだろうか」。10ヶ月のあいだうじうじ悩んでいた問いの答えは、今や明白だった。できることはある。人手は多ければ多いほうがいい。どんくさくても、気が利かなくても、いれば必ず力になる。だから行け。さっさと行け。泥の重さを腰の負担として直に感じることで、理屈ぬきにそれがわかる。
きりがない。そう見えた泥かきが、気がつくと完了していた。いくつもある部屋のうちの、ようやっと一部屋ぶん。それでも大きな一区切りだ。次の部屋も同じように床板を切って外して下に潜るべきか、それとも、すでに床板を外してある部屋から潜ってゆけるだろうか、作業を先導していたひとたちのあいだで相談が行われ、後者に決まったらしい。大工さんが床板に定規をあて、躊躇うことなく切ってゆく。他人の分際で身勝手な、と思いつつ、戸惑いと痛みを感じる。鮮やかな手際と機械で切ったみたいな美しい直線に、見惚れもする。長方形に切り取られた穴から覗く床下には、びっしり泥が詰まっている。気が遠くなる、けど、きりがない、わけではないことを、一部屋ぶんの泥が掻き出されるのを見届けた今では知っている。きりはある。果てしなく思えるけれど、いつかは終わる。一部屋終えて、次の部屋へ、これを全部屋、そうすれば一軒ぶんだ。それを一軒、一軒、繰り返す。途方もないが、きりはある。そう思ってやってゆくしかない。
休憩時間、外に出る。細かい雨が降っている。事情に詳しそうな雰囲気のひとに「この泥は、どうするんですか。このあとまたどこかへ捨てにゆかなければならないのですか」と聞いてみる。「いえ、これは回収してもらえます」「そうなんですね」「市道に出しておくと、市が回収してくれるんです。そのために、とにかく私有地から出さないといけなくて」。車のなかから眺めたときは爪痕にしか見えなかった泥の山が、前進のしるしであったことを知る。これもまた、ひとつひとつ、人の手で積みあげてきたものなのだった。
作業は16時までと聞いていたけれど、そこには片付けもふくまれていたらしく、泥かき自体は15時過ぎに終わった。遅れて到着した我々の実労働時間は、休憩をのぞくと2時間弱。体力的にはまだ余裕があったが、腰が不穏な状態になりつつあったため、思っていたよりも早く作業がおしまいになったことに、ひそかに胸を撫で下ろした。
撤収前に、道具についた泥を落とす作業があった。近くの川で洗うという。川までの道は軽トラックの助手席に乗せてもらい、運転してくれたAさんとおしゃべりをした。Aさんは地元の方だ。震災後は親戚のいる他県に避難していたが、最近はそちらと珠洲を行ったり来たりしているとのこと。避難生活の形もさまざまだ。たとえばこえさんの場合、被災直後に二次避難として金沢に行き、数ヶ月を過ごしたのち、夏に珠洲にもどってきた。そしてここ大谷では、派遣先の家のすぐ近くの学校が、今も避難所として使われている。ここでの避難所生活は地震以降ずっとつづいているものなのか、それとも豪雨からなのか。地震のあと多くの人が珠洲を離れたと聞くが、その後、状況はどう変化したのか。どちらも大切なことなのに、聞きそびれてしまった。
川に着く。ふりつづける雨をよけるため、撥水ジャケットのフードをかぶる。浅い流れに入り、シャベルにこびりついた泥をブラシでこする。ワークマンでそろえた作業着たちはどの子もみんな優秀だ。撥水ズボンもゴム製の軍手も、川の水がまったく染みない。だが、水の冷たさまでは防ぎきれず、軍手越しでも指が痺れた。水が泥を勝手に削いでいってくれないだろうかと、幾通りかの角度を試して泥に流れをあててみたけれど、ぜんぜんだめ。しかたなく地道にごしごしこすりつづける。
川からの帰り道、テントがならぶ一角を通過した。自衛隊のお風呂だよ、とAさんが教えてくれた。大きなテントはふたつ、よく見えなかったけれど、おそらく男湯と女湯、なのだろう。それぞれの入り口の前に自衛官がひとりずつ見張り番のように立っていた。今もなお自宅の水道と電気が復旧しておらず、お風呂に入れないひとたちがいる。そのことについて考えていたら、またもパレスチナのことが頭をよぎった。清潔な水を手に入れるのに苦労している。海水で体を洗っており、そのせいで皮膚の病気にかかってしまったひとが大勢いる。そう聞いたのは四ヶ月前。かれらは今もシャワーを浴びられていない。「風が強い日は、お風呂もお休み」とAさんが教えてくれる。
追記:この回を更新した数時間後に、自衛隊の入浴支援が12月17日をもって終了していたことを知った。大谷ではまだ水道が復旧しておらず、電気が使えない地域もあると聞いているのに…。
この日、大谷で撮った写真はこれだけだ。



右を見ても左を見ても、胸が痛くなる光景が広がっていた。この様子を写真に撮って伝えなければという使命感のようなものと、潰れていたって誰かの家なのにカメラを向けていいのだろうかという躊躇いがぶつかり、けっきょく、あまり撮れなかった。泥かき中の写真にいたっては一枚もない。記録のために撮らせていただけないでしょうか、と住人の方にお伺いすれば、いいよと言ってもらえたかもしれない。でも、実労働時間2時間未満、ろくな働きもしていない分際で……みたいな考えに邪魔され、言いだせなかった。明日、もうちょっとちゃんと仕事をしてから撮らせてもらおう。そう思っていたのだけれど、これはけっきょく、果たせなかった。(詳しくは第3回に書きます)。
軒下の、おそらく大人の腿あたりの高さまで堆積した泥にぺたぺたと猫の足跡がついていたのを、こちらに帰ってきてからも思い出す。あったかくていいんだろうね。雨風もしのげるし。鳥が巣を作っていたこともあるよ。カモメだったか、ウミネコだったか、と、長期滞在していたボランティアのひとたちが話してくれた。
作業を終え、あみだ湯に帰るハイエースに乗せてもらう。運転してくれたSさんをふくめ、同乗者はみんな、ボランティアのために他県から来ているひとだった。自己紹介の流れにはならず、その手の話はすでにひととおり終えているのだろうなと思うと自分からも言いだしづらく、ええと、こういうときってなにを話したらいいんだろう、と考えているうちに、カーステレオから音楽が流れだした。イントロ2秒で『勇気100%』だとわかる。「歌詞がすごくいいんですよ」。選曲したTさんが熱っぽい口調で言い、わかります、と前のめりになる。勇気100%は歌詞がいい。ものすごくいい。小学生のころ『忍たま乱太郎』が大好きで、主題歌だったこの曲も大好きで、アニメでは流れなかった2番の歌詞まで自由帳に書き出しておぼえた。今でもそらで歌える、ので、高らかに歌うTさんに、小さく声をあわせた。そのあとは、いい歌詞のアニソンつながりということでアンパンマンマーチが流れたり、新旧ドラえもんの歌が流れたり。行きと同じ、穴が空いたり崩れたりした道のうえ、徐々に日が暮れてゆく。私はいま、名前もちゃんと知らないひとに命をあずけているんだよな。他人事のように、そう思った。
あわせてお読みいただきたい文章です。9月の豪雨の直前にこえさんと交わしたメッセージと、こえさんが見せてくれた珠洲の風景。こえさんと相談しながらこの文章を書いたことが後押しのひとつとなり、今回の滞在に辿り着きました。