毎日まあまあ楽しく暮らしている。3月は忙しかったけれど言葉がたくさん出てきてうれしかったし、4月も月初からいいことが多い。
そんな日々にあっても、どうしたらよかったんだろうなあ、と時折思い返して考えることがある。このまま関わっていても全くお互いのためにならないと判断し、いきなりバチンと関係を切ってしまった相手についてだ。
ひとりで考えてもうまいこと整理されないし、家族にはさんざん助けてもらったのでこれ以上の負担はかけたくない。全く知らない誰かに聞いてもらうつもりでここに書くことにした。ただこれはあくまでも思考のループから脱するための整理であることを念頭に置き、自分の気持ちについてのみ書きたい。
いろいろな気持ちが多少の時間を経て、心の湖底でおとなしく過ごしてくれるようになった。いろいろというのは、病身を押してぎりぎりまでがんばったのに報われなかった、ちゃんと喧嘩したかったのにできなかった、こんな結末しか選べなかった自分は未熟だ、といった気持ちだ。ぶった切っておいて何をという話だけど、こっちがたった一度拒絶した程度で向こうはこの関係を諦めちゃったんだ、逃げちゃうんだ、といった子どもじみた悲しみや寂しさも混ざる。
バチンとやってしまってからまず思ったのは、こんなことになるならもっと早くに殴り合って(※比喩)おけばよかったなあ、だった。変に遠慮したり持ち上げたりカッコつけたりするから、それを何年も積み重ねたりするからこうなる。嫌われたくないがゆえにオートでそういうことをしてしまうところが私にはある。悪癖だ、とあのときにも思ったのに改善できていなかった。結果、自分と相手以外の人間も巻き込んで、なんなら巻き込んでしまったひとにとくに重傷を負わせた。
それに気づいてからは反省とヤケの半々で取り繕うのをほとんどやめた。初めて会うひとの前でよりよく見せようとするのも、よく遊ぶひとに必要以上にいい顔をするのも、同僚の雑談を面白がっているフリをするのも、上司のヨイショも全部やめた。小さな子どもにだけは引き続き本心よりも優しく振る舞っている。私の暮らし方においては実態よりも自分を大きく見せて好かれることに何の意味もない。以降さまざまがスムーズに運ぶようになり、楽しい約束や新しいひととのつながりも自然に増えたことでその確信をいっそう深めている。
どうしたらと冒頭に書いたけれど、対人援助職として考えるなら、やり方こそ荒すぎたがぶった切ったこと自体は正解だった。それこそ相手のプライバシーがあるので具体的な理由は書かない。ただこうした関係に陥り改善が見込めない以上、無理にでも距離を取ることが最善だったと、それだけは理論でもって断言できる。
素直な気持ちを書くなら、相手のことは大事だったしもっといろいろな話をしたかった。これからそうなれたらと思っていた矢先のことだった。すべての問題がすべての関係者にとって素晴らしい形で解決し、すべての傷が癒えてほしい。そのうえでまた自然と距離が近づくことがあればいいなという気持ちはある。が、まあ、そうはならないだろう。(※24.7.20現在 もはや顔も見たくないし気配を出すなと思っている)
私は私の「友だち」に対する距離感(一般的なそれより遥かに家族に近い)が相手に問題を起こさせたと考えている。今のところ私はこれを相手に応じて個別に多少コントロールするつもりはあっても、姿勢そのものをマジョリティの水準に合わせようとは思っていない。自他境界さえ形成できていればこの距離感でも本来問題は起きないからだ。でも、その自他境界がなかった。私はうまく枠をつくれずに侵入を許してしまったし、自分の枠が適当だから気づけば相手側にも侵入していた。「侵入」という言葉のイメージから、入ったほうが悪いような印象を受けるひとがいるかもしれないが、そうではない。枠をきちんと作らなかった側にも問題がある。とにかく長年ここをきちんとしなかったせいで本来傷つかなくていいはずのひとまで傷つけた。少なくとも健全な枠が形成されないうちは周囲に被害が及ぶ可能性が高いので、双方近づくべきではない。
何より相手が衝突を望まないことは長年付き合ってきてなんとなくわかっている。私から責められる可能性がある以上(関わり方や姿勢によっては確かに私は怒ると思う)、向こうから連絡してくることはきっとないだろう。これは私からコンタクトを取らない限りこのまま萎びていく関係だ。場外乱闘の果てに傷つけてしまったひとにこれ以上の傷を負わせないためにも、私自身が強固で健全な枠を形成するためにも、こちらから連絡することはない。したがって近い未来に枯れるだろう。どう関わったらよりよい友だち同士になれるか年単位であれこれ悩んだ日々を思うと無念だけれど、それは同時に歪に積み上げてしまった日々でもあるから、「素晴らしい形」に収まる余地は今のところない。
なんとかしようとずっとがんばってきたのにな、と思う。それは向こうも同じだ。がんばったのにいろいろな結果が伴わなくて、そのうえ私に責められてつらかったり憤ったりしただろう。それを気の毒には思う。申し訳ないとは、あまり思わない。枠のことを考えると、思わないほうがいいと思っている。
たぶん、うまくやろうとしたのがよくなかった。「うまく」なんて、ただの主観だ。ひとりよがりだ。自分にだけ見える綱を渡ろうとしてはいけなかった。綱ばかり見て関係のない誰かを踏んづけたり蹴飛ばしたりしていることに私も相手も気づけなくなっていた。うまくいかないね、なんでだろーね、その言い方やだ!それは優しくない!なんてことを当事者だけでいつも言い合えていたら、向き合えていたら、無謀な綱渡りなんかせず地べたを一緒に歩き、周りに助けてもらうこともできていたかもしれない。本当はずっと、対等にそれをやりたかった。これについての後悔は尾を引くと思う。でも相手のことも自分のことも今は信じられないので、リトライするつもりはない。
はじめから対等に、健全に付き合えていたら私たちはどうなっていたのか、その未来を見てみたかった。これを書きながら、そういう気持ちにたどり着いた。書いてみた意味はあったのかもしれない。