■ グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」
◉ 毒母とふたりの被虐待児
魔女に閉じ込められごちそうを与えられ続けるヘンゼル、こき使われて自身はザリガニの殻しか食べさせてもらえないグレーテル。けれど魔女はどちらも食べるつもりで──という話の流れを改めて見た時、NPD毒親と愛玩子、搾取子を思い出しました。
愛玩子(ヘンゼル)から見れば搾取子(グレーテル)は、閉じ込められるわけでもなく頼られていて羨ましい。搾取子(グレーテル)から見れば愛玩子(ヘンゼル)は、こき使われることもなくおいしいものをたらふく与えられていて羨ましい。どちらも「向こうばかり可愛がられていて自分はこんなに苦しめられている」と互いに妬み憎悪し敵対していきますが、内実はどちらも親からの虐待を受けている(魔女に食べられそうになっている)被害者同士だと、そういう構造は現実社会の家庭に存在します。
この見方があながち的外れとも言えなさそうだと感じたのはグリム童話の草稿に当たるエーレンベルク稿を読んだときでした。魔女はヘンゼルを煮る計画の決行をグレーテルに通達しますが、その時「あいつのことはふたりで一緒に食べちまおう」と誘います。グレーテルは魔女にこき使われていますが、その中でも特に大事な役目はヘンゼルのごちそうを作ることでした。自分は作るだけ作らされてちっとも食べさせてもらえない、作った人間にこそ食べる権利があるはずだ、ならごちそうを食べたヘンゼルを食べればいいじゃないか──空腹で思考力も落ちてるだろうグレーテルが魔女の言葉を聞いてそう考えたっておかしくないのです。
けどグレーテルはしない。ヘンゼルへの信頼を保ち、互いが置かれた状況や魔女の意図を冷静に見極め、魔女の誘いには乗らず、それどころか馬鹿を装って魔女を罠に嵌め返してパン焼き窯で焼き殺し、ふたりで帰宅に成功します。
もう少し深読みするなら、グレーテルの成功はヘンゼルもちゃんと状況を認識できていたからこそなのかもしれません。魔女を殺そうとするグレーテルを妨害して逆にグレーテルを殺す展開だってありえた。NPD親に敵対を煽られた搾取子と愛玩子がそこまでの関係に行き着くことはあります。でもヘンゼルは単に閉じ込められていて無力化していただけと読む方が素直かも。
二人の置かれた立場は魔女の家で顕著に描かれるものの、やはり魔女と母親(実母、継母)がどこか繋がっている存在として描かれているとは感じました。第7版では継母がふたりを叩き起こす時の台詞が、魔女がグレーテルを叩き起こす時のそれと一致してるし。魔女を殺して家に帰ると母が死んでいたのは魔女の正体が母親だからだなんていう研究書も、どれだったかは忘れましたが実際ありました。同一人物かどうかまでは描写が少ないので私は判断しかねますが、まぁ子を捨てる母も子を食べようとする魔女も同義的存在ではある。
◉ 虐待を助長させる父
「白雪姫」と同じく子の死を願うのは母ばかりで父は真っ当な感性を持つ親として描かれています。子を森に捨てることを提案する妻に反発したり、押し切られて実行するも父親はずっと悔やみ、子どもたちが帰ってくると心から喜んでくれます。版を重ねるにつれて父親の子どもたちへの慈愛は描写や台詞が増えていき、なるほど良い父親なのだなと、思うとでもお思いか。
まずNPDの母親の配偶者である父親はどのような状況にあるのか?大抵の場合、父親は “イネイブラー” であることが多いです。
(略)
NPDの母親を配偶者にもつ父親は、相手の言うことを何でも聞き、子供への虐待を止めることもなく見ないふりをする。または、問題が起きた際「お母さんの言うことをききなさい」「お母さんはお前たちのためを思っているんだ」などとかばったり。つまり、NPDがNPDであり続けることができる環境を与えているのです。
イネイブラーも元はNPDのターゲットで、自分の身を守るため、そこで生き抜くためにイネイブラーになったのでしょう。
しかしそれは、子供にとっては関係のない事情。母親からの虐待から守ってくれない父親は、共に子供を虐待する虐待者なのです。
──Aira-Life-Coaching「自己愛性パーソナリティ障害(NPD)親の子供たち」
「白雪姫」エーレンベルク稿では白雪姫の発見と蘇生、母への処罰を父王がこなし、父権社会における理想的父親像を見た気分になりました。「でも父親も無能だったら」とは書きましたが、まさかこんなに早く無能な父が起こす大惨事を目撃することになるとは思いませんでした。
先述した通り行為は何も変わらないのに版を重ねるにつれて「子を愛している優しい父親」描写だけは増えてくのが結構に不快。後述する大公に叱りつけられるバージョンでやっと溜飲を下げられました。
