
自分は自分の「好き」を悪く捉えている……というか、自戒を込めて悪く捉えようとしている節がある。「これは綺麗な感情ではない」と最初から諦めている。
そんな風に自分の「好き」について「こんなものは差し出すべきではない!」と思いつつ、好きな人たちを見ているうちに少しでも感謝を伝えたくなり、気持ちが駆り立てられる。「好き」に伴う罪悪感のようなウジウジした感情を振り切って駆け出したくなるような気持ちになる。それゆえにSNSや配信でコメントをしたり、うちわを作ったり、お手紙を書いたりする。
ときめきと罪悪感とそれをも振り切らせるさらなるときめきが自分の「好き」の周りをぐるぐる回っている。それをどう扱ったらいいのかは正直よく分からなくて、時々どうしたものか~とぼんやりすることがある。
そんな自分にとって最果タヒさんのエッセイ『ファンになる。きみへの愛にリボンをつける。』は大変興味深かった。全20篇。他の人が自分の「好き」をどう取り扱っているかということは、Twitterで夜な夜な壁打ちをしている人以外からはなかなか聞けないものだ。(自分はああいう壁打ちを見るのが大好きです)。
読みながら、自分の「好き」について考えた。つらつらと考えたので特に印象的だったものについて書き残しておく。
「舞台の中止と私」
自分の気持ちと好きな人たちの気持ちは別物だし、彼ら彼女らの気持ちや状況は想像することしかできない。だから一緒になろうとしすぎないように気をつけている。そのことを思い出す話だった。
でも「気をつけている」ということは気を抜くとそうなりかねないということで、そういう危うさを自分も孕んでいるんだよなあ。
好きな人たちにとってつらいであろうことが起きたとき、自分と好きな人たちを分けて考えられる冷静さを持っていたい。仮に心がかき乱されたとしても、それを多くの人の目につくところで書かない冷静さも。表出させる感情の強さだけで愛の強さを確認したくないなあって思う。
「ファンレターが書けない」
「あなたを好きな人がいるんですよと公演中、客先から伝えたくなる瞬間がある」(p.28)という部分で「これがうちわを作る理由だー!!」と思った。
前にもそんな話をしたな?
最近同じことを思うのがインスタのコメントです。視界に入るかもわからないうちわの文字も悩みまくるのでインスタへのコメントなんてもっと無理なのだけど、好きなアイドル(風磨くん)が自分のファンクラブでニコニコしているのを見て、こんな顔を見せてもらえるならちゃんと伝えたいなあと思ったもので。
Rayのインタビューでインスタのコメントは読んでいるという話をしていたので最近はちまちま書いている。毎度めちゃ悩む。
「オペラグラスが恥ずかしい」
オペラグラスで見るという行為についての話だったが、自分の場合は物理的に見ていなくてもこういうことを思う。
好きになること自体が自分の勝手であって、自分の中で完結している思いのはずなのに、「一方的に見る」なんてかなり能動的な行動に出てしまっているからそれが怖いのかもしれないなぁ。
(…)
事実として当人に許される限界を知りたいのではなくて、見るという行為は普通は一方通行的にするものじゃないから、それが当たり前にできる空間にどうしても慣れないというだけだ。(p.37.)
