「ヘンゼルとグレーテル」雑感2:オペラ

見代
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公開:2025/5/19

グリム後の代表作といえばオペラのようなので観てみました。日本人による日本での公演だとYoutubeでも無料で観られるのですが、こういうのはなるべく原語・現地に近い形のを浴びるべきという考えが血肉になっている私は1980年代に制作されたサー・ゲオルグ・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏版のDVDを買いました。税込1,980円で安かったし。

オペラを観るのはたぶん初めてでしたが、圧倒的に美しい演奏と歌唱を延々と聴いてられるというだけで楽しいとは思いつつもなんとなく……眠くなったり……というかオペラって本邦の歌舞伎とか能楽に当たるのかな、そっちを観たいな……などと観劇しながら頭をかすめまくっていました。

とはいえ、舞台もカメラの動きも立体的だしアニメ映像も入ったりするので、純粋なオペラ作品の円盤ではないのかも。

グリム童話をベースにしながらもディズニーよろしく話の筋はだいぶ改変されています。ふたりの父親は木こりではなくほうき職人で、基本的には貧しい生活ながら時流に乗ってうまく稼げた時はごちそうを買って帰る甲斐性も持ち合わせている。母親は子を捨てることは考えたこともなく、仕事を怠けたふたりを追い回していたら貴重なミルク壺を割ってしまい、代わりに野苺を摘んでくるよう子供たちを森に派遣するだけ。ヘンゼルとグレーテルは森で道に迷い一晩を明かしてお菓子の家に着くも老女の誘いには乗らず去ろうとするが捕まってしまう。ヘンゼルは檻の中、グレーテルは外に分断されるのはグリム童話と同じですが、両者は意思疎通を続け、力を合わせて魔女を窯に押し込むと魔女はお菓子になってしまう。家の外に柵として並ぶジンジャーマンクッキーはそれぞれ元の子供の姿に戻って解放され、ヘンゼルとグレーテルは探しに来た両親と合流してめでたしめでたし、そんな感じの話でした。

個人的に感動したのは、グレーテルの賢さでした。魔女はふたりを捕らえる時に体が硬直する魔法をかけるのですが、後にグレーテルだけ魔法で硬直を解いてこき使います。グレーテルはこの時の呪文をちゃんと覚えていて、魔女の目を盗んでヘンゼルの硬直を解きます。さらにヘンゼルの閉じ込められた檻の鍵も開ける周到さ。すごい!

ヘンゼルも檻に囚われて硬直している間もグレーテルを励ましたり、ヘンゼルの活躍と両者の繋がりが強調されていたのも印象的でした。グリム童話ではグレーテルが魔女の奸計に嵌まらずに済んだのはヘンゼルとの信頼関係が保たれていたからかもという解釈を以前書きましたが、オペラはまさにその路線。冒頭では一緒に仕事をほったらかして遊んだり二人が対等な関係性にあるような描写が多く、窯の中を覗く魔女の背中を二人で押して打倒するのは特に象徴的でした。

合間合間に劇場で観劇中の子供たちの様子も挿入されていましたが、そこには当たり前のことながら男の子も女の子もいるわけで。観客の子どもはだいたい同性に感情移入しがちだと思うのですが、ヘンゼルとグレーテルを対等な主役として描くことによって男の子も女の子も“主役”に感情移入しながら観劇できる、良い改変ですね。

脚本はそのあたり自覚的なんだろうなと感じたのがヘンゼルとグレーテル、ついでに両親の性格描写でした。ヘンゼルはやんちゃで女の子っぽいことはダサくてやってられない。グレーテルは家事を真面目にやる子でいじめっ子のような乱暴な振る舞いには辟易を隠さない。父親は酒浸りで面倒だけどいざという時はきっちり家族を食べさせる甲斐性も持ち合わせ、周辺環境に詳しく、子供たちの危険を知るやすぐに家を飛び出す。母はそんな夫からの暴力には怯えつつ子供のことはきっちり暴力でしつけをしながら、その日の食事をどうやりくりしようか頭を悩ませる。ドイツの国民性とか歴史とか全然知りませんけど、なんとなく当時の“標準的”なドイツ一家としてのキャラ付けが施されているように感じまして、それなら観客一家はヘングレ一家に親近感や一体感を持ちやすいだろうなと。

