脱・花粉症疑惑

みよ
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祖父から続く強いアレルギー体質の家系で、小学生の頃には花粉症を発症していた。クラスには他に誰も花粉症なんていない時代で、説明しても「ふーん、変なの」と言われるだけだった。

大きな病院で点鼻点眼薬をもらって何とかしのぐ生活で、だが薬アレルギーもあっていつだったかTwitter(当時)のフォロワーさんから教えてもらった甜茶に切り替え、それから随分年月が経った。「人によっては効かないけど」という断りつきのおすすめだったが、幸いにも私には合っていたようだ。

それが今年は甜茶すらほぼ飲まず生活ができている。

花粉量が少ないのだろうか、実は飛散が遅れているのだろうか。花粉症持ちの知り合いに聞いたりTLを眺めたりして様子を確認しているが、どうも例年通りバッチリ花粉は飛んでいて、皆苦しめられているようだ。ということは「なぜか私だけ今年は花粉症の症状がほぼ出ていない」と考えられる。

昨年は反対に甜茶をしっかり飲んでもくしゃみが止まらなかったし、今年だけかもしれない。長く続いている気落ちとだるさも今は花粉症が原因の可能性もある。だからぬか喜びは早いのだが、ほとんど対策をしていないのにくしゃみが出ない春先はもはや初めてと言っていいほどの快適さで、「これで少しは“普通”に近づけただろうか」という安堵感も覚えている。

自分にとって当たり前のものを他の誰も持っていない。説明しても理解されず、それどころか「変なの」と無邪気に一線を引かれる。幼少期からのそうした経験は私の対人意識に大きな影響を与えてきた。疎外感。孤独感。そしてそういう世界でしか生きていけない諦念と絶望。それらは、他者との結びつきを尊ぶこの国において罪悪感にすら転じた。

今でこそ花粉症は珍しくなくなったが、こうした価値観は根深い傷のようになっている。だから当時の「みんなと同じ」をひとつ得られたこの経験は、傷が少しは癒えるような、高く厚く塗り固めた壁をちょっとくらい崩しても大丈夫だろうかと思えるような、そんな希望をもたらしてくれた。

お世話になっている漢方医に報告したら「“肺”(これも西洋医学の肺とは異なる概念だ)が強くなったんだね。でも油断しないようにね」と言われた。先述のとおり油断するつもりはないが、でも来年も症状は出ないのではないかと淡い期待を抱いている。

東洋医学でいう“肺”は悲・憂とリンクする。「悲しみが終わったのかもしれない」といつか書いたが、そのために“肺”が強くなり花粉症も治まったと見なすことはできるだろう。

また、Xをぼんやり眺めただけの知識なのでどこまで鵜呑みにして良いかわからないが、花粉症とは免疫の過剰反応で、生活態度もがんばりすぎの人が発症しやすいらしい。昨年の9月と今年の正月に熱を出してからまったく力が入らず、がんばろうと思ってもがんばれない状況が続いている。それが功を奏し、免疫も落ち着いて花粉症を発症していないと考えれば辻褄は合う。

そしてがんばることを諦めている今、と書くと後ろ向きだが、要は誰に合わせようとするのでなく身の丈に合った生き方をするしかないという思考に移行している今、進む道を誤らなければ花粉症もこのまま鳴りを潜めてくれるのではないか。そうすれば、小学生の頃よりずっと広くなったこの世界のどこかで、自分でも自然体で入れる“人の輪”にたどり着けるかもしれない。

来年、再来年。3年重ねればひとつの答えになるだろうか。それまでは油断なく、新しい生き方を身に着けていきたい。

@kmgtr
薄暗い拗らせ雑記をだらだら書いている人。99%適当発言。文体は定まりません悪しからず。 X:@_akaza