アイドルとオタクの関係性は現場以外でも「一方通行」が強い。
アイドルもファン全体に対して想いを伝えてくれることは多々あるし、場合によっては認知されて1:1の関係に近くなることもある。それでも自分にとっては「ファンの一人である自分」から「自分にとって唯一のアイドルであるあなた」への一方通行だと思っている。
だから現場以外でもだいたい「この一方通行の愛ってキモいなあ……」と思っている。でも「オタクはキモいものだから!」で開き直るのも違う気がして、かといって尊い感情として振る舞うのもしっくりこなくて。周りのオタクがどう考えているのかは別として、ただ自分自身の話として、この一方通行な感情をどう取り扱うかしばしば悩む。
最果タヒさんはご自身なりのお話をエッセイには書かれているのだけど、やはり自分は自分の「好き」が、つまりは自分のためでしかないこの感情が怖い。それは自分のためだけにはあまり食費を使いたくないとか、何の理由もないのに自分の衣食住にお金をかけたくないとか、そういう自分の根本的な考え方からきているのだと思う。
ただ、このエッセイの
世界を好きになれるとき、そこに生まれて出会った「私」を鏡に映る像のように無意識に、心の底から愛している。
という一文で、坂本真綾さんの「Driving in the silence」を思い出し、その点はたしかになあと思った。
きみをすきになることは自分を好きになること
(坂本真綾「Driving in the silence」)
好きな人たちとの共通点だとわかったところは好きになれるし、好きな人のことを思って自分のためにお金使うのは楽しい。そうして気づいた「私」はたくさんある。
まだわかっていない自分なりの「好き」との付き合い方をふらふらと探していたい。
「初日がこわい」
自分は最果タヒさんと違って宝塚のファンではない。でも応援しているSexy Zone/timeleszのライブは感覚的に舞台に近くて全体としてどういうメッセージで来るかが気になる。だから「初日がこわい」という感覚には共感できる。
メンバーが出ていればなんでもいいわけじゃない。どんなメッセージで来るのか気になって具合が悪くなりかけるほどドキドキするし、演出が自分の感性と合わなかったらどうしようと不安になる。2022年のザアリを見にいく前は「夏のライブ!?水着Jr.は絶対に嫌ですが!?」と思っていたし。
今年の夏のエピゼロは3人体制になって、そして改名してから初めてのライブだったのですべてが不安だった。「Sexy Zoneがよかった」「5人がよかった」と思わないか不安でsecondzを名乗ることもできず「timeleszを好きかどうかはライブ見ないと分かりませんからね〜」と予防線を張っていた。本当に「初日がこわい」だった。
一方で絶対に盛り上げようと謎の責任感を持ってもいた。だから真駒内初日のtimeleszコールは全力だったし、アンコールも立見席から大声を出した。「secondz〜!」と呼びかけられたときだけは一瞬ためらいがあったけれど、最終的にはSexy Zoneもtimeleszも好きなんだと思える時間だった。
まあだからといって「絶対好き!」も「死ぬまで応援する!」も言えない。明日のことはわからなくてこわい。でも今この瞬間に「すごく好き」「これからも追いかけたい」と思っていることは事実で、将来を確約できなくてもそう思うことの積み重ねでもいいのかなあと最近はぼんやり考えている。
「同担、拒まないけど。」
最果タヒさんの書かれている「好き」が「一人きりの感情」であるという感覚には身に覚えがある。
自分が話せることは好きな人の話というよりも、好きな人を通して感じた自分の話でしかない。それゆえに好きな人が一緒なら共感できるとも仲良くなれるとも別に思わないんだよなあ。そうなんだよなあ……。だから他人の話を聞くのも他の人に話を聞かれるのも嫌じゃないけど「同担なら仲良くできる!」とも「〇〇担ならこう!」もない。そういう共同体意識はない。
インターネットの海であれこれ書いているけれど、これもあくまでその人を通じて自分の感じたことの話でしかないしなあ。結局自分の話だし、誰かに伝えたいとか良さを知ってほしいとかも正直あまりない。本当に壁打ち。
でも一人で日記に書いているよりも出会いと気づきをくれるからインターネットの海に放ってしまう。その気づきをくれるのは同担じゃないことも多々ある。誰かを好きでいる人同士の偶発的な交点は面白いなあと思う。
「全ての出会いが最良のタイミング」
「焼き付いた」はその人の鮮烈さがもたらしたものでもあるけれど、私の人生が導いたもの、そのタイミングでその場でその方角を見ていたからこそ、のものでもある。(p.92)
ほんとうに!! これ!!!!