極めつけが「お菓子の家の前に立ち並ぶジンジャーマンクッキーはこれまでに魔女に捕まり窯で焼かれてしまった子供たち」という独自設定でしょうか。うまく言葉にならないのですが、舞台上にヘンゼルとグレーテルと同じ境遇の“その他大勢の子供たち”を用意することで、観客の子どもたちは彼らとも一体感を持てるだろうなと。その場合は、魔女を倒しジンジャーマンクッキーを元の人間に戻すヘンゼルとグレーテルは観客を救うヒーローとヒロインにもなりえるわけです。親近感というか一体感を持った上で特別視できる存在は、すんごい心に響くのでは。

それはつまりヘンゼルとグレーテルが土着の“神”であり、二人の魔女退治が“神話”として受容されているとも言えます。キリスト教は一神教なのでこの用語は不適当なのですが、日本の感覚での“神”と“神話”だと思ってください。オペラ「ヘンゼルとグレーテル」はドイツではクリスマス前の定番演目だそうですが、クリスマスは救い主の生誕を祝うだけでなく年越しの行事でもあります。そのクリスマス前に、地元の遍く子どもたち、遍く一家が心を寄せられるヒーローとヒロインが、遍く子どもたちを菓子にしてしまう魔女を打倒し、遍く子どもたちに救いをもたらす歌劇を、家族で観て、新年を迎える。完全に神事、祭礼、年中行事です。「我らが苦しみにある時、主なる神はその手を差し伸べたもう」というフレーズを冒頭では舞台上のヒーローだけが口ずさみ、最後には魔女から解放された子どもたち全員、そして観客をも巻き込んだ大合唱になるのが裏付けと言っても良いのではないでしょうか。

グリム童話において魔女はキリスト教以前の豊穣神だったのではという見方があり、その場合この話は年迎えの神話の残滓と考えられます。オペラの脚本家がそこまで意識したかはわからない、どちらかというと意識してないと思うのですが、何にせよキリスト教化した世界で本質は大幅に変化しつつも機能は変わらず維持し続けていると考えられるのは、なんか、すごく面白い。

年越しに当たって節目を祝い一年の幸福を祈るのは万国共通のはずです。日本にも似たような話や風習はあったんじゃないかと少し考えてみたのですが、左義長が該当しそうです。

どんど焼きとも呼ばれまして、小正月の日に仮小屋を作りそこに古いお札などをくくりつけて一気に燃やすというものです。詳細は地域によって違うのですが、東京都内某所の場合は元々はすべて子供が担う行事で、火が消えぬよう見張りながら小屋の中で一晩過ごして翌朝小屋を燃やす。燃え尽きると中から御神体が出てくるような仕組みになっていて、残り火で焼いた餅を食べると一年を健康で過ごせると言われています。

子供だけが集まる家(お菓子の家-小屋)、火(焼き窯ー炉)、焼き殺される古い神(魔女-お札)、お祝い用の食事(お菓子-餅)、一年の豊穣と健康を祈るのはほぼイコールで、見事に重なるなぁと。そういう分析した論文とかないかな。あるいは左義長に関する昔話とか何か残ってないかな。先ほど歌舞伎や能楽を話題にあげましたが日本でも年末年始定番の演目とかあったのかな。そんなことが気になりました。

蛇足ながら。改変自体はままあるものだし、特に二人が捨てられるわけではなくなったのはなるほど時代性かなぁと思ったのですが、父親が木こりからほうき職人に変わったのがよくわかりませんでした。舞台映えで小道具を用意しやすいとか、ほうき職人なら魔女がほうきに乗って空を飛ぶという説明を自然としやすいとかそういうことなのかなとは思うものの、ほうきという接点を用意することでふたりが魔女に囚われることの必然性とか、何ならこの一家も魔女に近しい存在という空気も生まれてしまう気がするんですけど現地だとそんなこともないのかな。

ただ、両親が普通にしつけとして暴力に出るところは現代の感覚だと通用しにくくなりそうですね。定番演目として廃れていくのか、脚本にさらに改変が加わって年中行事であり続けるのか、それとも古典であり伝統だとこのままの筋書きで生き続けるのか、今はどうなっているのか気になりました。

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@kmgtr
心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