昨日書いたものを、改めて読み返している。
その中で、ある一文を読んで気付いた、というか思い出したことがある。
どうやら、この「記録が出来るか否か」が、私のメンタルのバロメーターになるらしい。
そういえば、昔からあれやこれやと「書いていたな」、と。
その大半はネットの藻屑になったり、永久のゴミ捨て場に放り込まれたり、度重なる引越しの間にどこかへ行ってしまったり、実家の片隅で眠っていたりしている、と思う。
なので、手元にはほぼ残っていない。
自分の中で、「書く」ということは一体何だろう。
幼い頃から絵を描くのが苦手で、真っ白の画用紙を前に何を描いたらいいか分からなくて困っていたし、それをうまく伝えられずに周りの大人を困らせていた。
そのうち文字が書けるようになると、絵を描く代わりに文字を書いてお茶を濁すような悪いこどもになった。
友人の代わりが「パソコン」であり、「インターネット」でもあった。
ある程度文章が書けるようになると、インターネット上に文章を書いて放流するようになった(いわゆる「テキストサイト」)。
紆余曲折あるが、「書く習慣」は今もこうして続いている。
最近は、ふと不安になったり、悲しいことがあったりすると、(走り書きでもいいから)その気持ちを拙いながらも言語化するようにしている。
話すことが苦手なら、書けばいい。
上手に伝えようとしなくてもいい。
自分の中でうまいこと昇華出来たら一番いいが、それが難しいことも残念ながら少なくない。
かなしいね。つらいね。
でも、書くことをやめてしまったら、自分は一体どうしたらいいんだろうな。
幼い頃のように、どうしたらいいのか分からず、ただただ困らせてしまうのかもしれない。
いつ爆発するか分からない「不発弾」を常に抱えたまま、誰とも関わらずに一人で抱え込んだままかもしれない。
そう考えると、「書く」という行為は、自分にとって必要なことなんだな。
当たり前すぎて、気付かなかったけれど。
誰かに理解してもらえたら、なんて思わないし、それを仕事にしよう、とも思わない。
ただ、ひたすらに、書くことしかできない。
それは、世の中をうまく渡れず、ただ不器用に生きるしか出来ない私の数少ない「出来ること」である。