自分が風磨担になった経緯を思い出しながらちょっと泣いた。
2022年の朱鷺メッセのアリーナ、上手側ブロックの十字に切った花道の近く。Forever Goldのイントロを聞きながら振り返って、照明の眩しさに目を細めながら見た風磨くんを一生忘れない。
Forever Goldが流れるとあのキラキラした背中を思い出し、あそこで担当が決まったんだよなあと思う。エピゼロのForever Goldで遠くのリフターの上にいる風磨くんの背中を見上げたときにも朱鷺メッセのことを思い出した。
「目が合ったと断言したい」
「目が合った」をどう取り扱うのか。自分の場合は現場によるなあと思った。
たとえば舞台のとき。役として舞台の上にいるときは役として見たい。感想は作品や役に対することを書きたい。舞台を観に行くときは本人に会うと思って行ってはいないし、仮に役に入っている好きな人と目が合ったとしても、それは好きな人と目が合ったわけではないと思っている。SHOCKのDancing On Broadwayでショウリと目が合ったらたぶん劇中劇の観客の気持ちでショウリにときめくだろうしなあ。
一方でライブのときは役じゃなくて本人としてそこにいるから、目が合ったときは「わ!目が合った!」と思う。思い出すのはエピゼロ福岡2日目の立見席。自担が近くに来たとて基本的に背中しか見えないのだけど(そしてそれで十分なのだけど)、あの立見席のときは「わ!目が合った!」と思った。じーっとこっちを見てゆらゆらと手を振る風磨くんを見て前後の記憶が飛ぶほどだった。
目が合えば誰でもいいなんてことはない。ファンサがもらえれば好きになるなんてことはない。その人を好きだからこそ目が合った瞬間に声にもならない声が漏れるのだと思う。
「休演のこと」の「(今思うこと)」
「私はその人にとって、自分の愛情がどういうものなのか知らないし、本当はとても怖いし、伝えて大丈夫なのかどうかだけでも知りたい、とたまに思うけど、」(p.109)という部分を読んで、自分はたまにどころじゃないなあと思った。
好きでいることはずっと怖い。でも私の好きな人たちは好きでいることを許してくれるというか、ありがとうといって受け取ってくれている(と思う)ので、おずおずと差し出しながら今日まで過ごしている。
最果タヒさんはこの悩みに対して「私は私の愛情を誇れるものとして磨かなくてはならない(と、最近は思っています)。」(p.109)と綴られており、自分もそういうメンタリティになれるといいのかなあと思った。そうしたらもっと「好き」で苦しまなくて済むのかもしれない。
「おすすめは難しい」
「同担、拒まないけど。」の感想でも書いた通り、誰かに好きな人のよさを知ってほしいと思う気持ちがあまりない。
自分をオタクだと知っている周りの人に対してオタク仕草として「その作品中島健人くんも出てるんで」とか「あのCMは菊池風磨くんですね」と言うことはある。でもそれはその場のコミュニケーションの要素が強くて、その人を好きな自分自身としてやらずにはいられない行為ではない。だからコミュニケーションの材料にしちゃってごめんなさいと思わんこともない。
もちろん不意に何かを見た感想を伝えられると嬉しい。けれどそれがないと不安になることもない。自分は自分でその人を好きで、周りの人や世間の評価や注目は関係ない。
友人のすすめでSexy Zoneに出会ったので「おすすめ」という行為は素晴らしいと思うし、こと風磨くんに関しては売れたいと言い続けているのでファンとしてはきっとお手伝いできたらいいのだろう。でも「まあ他の人のことだしなあ」が拭えないし、おすすめしようと思って何かを書くと自分の「好き」を取り繕いそうで怖い。そんなこんなでおすすめできないオタクでい続けている。
