この国のすべての「鬼」に捧げる追悼文――『ゲゲゲの謎』龍賀沙代への一考

見代
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公開:2023/12/30

前回の記事で沙代さんについて「まじで全然他人事ではない」と書きました。映画を思い返すにつれて「この国で有史以来語られる『普遍の女』だった」と哀惜の念が強まりまして、そのあたりのことを改めて書きます。

なお、テーマの都合でどうしても女が男が、社会的弱者が、という論調になりますが、己の主義主張を騒ぎ立てるための材料にせんとする者は末代まで呪われてください。ここはただ静かに沙代さんと数多の先達を悼み手向けの花を贈りたい、そういう祈りの場です。

沙代さんの父・龍賀克典は水木に「あれ(沙代)をくれてやる」と言いました。令和の世では「女の意思を無視している」と非難されているそうで、良い時代になったとつくづく感じ入っていますが、一応克典の弁護もします。

男は、女が知っている以上に男の汚さ、暴力性を知っている面があります。女性にはどんなに紳士的に接する「良い人」でも、いざ結婚してその地位を確立させれば本性をさらけ出し女を平気で傷つけるようになる人はごまんといる。

だから男は、女より厳しく男を見て、これと信頼できた人に身内の女を守る責任を委ねる。そういう義務感や使命感を帯びて生きている男は令和にもいます。それは身内の女が変な男に傷つけられないように、ちゃんと幸せになれるようにと願う深い愛情でもあるということだけは、言っておきます。

もちろんこれは男の目がたしかで、その女個人の幸せの形をちゃんと理解できていればこそ機能する行為です。そこができていないくせに単に自分が気持ちいい相手だから「くれてやる」とか言う馬鹿が多かった(多い)からこそ令和の現在では非難の的になるわけですが、逆に言えば言葉尻だけ捉えて自分の感覚で非難するのは結局沙代さんの意思を無視した行為にほかならず、それは克典の「くれてやる」とどれほど違いがあるのでしょうか。

では沙代さんはどうしたか。父親の言葉にただ従うのではなく、自分の意思で水木を選ぼうとしていました。それは初日の喪服に対する翌日以降の色鮮やかなお召し物にも表れていたように思います。

2日目以降も身内が変死を遂げ続けている中、鮮やかな色の服を着ることはあの閉塞的なムラ社会的にはアウトと言って良いでしょう。特に、肩も覗くワンピースと洋館は村の空気から完全に逸脱していた。にもかかわらずあの衣装を選んだのは、家の束縛からの離脱願望と、水木への恋心故と解すべきでしょう。水木の気を引きたかったのはもちろんですが、恐らく沙代さんは喪服のように真っ黒だった心が水木に会って色彩を帯びた、生きる希望を得たという何よりの表明ではないでしょうか。

沙代さんの服は、写真やテレビがモノクロからカラーに変わりゆく流れに先んじた、時代の変化をも象徴していたように思います。彼女はトンネルをくぐり抜ける直前で戻ると告げた水木についていくと応えます。安全な所でただ待って耐えるのが旧時代の女の在るべき姿であり、沙代さんはそちらの方が向いているタイプです。けれど彼女は危険を承知で愛する男と共にあることを選んだ。それは自分を変えたいという意思表示であり、克典の言葉に憤りを覚えた私達が生きる新時代への同調に他なりません。彼女はあれだけ因習で雁字搦めにされながら、たしかに自らの意思と足とで未来へ踏み出そうとしていたのです。

だからこそ、彼女は戻ってはいけなかった。戻ったが故に旧時代の理に呑み込まれ消えてしまった。

「食わず女房」という昔話があります。大変気立ての良い妻はものをまったく食べない。さすがにおかしいと思った男は外出したように見せかけて様子を伺うと、妻は頭をパカリと開けて食べ物を詰め込んでいた。化け物と知った男が離縁を言い渡すと妻は本性を露わに男をさらう、あるいは食べようとするが、撃退される。

こうした化生の女の物語はこの国に多く残されています。たとえば能の「黒塚/安達原」。宿に困った修験者一行を泊めてくれた心優しき女は「私の部屋を覗かぬように」と告げ外出しますが、その間に修験者たちが部屋を覗くとそこには大量の人骨が。人食い鬼と知られた女は修験者たちを食い殺そうとするものの、修験者の調伏によって逆に姿を消してしまう。

