かつて成人儀礼とは居住区から隔絶された環境に閉じ込められ、肉体的、精神的に痛めつけられ、象徴的死を迎えて新しい自分へと「生まれ変わる」ことだったそうで。
共同体とそこに根差した信仰が機能していた時代では一定の年齢になればその儀礼を通過させられましたが、現代においては形骸化し真の意味での儀礼は行われていない。だから個々人が己のタイミングで儀礼を果たし成人となる必要がある、というのが河合隼雄の言でしたが。
『ゲゲゲの謎』において水木の体験したことってモロにこれだったなと、思考整理がてら書いてみます。
■
戦争が終わり復興された東京で生きる水木は、表面上は「戦後社会」を生きていました。ですがその内面は、弱者が強者に踏みにじられて当然とされる、戦時と同じ世界で生きていました。そうした内外の矛盾を解消させ、内面も「戦後」に至らせるための「装置」が哭倉村だったと見て良いでしょう。隔絶された小さな村は「成人の家」に相応しい。案内人はゲゲ郎です。
哭倉村で水木は、自分がいまだに「戦時社会」に生きていること、踏み潰される弱者の痛みと踏み潰す強者の醜悪さを思い知らされ、精神的に追い詰められます。そして地下世界で時貞たちに肉体を徹底的に痛めつけられて倒れる。映画を観ていた私は「水木死んだか?」とハラハラさせられましたが、成人儀礼の観点から言えばあそこで水木は象徴的死を迎えたと解せます。
そして立ち上がり、時貞に迫った彼は、もうそれまでの水木ではなくなっていました。生き残るために求めた力を時貞に差し出されるも、斧を振り下ろし訣別する。あそこで彼は「成人」として完成しました。
成人儀礼には入墨や髪型、衣服の変更など身体への加工を伴います。目が覚めた水木は村での経験をすべて忘れているようでしたが、ゲゲ郎と同じ色へと変わった髪が、彼が儀礼を通過した「成人」であることの何よりの証でしょう が あの髪色いつまで有効なんでしょうね……『墓場鬼太郎』観ないとだめだな……正月休みに観るつもりだったのに風邪で寝込んでタイミングがですね…………
■
時貞に象徴される過去の自分との訣別に斧を振るわれたのが象徴的でした。刃物は分断の道具であり男性性の象徴ということを踏まえると、あれにより水木は真の意味で「男」へクラスチェンジしたとみなせます。
「鬼」を退治する刃物と言えば、長田の錫杖に仕込まれた刀もありました。錫杖も刀も怪異退治に有効なマジックアイテムとして古来より語られ、鬼と化す女・沙代とそれを退治する修験者・長田は中近世の説話世界そのままです。だからこそ沙代はこの国の有史以来から語られた普遍の女なのだということは前回書きましたが、それはさておき長田の刀と水木の斧について少し考えてみたく思います。
村長、修験者集団の頭たる長田と違い水木は普通のサラリーマンで、刀より生活に根差した斧を振るいます。これは力持つ強者の支配する旧時代から力なき弱者の活躍する新時代へ移行する象徴とみなせそうで、水木の通過した成人儀礼を象徴するに相応しい道具でした。というのが一つ。
二つ目に考えたいこととして、刀が怪異退治のマジックアイテムとして機能した理由のひとつに、節刀というものがあります。君主から刀を授けられることは権限の委譲を示し、君主の代行者として外敵を討つ役目を負う。外敵は拡大解釈され怪異へと繋がり、「領民を苦しめる怪異を刀で退治したこの人は、この土地の正当な支配者なのだ」という中近世の「武家神話」へと発展していくと考えていますがこの節刀、大元は刀でなく斧鉞を下賜されていました。
であれば水木はこの国の有史以前に立ち返り力を行使したと解すことができます。その場合、ゲゲ郎の「見えぬものを大切に」という訴えに呼応した働きとみなすことも可能そうです。
ゲゲ郎の「見えぬものを大切に」は妖怪の存在に象徴されますが、根幹は「心の世界」とみなせます。沙代の心を弄ぶな、彼女は本気だという忠告。弱くて愚かな人間を愛した妻の心根への絶対的敬愛。そうした心の世界を重んじる生き方が何より大事で、それさえできれば強く、幸せになれる。それこそが生命の原点なんだよ、人間も原点に立ち返らなくてはいけないよと、彼の主張はそういうことで、水木は斧を振るうことでその主張に応えたとも解釈できます。
ならばきっと彼らの友誼は記憶を失っても生涯続くのではないかと思うのですが、私はさっさと『墓場鬼太郎』を見て答え合わせをするべき。いやタイミングが以下略。
■
この記事を書いている今日は奇しくも成人の日です。私自身は成人式を迎えた日を遠い過去と思うようになりましたが、果たして本当の意味で成人儀礼を通過できたでしょうか。
物語は物語の中の時代を描いたものではなく、物語が語られた時代の世相や心を表すものです。個人的には令和は昭和よりは優しい時代になったと思っていますが、物質世界に囚われて心の世界をおざなりにしている人は今なお多く、目玉の親父が言ったように「まだまだ」でしょう。
せめて自分くらいは、そして願わくは1人でも多くの人が、真の「大人」を目指すべく死ぬ思いで生きていければ良い。そうして時弥くんがのびのびと生きられる世の中が1日も早く実現できると良いなと、窓の外に広がる抜けるような青空を見上げながらこの記事を終えることとします。