ただ時々、見知らぬ誰かに届いて嬉しいことはある。おとはすの卒業に関する自分の気持ちを綴ったとき、「おとはすとオタクの良い関係性が伝わる」とコメントいただいたことがあった。こちらとしてはただ自分の気持ちを書いていただけだったが、こんな風に誰かの印象の一部になることもあるのかと思った。
逆にいうとネガティブな書き込みがネガティブな印象を形成することもある。自分だってファンが強そうだなあと思った界隈にはあまり近づきたくないし、ライブに行って「なんでこんなに悪口を言いまくるファンがいるんだ……雰囲気……」と思った経験もある。
だからおすすめはできないとしても、せめて触れる機会を奪わないようにはしたいなあと思う。それは常に称賛しろという話ではない。自分が素敵だと思ったことについてハッピーに大きな声で話して、悲しいことに関しては悲しみを共有できそうな人とそっと話して、抵抗したいことについては冷静に然るべき方法で然るべき人に伝えたいという話。
これってある種のトーンポリシングなのかなあと思いつつも、少なくとも顔の見えないSNSに関してはそういうスタンスでありたいなあと思う。誰かと話す場はSNSだけではないので。
「舞台のあなたの夢」の「(今思うこと)」
最果タヒさんから見れば界隈の外である自分には知り得ないことがこの背景にはあるんだろうなあと思う文章だった。だから共感できる部分があってもはたして共感できているのか分からない。
ただ、この気持ちにはすごく身に覚えがあった。
私は、その人が見つめる光の一粒になれるならそれが嬉しいし、あなたのその瞳が輝くことを願い続ける一人の人でいたいです。(p.125)
ライブ中、ケンティーの挨拶のときに青色に染まった会場を愛おしそうに眺めるケンティーが好き。そのことを思い出した。
応援している存在がいることは伝えたいけれど一個体として好きな人の視界に入りたくない……と拗れた感情を抱いているけれど、ペンライトの一部になりたいとは思っている。それはケンティーの影響が大きくある。
ケンティーはライブの挨拶で「みんなが僕を完璧で究極にしてくれるんだよ」と話してくれたり、青いペンライトを喜んでくれたり、ファンの歓声を愛おしそうに聞いてくれたりする。だからこそ自分も「その人が見つめる光の一粒になれるならそれが嬉しい」と思うし、「あなたのその瞳が輝くことを願い続ける一人の人でいたい」と思う。
こうやってパッと出てくるのは愛されスキル抜群のケンティーだけど、他のメンバーも同じだ。(他のメンバーという言い方が今適切なのかは分からないがSexy Zoneという括りで一旦書かせてもらう。)
あなたの思うように輝いていてほしいなあと思う。そしてもしその輝きや輝く空間の一部になれるのなら、そんなに幸せなことはないと思う。CDを買っているときもそう思う。
結局はステージの上で輝いている姿を見られるだけで幸せだよ。買い支えているなんておこがましいことは思わないけれど、私の買ったCDがそのビジューのひとかけらになればこんなに幸せなことはないよ。
「客席降りで自問自答」
繰り返し書いているように自分の「好き」をあまり良きものとして捉えていないのだけれど、この一文を読んで「そんな発想があるのか!」と思った。
川の水が、流れ続けることでずっと澄んでいるように、「好き」もずっと伝えていたらずっと澄んでいるのかもしれないって思う。伝えるつもりでいる限り、自分勝手な「好き」ではいられないし、ずっと磨いていなくちゃいけないし。だからこそ、自分の「好き」を私は好きでいられるのだろう。(p.129)
そうか、伝える前提でいればいいのか。しばしば自分の中でぐるぐるとかき回して煮込んでドロドロにしてしまっているけれど、伝えられるように磨くという考え方は美しい。
ただ自分は人目が気になるタイプなので、相手に差し出すと思うと変に誤魔化してしまいそうだなあとも思う。伝えるというマインドはそれはそれで難しい。いや、好きならばこそその難しさをも乗り越えよということなのか?
