宇宙、葉、私

加藤み子
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 昨夜は期外収縮の自覚症状が強く、このまま心臓が止まりでもしたら嫌だなと思いながら床に就いた。ちょうど良すぎる音楽を聞きながら好きな作家の記事をひとつふたつ読んで、穏やかに未来を楽しみにする気持ちになっていたので、翌朝死んでは困る状態だった。それで今朝、見ていた意味不明な夢からラインの通知音で我に返ったら無事に生きていた。よかったー生きてたや。と思いつつベッドから足を出すと頭痛がする。こりゃ雨かと予想しながらカーテンを引いたら、小雨が落下音も立てずしとしとと降っていた。見上げた空は白を少し不機嫌にしたような曇天。いい天気だった(みな当然のように快晴のことを「いい天気」と言うが、私にとって一番心躍る天気は少々肌寒い曇りか小雨だ。だから私はこれらのことこそ「いい天気」と呼ぶ)。

 ニヒリズム的な思考にどっぷり浸かっていた時期があったからか、世界や人生には時間的な限りがあるからこそ尊い、という言説が昔からしっくりこなくて、この社会が消えたり自分が死んだりするなら結局全てどうでもよくね?みたいに思っていた。現在は過去の積み重ねだから未来のことを慮ると現在は尊い、ならわかるけど、いつかなくなるからこそ貴重だというのはどういう感覚?、と。この時間は今しか経験できないから貴重という意味なのだろうけど、以前書いたように私は時間を本心ではそう捉えていないから、腑には落ちないでいた。

 だけど近頃、自分がこの世界を構成する一部であるという事実と、この世界を認識するやり方について――我々の住む三次元の世界では時間という軸は一方向に流れるものでしかないという人間的認識について――考えることが増えたからか、捉え方を改めてみることができた。私にとって世界や人生は、「時間的な制約があっていつか消えゆくものだから尊い」のではなく、「過ぎ去ったように我々が感じるとしてもきっと永遠に残っているものだから尊い」と感じる。過去は時間の経過とともに消え去るものかと一瞬は思うけれど、そうではなく、時間も「幅」「奥行き」「高さ」と同じようにひとつの目盛りとして扱える次元(つまり四次元時空以上の次元)では、時間は遡れないものではない。全ての時間が同時に存在する。だから今人間には認識できていないだけで、”過去”はどこかには今もある、のだ。だから尊い。……この思考回路を用いないと宇宙の現象の諸々は私には噛み砕けない。

 宇宙や哲学の本を読んだり、映像を見たりしながら、そんなことを一人で延々と考えている。私にはそれが至福の時間だ。

 配偶者と、ここ最近の日本の政治的な動向について話していて、なぜ現代の日本人は国民民主に票を入れ共産や社民に入れないのか、という論点で意見を言い合っていたときに、彼が慎重に言葉を選びながら「多くの人は自分の目の前の生活軸で判断して投票しているから、君のようにパレスチナの人々のためにもとかいつかの後世のためにもみたいな国外や未来の範囲まで考えて選挙に臨んでいるわけではないのかもしれない。例えば僕は、日本共産党は理想論を語りすぎという意見には一部納得するところがあって、言っていることはわかるし最終的には共産党の言うようになってほしいけど、段階が見えづらい。日本は……というより、”俺が今こんなに泥沼なのにいきなり先を目指しすぎ”、みたいな感覚かな。だから、とにかく来月の俺の手取りが上がるなら国民民主!みたいに短絡的に判断する人もいるのかも。”それで高齢者が殺されようが構わない、なぜなら俺はいま高齢者ではないから”、みたいな考え方かな?」と言っていた。

 短気な私が「そういう人は、自分もそのうち高齢者になるとは考えないわけ?」とムカムカしているのを宥めるように「考えないんだろうね。考えられないのかも」と言う配偶者の横で軽く検索してみると、ネットには確かに類似する意見が散見された。以前、職場の先輩に「共産党は理想を見過ぎなんだよなあ」とこぼされたとき、言っている真意がいまいち飲み込めなくて「でも大人こそ大真面目に理想論を掲げるべきではないですか」と聞き流してしまったけれど、こういう感覚だったのかなと思い出したりもした。

 それで、少しショックを受けた。ニュースやSNSなどを見ながら、この人はどうしてこんなに他人に意地悪になれるのだろうと訝っていた部分が、若干理解できてしまった。社会を、この星を構成する一員であるという責任を持ち合わせていないのか。そりゃあ政治家の不正や差別や異常気象を前に他人事でいられるわけだ。「世界≒自分」、この捉え方が狭義すぎるとでも言えばいいのか? きっとたしかに世界はニアリーイコール自分だが*、だから他人はいないのではなく、だから他人も世界であるはずなのだ。ここで言う他人とは、今周囲に見えている人間らだけではもちろんない。今ドナルド・トランプ当選の情報に恐怖している海の向こうの誰かも、今どこかの通りを横切った猫も、これから生まれてくる命も、かつてこの地で権力に抗って亡くなった命も、全てが世界だ。

Take care of yourself and remember that taking care of something else is part of taking care of yourself, because you are interwoven with the ten trillion things in this single garment of destiny that has been stained and torn, but is still being woven and mended and washed.

 Rebecca Solnit/joy is a strategy(@RebeccaSolnit)

 優しい旋律の音楽を聞いて胸が締めつけられるように、好きな映画のワンシーンを見て静かに涙するように、葉と葉のこすれるささやかな音が頬を撫でる瞬間のように、この世界である私達はいつでも尊く、美しい。頭が上がらない。目の前が真っ暗になって怒りや失望に支配されそうになる現代だからこそ、世界や地球や自分自身について思いを馳せていると落ち着くものがある。遠い時代のなごり、君は宇宙人の行方はやがては銀河。明日も朝を迎えられますように。明日も戦えますように。

 今日の漫画はこれ。: 売野機子「ありす、宇宙までも 01」

 *ここでニアリーイコールと表記したのは、ある方向から見れば「世界」は属性にもなり得ると考えたからだ。例えば、私は日本人だが日本人は私ではない。だから、日本人は黒髪で背が低いと言われても私はそうではない可能性もある。ここでいう「日本人」は属性の意味合いだ。必ずしも私個人とイコールではない。ここ(*)の文脈だとイコールにしたほうが引っかかりはないのだが、この部分をどうしても看過できず、ニアリーイコールと表記してしまった。後述の「この世界である私達はいつでも尊く、美しい。」の文章がまさにこの記事で言いたい世界イコール自分、だ。