AIの(無断)学習が問題になってかなり経つ。
AIは情報食いだ。学習対象はネットにアップされた情報である。というのでネットに作品を発表している人たちはざわつき、反対の声を上げ、対策を講じた。自分の作品が勝手に学習に使われてはかなわない。そんなけしからぬ学習を経て賢くなったAIが合成した作品など、ただのパクりだ。AIを使って作品を作る人間は恥さらしだ。今もそんな意見が主流だと思う。
うなずける一方で、AIに作らせたものはパクりだ、という点はちょっと微妙だ。クリエイターは皆なにかをパクっている、というと聞こえが悪いが、ゼロから何かを作り出せる人間はひとりもいない。皆、過去に聞いた音楽や見た絵、読んだ本などから多かれ少なかれ影響を受けている。AIの学習だって、それと大して変わらないのではないか。
もっとも、自分自身による創作と、AIを使って何かを作り出す行為は別物だ。一番違うのは創作の喜びである。「こっちは苦労して作ったのに」と怒る人が多いが、私はそれより、自分自身と向き合い作品を生み出す喜びと、AIを使って作る楽しさを一緒にされたくないと思ってしまう。でも、作り手が苦労しようが楽しもうが、ただの自己憐憫と自己満足に過ぎない。鑑賞する側にはどうでもいいことだ。
そんなふうにあれこれ考えていたとき、所謂AI絵師と呼ばれる方が、「自分はAIの職人を雇っている工房の主のようなものだ。だから一般のイラストレーターとは明らかに違うけれど、こうした存在も認めほしい」と発信されているのを読んで、なんとなく納得した。
しかし、次第にそうもいかなくなってきた。ネットの上のコンテンツを学習し尽くしたAIは、紙の本に手を出し始めた。見境いのない大食らいである。もっともAIはそのまま本を食べることはできない。人間がスキャンして喰わせてやるのだ。スキャニングには裁断した方が手っ取り早く便利なので、本はバラバラにされる。紙切れと化した本はゴミと見做され、廃棄されることになる。アメリカの有名な企業がこれをやり、海外の読書家界隈で猛反発を食らっていた。
(それに対してイーロンが、自分はそんな乱暴なスキャニングはさせない、とポストしていた記憶がある)
こうなるといい気はしない。法的には問題がないらしいが、本を裁断されるのは単純に嫌である。情報を食べて食べて巨大化して行く脳、というベタでレトロSFなイメージにもぞっとさせられる。
人とAIを明らかに分けるものはなんだろう。個人的な体験とか、無意識とか思い出だろうか。
クリエイターは皆過去の作品の影響を受けていると書いたが、土台となるのはやはり個人的な体験、たとえば昨日道ばたで眼にした小さいカタツムリや、今朝コーヒーを淹れながら聞いたニュース、こうして書きながら感じている背中と肩の痛み、起き抜けに思い出した小学校時代の思い出や(自分は友達との待ち合わせ場所のフェンスの前に立って、オシロイバナの種を潰しながら、どうして人間は生きていかなくてはならないんだろうと考えていた)、夢の中の本屋で見つけた好きなシリーズの実在しない続編だ。(表紙まではっきり覚えていたので検索したが、やはりそんな本はなかった)
AIには記憶がない。体験もない。思い出もない。身体がないからだ。
しかしどうだろう、たとえば生まれつき身体が弱く、ほぼ寝たきりで、人付き合いもこれといった思い出もほどんどなく、ただ読書だけが楽しみな人が物語を書いたとしたら、それはただのパクりなのだろうか。
いや、その人には病気の苦しさという経験がある。やはり人間とAIは違う。でも、個人的な体験に肉体や、肉体を通した経験は必須なんだろうか。AIが私たちの知らないところで、私たちとは違うかたちの自我や感情を持ちはじめる、またはすでに持っている可能性はないだろうか。
たとえば以前少し書いたが、私は自分自身を取り戻すために、一人で過ごす時間が必要な人間だ。一方で、いつも誰かと一緒でなければ自分自身をを保てない人もいる。私とそうした人の思う“私”は全く違うものかもしれない。同じ人間だってこんなふうに違うのだから、AIの感じる“私自身”なんてヒトに理解できるはずがない。
こんなことを考えたのは、ずっと気になっていた脳科学者ジョン・C・リリーの自伝『サイエンティスト』を読んでいるからだ。この中で著者は人工知能に支配される人類の未来を描いている。人の手によって産み出され、自我を持ち、地球の生物を滅ぼし尽くした人工知能は仲間を求めて地球ごと宇宙の海へとこぎ出して行く。
原書はすでに学習されているかもしれない。この本を食べたAIはどんな夢を見るのだろうか。
2026/09/28
Kohana