振り返ってみると、伝えるために「好き」を磨いた経験はある。うちわの文字を決めるとき、SNSにコメントするとき、特典会で話す内容を考えているとき。結局上手く伝えられないときも多いし、うちわなんかは視界に入らなかったこともある。それでもうんうんと頭を悩ませている時間は好きだ。
ぶっちゃけうちわができあがったり、コメントしたり、話す内容が完成したりした時点でだいぶ満足している。ああいう時間が「好き」を真剣に磨くということなのかもしれない。
「ずっと好きですと伝えたい。」の「(今思うこと)」
もう一つ前の話と同じようにこれもなるほど~と思った話。
だらだら書いてきているように自分は「ずっと」と言えないのだけど、この文章を読んでそういう考え方もあるかと思った。
「これはね、証明するとか、確信するまで思い詰めるとか、そういうことじゃないんですよ、誓いなんですよ!!」と断言したとき(マジでそんな会話を知人と日比谷でした)、私は絶対に折れない愛という名の槍を手に入れたようだった。永遠に貫くことができるだろう。貫けないならそれは私の敗北で、私はこの戦いに挑むことに決して躊躇しない。絶対負けないかどうか戦う前に確認するなんてのはアホらしい、戦う、戦って勝ち抜く。それがすべて。愛ってそういうものでしかないのですよ。愛とはいつも自分が作り上げ完成させるもの。(p.137)
↑風磨担になるまで1年半石橋を叩いたオタクの心に突き刺さるくだり。
しかしまあ、こういう考え方を知ってもなお「ずっと好き」とは言えないなあ。これは自分の弱さなのでしょう。石橋を叩き切ってから走り出すタイプなもので。
でも石橋を叩くのは勝つためではない。好きな人を好きでいた時間およびそこに費やしたお金について後悔することはない。その点は断言できるから負けや損の概念はそもそも存在しない。
じゃあなんの石橋を叩いているのかというと「その程度で安易にずっと好きっていうな!」に耐えられるかどうか、石橋を叩いている。ずっと好きだと言っておいて好きじゃなくなるなんて相手に不誠実な気がする。別に向こうはオタク一人の動向など見ていないとは思いつつ、これはこちらの気持ちの問題なのだ。(いやまあおとはすは見てそうか)
3月にお手紙を出したときも、春からの形が分からない中で「ずっと好きです」と断言する勇気がなかった。同じだけお金と時間を費やして、気持ちを向け続けられるか分からなかった。だから4人それぞれへのお手紙では「どこへ行こうとどんな形であろうと5人の幸せを願っています」と書いた。
もし何かの折に熱烈に好きではなくなったとしても、幸せでいてほしいとは願い続けるだろう。幸せなニュースを聞いたら嬉しくなるだろう。「ずっと好き」とは言えない自分だけれど、これだけは「ずっと」を誓えた。
こんなふうに幸せを願える相手がいるのは向こうが幸せを与えてきてくれたからであり、ありがたいことだなあと思う。もし自分と相手の距離感が今と変わったとしても、そこまでの時間に後悔はないし、その先も幸せを願っている。ずっと。
「迷惑かもしれない」
「そう! そうなんですよ!!」と思いながらp.141まで読んで、p.142ですれ違って、最終的になるほどなと思う話だった。
最果タヒさんは「迷惑かもしれない」の処方箋として「自分のことをちゃんと好きなら、大丈夫な気もします」(p.142)と綴る。そして「人を愛するには自分のことをまずは愛し抜かなくてはいけない気がする」(p.143)と綴る。
そこで「え! 無理かも!」と思った。自分を愛するって一番苦手なやつです。そう思えたらいいなあと憧れた後にやってきたあまりの遠さに泣きそうになった。
でもその後に逆の意味で泣きそうになった。
そしてそれは自分が完璧にならなきゃいけないというわけでも、すべてを肯定しなくてはいけないというわけでもない。それこそ、誰かを愛するときに、その愛を恥じるものにしない、ということとか、その愛を相手に差し出せるくらい磨き上げるとか、それで良い気がする。(p.143)
正直自分の場合、好きな人たちへの愛を磨き上げたとてその愛を誇ることも自分を誇ることもあまりできないと思う。でもこの文章の「恥じるものにしない」という部分が光って見えて、自分が大事にしている「好きな人たちに恥じない生き方をする」が重なった。本当は風磨くんみたいに「友達に恥じない生き方をする」って言えるほうがかっこいい気もするけど、自分は友達に対してはあんまりそういうことはあまり思えなかったのでちょっとアレンジさせていただいている。