最も古い話ならば『古事記』のイザナミでしょう。死んだ妻を恋しく思ったイザナギは黄泉の国にまで赴き、また地上で共に暮らそうと妻イザナミを口説きます。ですがイザナミは既に黄泉の国の食べ物を食べてそちらの住人になってしまった後。「相談してくるから、終わるまでこの部屋を見ないように」という言葉を守らずイザナギが灯りを用意して部屋を覗くと、妻の体には蛆と雷神が涌いていた。驚き逃げる夫にイザナミは「私に恥をかかせたな」と追いかけますが、結局大岩で二神は隔てられ、夫は地上で、妻は死者の国で生きることになります。

私は沙代さんのあの顛末に、彼女たちの姿を見ました。醜い本性を暴かれた女は恥を訴え男を殺そうとし、退治されるのが一つの「決まり」です。沙代さんは龍賀の人間としてではなく、一人の人間として見てもらうことを望んでいましたが、それは己の“醜い本性”を暴かれることとイコールではありません。

彼女の望みは叶え切られず、逆に「見るなのタブー」を侵された彼女は古からの定めに殉じることになった。私はこのことにひどくやるせなさを覚えるのです。だって彼女の目指した未来には、本性を暴かれてなお愛する男と共に生きられる物語が存在する。私はそれを知っているのだから。前回提示した『月影の鎖』と同じメーカーの作品、『スイートクラウン-午前三時のオカシな道化師-』Switch版、絶賛発売中です(宣伝)。

作中でも「決まり」と異なる選択肢はちゃんとゲゲ郎が示していました。愛ですよ。愛さえあれば相手に罪悪感や憐憫でなく尊敬の念を持つことができ、どれだけ醜い姿を晒されても涙を流して抱きしめることができる。水木はそこにまで至れなかった。でもそれは水木が悪いのではない。彼もまた、沙代さんとは違う形で旧時代に踏みにじられた犠牲者だからです。

立場の弱い者は強い者に尊厳を踏みにじられ、いたずらに命を散らせるしかない。彼は戦場で、職場で、嫌というほどそれを思い知らされてきました。その醜悪さに反吐を覚えながらも、生きるためには同じ醜さを身に着けなければならなかった。ならないと信じていた。そしてその苦しみは耐え難く、「俺を殺せ」と心は悲鳴を上げたままでした。

だから水木は沙代さんに立ち向かえない。沙代さんに己や戦友の味わった苦しみを重ね、沙代さんに対する己の所業に上司や上官の罪を見てしまう。そして弱者たる沙代さんが強者たる己に殺意を向けることに納得してしまうし、ここで死ねるなら自分は解放されるとすら思っていた可能性もあります。

けど個人的にはそれだけじゃないと思いたい。水木は少しずつ沙代さんに押し切られ、尊敬の、愛の兆しを見せていたように思えたので。だから首を絞められながらも彼は沙代さんが己に向ける恨み以外の感情に気づいていたかもしれず、苦悶しながらも己の取るべき行動を考えていたかもしれない。

けれど間に合わなかった。水木が苦悶している間に、「黒塚」の鬼女を退治したのと同じ修験道に連なる長田に、沙代さんは引導を渡されてしまいます。あそこに長田がいなければ水木は時間の猶予をもう少し得られたかもしれない。ゲゲ郎が動ければ違う選択肢を提示できたかもしれない。けれどそれは無理なのです。あそこは龍賀の本拠地。旧時代の理が支配する場です。なればこそ、沙代さんはあの結末を迎えるしかなかったのでしょう。

時弥くんに救済がもたらされた一方、沙代さんにはありませんでした。それは人を殺めるという越えてはならない一線を越えた報いとも考えられますが、私としては彼女が自らの意思で己の人生を切り拓こうとした、愛する人を選んだ一人の「大人」だったからこそとも考えています。

それゆえに私は敬意を表して沙代「さん」と呼んでいるし、けれどやはりどうしてもあの顛末はやるせないので、せめて時弥くんが願った通り、沙代さんが「ここにいた」という証を立てたいなと、そんな気持ちで綴った記事でした。

あるいは、沙代さんの死を目の当たりにし、ゲゲ郎に諭された水木が、「仇」である時貞の誘いを拒み斧を振り下ろしたことが。そして死相が見えていたはずの水木が未来に続く世界で生きられることが、沙代さんが生きた何よりの証とも言えるでしょうか。

踏みにじられたまま、失意の内に消えていった沙代さんに、この国の数多の魂に、どうか安らぎのあらんことを。

@kmgtr
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