◉ 意思と知性を奪われるグレーテル
『グリム童話の悪い少女と勇敢な少年』という本で、グリム童話における少女は版を重ねるたびに台詞が削られ地の文(グリム)によって在り方を決められてしまう、というような言及があってずっと頭の片隅に残ってるんですが。詳細は違えどグレーテル、版を重ねるたびに意思とか知性が奪われがちでその本の記述が頭によぎりました。
先述した通り、エーレンベルク稿のグレーテルは賢い子です。過酷な状況に置かれても自分だけでなくヘンゼルも含めて置かれた立場を冷静に判断し、ヘンゼルに憎悪を募らせるわけでもなく、魔女の意図にもさっと気づいて対応できます。
それが版を重ねるごとにグレーテルは泣いてばかりになり、何をするにもヘンゼルの指示が入り、一時期(初版~第4版)は魔女の企みやその対応法に自ら気づいたのでなく神が教えてくれたのだとされる始末。これは本当に「男に従順で思考力も対応力もないただ一心に神を信じる健気で男に都合の良い女」像の押し付けを見て顔が引きつりました。
第2版以降では魔女の家からの脱出後、川を渡るためにグレーテルが鳥と意思を交わし協力を取り付けるというシーンが唐突に挿入されますが(「魔女の息子に追われて逃げ出すも川に難儀する」という類話はあるらしく、グリム童話では魔女の息子が欠落してるから唐突かつ不自然な追加に見えるのかも)、これも見方によっては「女性は自然に近い神秘的な存在」みたいな観念の押しつけのように見えて落ち着きませんでした。意図はそうではなく、経緯はどうあれ魔女退治に成功したグレーテルには問題解決能力が備わったという描写なのかもしれませんが……。
と、グリム童話の変遷だけでもモヤモヤしたものを覚えたのにグリム外・グリム後ではもっとこの流れが顕著になるらしくて私は目眩を覚えた。
魔女が窯に入れられるだけでなく、少女もジェンダーの枠に押し込まれ、自立の芽を摘まれてしまう物語が、19世紀半ばから現代にいたるまでに書き継がれたことになる。女性解放運動とは逆の動きだ。
──『本当にあった? グリム童話「お菓子の家」発掘─メルヒェン考古学「ヘンゼルとグレーテルの真相」』 矢羽々崇
◉ 女主人公ヒロイックストーリーものとして
魔女を焼き殺した後ふたりは家の中で見つけた宝石や真珠を持ち帰って裕福になります。「異界の人外を退治したら財宝を得てハッピーエンド」といえば人外枠はドラゴンが定番です。
そう考えると「ヘンゼルとグレーテル」って、「“男”主人公が知恵と勇気で異界の“竜”を退治して囚われの“女”の子を救い出し金銀財宝も得て幸せに暮らす」という、バリバリの英雄譚の性転換ものとしても読めるんですね。竜を男性性と即断して良いかは悩ましいですが魔女は明らかに女性なのでその対称的存在ということで、大目に見てください。私はかつて「女が世界を救ったって良くないか?」と乙女ゲームに手を出すようになった経緯がありますが、既に通った道だった説。そう考えるとグレーテルが意思や知性を削られていく流れは主人公性と英雄性の剥奪ともみなせてつくづく残念です。
◉ 年迎えの神話として
などとモヤモヤしていたら、ある公開講座の資料に出会いました。
グリム童話には多く魔女が登場しますが歴史上魔女というのはキリスト教社会に弾圧された旧い信仰形態とそれを体現する人が主だったという認識は持っているので今更グリム童話の魔女=悪なんて欠片も思っていないのですが、この論文では「この魔女って穀物霊では?」という指摘があって私は目から鱗が落ちる思いでした。
麦おばさんというのがいるのだそうです。地域によっては麦おじさんとか麦オオカミとかになるそうですが、麦を実らせる豊穣神なのだとか。麦畑を踏み荒らすことの禁忌として「麦畑に入ると麦おばさんが子どもを誘拐して殺してしまうよ」と語られるそうで。麦おばさんは赤い目とされますが、「ヘンゼルとグレーテル」第7版では魔女は赤い目と語られます。
魔女のルーツのひとつが穀物霊であり、死と再生の自然の循環を司る豊穣神の性格を色濃く持つ。
この昔話は、彼岸である森に住む穀物霊が、子供を殺して食べることによって、新しい力を得ようとするが、死と再生の場であるパン窯で焼かれて、富を生み出す、そのような古い伝承に基づいている。
富は、古くは宝石ではなく、種籾だったかもしれない。
──岡部由紀子「グリム童話を読み直す ヘンゼルとグレーテル」レジュメ3 P3