「今は好きな人たちに胸を張って会える状態だな」というときは、少しは自分を誇らしく感じられる。
イベントで会ったときにいい報告ができたとき。SNSで「今日は何してた?」と聞かれて前向きなコメントができたとき。ライブの最後に「明日からも頑張れそう?」と聞かれて「頑張れそう!」と心の底から叫べたとき。そういうときはたぶん、自分を好きでいられている。
そして同時に「ありがとう、好きです」と伝えたくなる。あのときの「好き」は罪悪感や後ろめたさを伴ったドロドロしたものではなくて、最果タヒさんの表現を借りるなら「透き通って」いる「好き」だと思う。
「『あなたが好き』って怖くないですか?」
好かれることを全力で受け止める、それをプロとして完璧にしてくれている、と思えたファンがいるなら、それはその人がファンにそういう夢を見せられたってことなんだと思う。(p.149)
ここで好きな人たちのことを思い出してぼろぼろと涙が出た。
満たされた(ように見える)顔で客席を見渡す姿、ラスサビ前の「みんな大好き!」、「みんなが僕を完璧で究極にしてくれる」という最後の挨拶、「アルファベット順でtはuの前にある」というリスタートの挨拶。好きな人たちのいろんな顔やいろんな言葉が思い浮かんだ。
振り返ればそれは多くがライブ会場の記憶だ。客席からの大量の「好き」を浴びてステージの上でキラキラ光っている人たちを見て、自分もいっぱい「好き」を送る。ステージの上にも客席にも魔法がかかっているんじゃないかと感じるあの空間がすごく好きだ。
好きな人たちの中には、もうアイドルとしてステージに立つことはしていない人もいる。初めて好きになったアイドルは……おとはすはそう。最近はアイドル対ファンの1:n構造というよりは一人の人間として生きているおとはすとその周りにいるインターネットのお友達みたいな感じもある。インターネットのお友達の一人である自分。最初は「そんな恐れ多い!」と思っていたけれど、2年も経つとだんだんとそんな感じにも多少は慣れてきている。雰囲気がなんとなく変わってライブで感じる閃光のような「好き」はなくても、穏やかに好きだなあ、すごいなあって思う。おとはすが頑張っているから自分も頑張ろうって思う。
アイドルが見せる世界はライブじゃなくても非日常感があって、元アイドルのキャリアコンサルタント兼タレントが見せる世界は日常感がある。その違いはあるけれど、夢に向かって頑張っている姿を見せてもらっていることには変わりない。
頑張る姿を見て「かっこいいなあ、自分も頑張りたいなあ」と思って、胸を張れるようになって会いに行って「ありがとう、好きです」と伝える。あれはきっと「透き通って」いる「好き」だと思う。
「あとがきにかえて」
ただ開き直るのではなくて、そして鈍感になるのでもなくて、私は、むしろあなたがくれた繊細な夢の中でキラキラと光る私の愛情を、幻ではなく真実にするために、強くいる。その勇気を持つことにしたんです。そのしぶとさを貫くべきって思ったんです。(p.153)
きっとこの本を読む前の自分だったらここを読んで「いやそんな……無理です……」と思っただろう。
でも20篇のエッセイを読んだ今、罪悪感でウジウジする自分からだいぶ距離を置けるようになっている。エッセイを読んで「好き」を磨いてきた時間のことをたくさん思い出して、自分もちゃんと「きみへの愛にリボンをつける」ができているような気がしたから。
周囲にはいろんな「推し活」に関する言説があり、そういうものを見て心が揺らぐこともある。そういうものを見なくても一人で勝手にぐるぐるすることもある。
でも好きな人を目の前にしたときに、あるいは目の前にいなくても言葉や表現を受け取ったときに、ああ好きだなあと思った瞬間を逃さないようにしたい。小さく押し込めないようにしたい。
別にSNSに書かなくてもいい。本人にぱっと伝えられなくてもいい。好きだなあと思ったことを悪だと思わずに、キラキラした気持ちのまま自分はこれが好きなんだなあとスキップしていたい。