「パン(穀物)を得られない家で僅かなパン(穀物)を持たされ捨てられた子供が異界で魔女(穀物霊)と出会い殺されそうになるが返り討ちにして種籾(穀物)を得て帰宅し以後食べ物(穀物)には困らない生活になった」とすると穀物という軸ができて話に一貫性も生まれてなるほど納得してしまうし、その場合「ヘンゼルとグレーテル」って一度失われた穀物を二人の子供が人の世界に再びもたらす文化英雄神話と考えることも可能で、一気に話の印象が変わるんですが……?(興奮)
「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれるものがあります。殺した女神の体から生まれた食糧を主食として生きるようになったのだとする食物起源神話のパターンでして、日本神話でも「オオゲツヒメがスサノオに殺されるとその体から五穀が成った」とかそんな感じの話が複数伝わっています。つまり魔女は正しく“旧い女神”だった説。その場合、魔女を殺した後のグレーテルが自然と結びついて語られるのも老いた女神の後を継ぐ若き女神になった象徴とも読めます。
グリム童話で、何版からだったか忘れましたがパン(穀物)が尽きた理由を飢饉と語られるようになりますが、その必要もないのでは。穀物は収穫後は“なくなって”、また季節が巡って栽培を始めて実りへと向かうものなので。「ヘンゼルとグレーテル」の類話がロシアにありますが、そちらの魔女ことバーバ・ヤガーは冬を擬人化したものと考えられているそうです。実りなき冬を殺して春を迎え豊穣を約する話と考えた場合は年迎えの話とも考えられる、と思ったらオペラ「ヘンゼルとグレーテル」はクリスマス前の定番演目なんだそうで、これを“正解”とみなしても良さそうです。
◉ 毒母と女神
冒頭で私は魔女とふたりの母に毒母を見たものの、豊穣神にまで話が発展するなら私の見方は俗っぽすぎたか浅かったかーと少し反省しかけたのですが、ユング心理学では同義の存在だった気がします。もう少し厳密に言うと地母神に象徴される女性性の持つ負の側面が人食い鬼女で、現実においては毒親として“顕現”するとかそういう考え方だったかと。ちなみに母親だけでなく体罰や強姦する男性も地母神の負の側面に突き動かされていると考えるのだそう。
であれば童話や昔話における人食い鬼女への対処法って、毒親(父母問わず)への対処法として参考にできるのでは? 「ヘンゼルとグレーテル」なら、毒親に何か要求されても馬鹿の振りをして本人に見本を示させてはしごを下ろす。あるいは後述の通り権力と法に委ねるのも効果的かもしれません。こっちの方が安全だし正攻法かな。
■ 『ペンタメローネ』「ニッニッロとネッネッラ」
17世紀に南イタリアで書かれた改変創作童話連作集の中の1話。森で迷うところまでは「ヘンゼルとグレーテル」とほぼ一致するのですが、夫が後妻の「他の女との子供なんて世話したくない」という冷酷さに逆らえない理由がベタ惚れだからという身も蓋もない、けど「なら仕方ない」と思うしかない説明があり、そして子供を森に連れて行く時にはバスケットにいっぱいのパンを詰め込んだ上に道しるべを残すのはこの父親で、「食べるものがなくなったら家に戻っておいで」と子供たちにちゃんと伝えるのでグリム童話ほどのヘイトを覚えない素晴らしい(?)父。
そして二度目の道標に使われた糠は鳥ならぬロバが平らげてしまい、子どもたちが森を彷徨っていたら、狩猟中の大公が連れた犬の吠え声に驚いたネッネッラ(グレーテル)は森を抜けて海に出てしまい海賊に拾われ、ニッニッロ(ヘンゼル)は木陰に隠れたところを大公に見つけられてそのまま連れ帰られ……と、グリム童話と全然違う道を辿るし普通に「えっこのふたりどうなるの……?」と引き込まれてしまい、もしかして作者のバジーレは文才がある。
筋というか作中の倫理観がわかりやすいというか。「悪行三昧な海賊は大嵐にあって海が転覆して全滅、何も悪いことしてないネッネッラは妖精魚の腹の中でお姫様のように快適な暮らしをしました」と言われると「うんそうだね(?)」となってしまう。その後無事に再会したふたりは大公に事情を話し、大公は為政者の責任を持って親は名乗り出るようお触れを出し、名乗り出た父親をきっちり叱りつけ、そして諸悪の根源の継母(もちろん名乗り出ていない)も呼びつけ、「リヒルデ」の結末よろしく「こういう事情のある女にはどう処すのが良いと思うか」と聞き出し言われたとおり樽に詰めて山上から転がり落として処刑、子供ふたりはそれぞれ貴族の子女に娶せ、そして父親もその後何不自由なく暮らせるよう手配してやっとめでたしめでたしになるのですが、申し分なさすぎる。大公殿下万歳! 『ペンタメローネ』は今のところ他に「奴隷娘」しか読んでないのですが、話中の権力者がちゃんと機能していて気持ちが良いです。近い内に通読したい。