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亜月ねね『みいちゃんと山田さん』7巻感想 ~自分たちの生まれてきた意味を~

黒犬
·
公開:2026/10/10

<納得できない、『山田さんの死』>

 自分が『みいちゃんと山田さん』について書くのはこれで最後だと思う。

 正直、まだ言える事はある。細かい部分を拾って行く事はいくらでもできるし、アニメ化の詳細が発表されればまた話題になる事もあるかもしれない。SNS上で起きた炎上は下火になったけれど、自宅凸の様な異常事態もまだ続いている様だ。でもそういう部分は枝葉末節という奴で、作品の本質ではない。実は、きくちゆうき氏の『100日後に死ぬワニ』との比較を軸にした感想を1回書いたのだけれど、それも全部捨てて書き直す事にした。最終巻の感想として一番重要なのはそこではないだろうと思ったから。

 最終話まで読み終えて、自分が一番納得行かなかったのは『山田さんの死』だ。

 『みいちゃんの死』は、1巻から決められていた事で、その死の過程と犯人捜しが読者を惹きつけるフックになっていた。最初からみいちゃんが救われる結末は用意されていなかったし、それが作品全体の問題点でもあった。でも、最終話近くで明かされたみいちゃんの死の内容はかなり雑で、マガポケでの連載時はみいちゃんの母親が逮捕された一方、彼女の直接の死因を作った不良グループが罪に問われる場面がはっきり描かれなかった事から少し荒れた。(単行本収録時に『追加の逮捕者が出た』事を匂わせる修正が1コマ入った様だけれど、それで十分とは言えない)

 それでも、『みいちゃんの死』は決まっていた事だ。その死が安らかなものではない事も予定されていた通りだ。明かされた犯人はオチとして弱かったし、母親が逮捕されたのも何の罰なんだろうと思うけれど、(というかあれは冤罪ではないか)一通りの伏線を駆け足で回収し、作者は物語を閉じた。

 納得が行かない『山田さんの死』を残して。

 自分は、連載開始から約2年間追い掛け続けた読者に聞いてみたい。

 この最終話で、納得できたのかって。

 読者がその漫画に向き合った時間と、完結までの期間の長さは、登場人物への思い入れを強くして行く。正直、自分は『みい山』を連載開始当初から追い掛けていた訳ではないので、現実の2年間をちゃんと共有した読者の気持ちは分からないのだけれど、それでもこの「山田さんも死ぬ。みいちゃんと山田さんは死の間際に相手の事を思う」という結末に全く納得が行かない。

 みいちゃんの直接の死因を作った不良グループに対する罰の甘さとか、みいちゃんの惨い死に様と母親の扱いとか、結果的にみいちゃんを見捨てたムウちゃんの母親はこの先何を思って生きて行くのだろうとか、そういう事が全部些末に思えるレベルで、自分は『山田さんの死』について納得できない。なぜならこれまで暗に『山田さん≒亜月ねね』として読める部分を意図的に描きながら、山田さんの死だけが何の前触れもなく唐突に置かれた様に感じるからだ。

 山田さんにはこれまでも「みいちゃんのコップに絵を描いてあげる」とか、「アクセサリーを作ってあげる」とか、「自分が描いた絵や作った何かが誰かを喜ばせる事」に喜びを感じている様な描写はあった。それは母親が敷いたレールの上で生きて行く事から外れて、夜職でもない、自分が本当にやりたい事を見付け、『自分で選んだ人生』を生きるという希望を描いたものでもあったと思う。そして漫画家を目指す事になる辺りからは特に『山田さん≒亜月ねね』という印象は補強されて行った。それに、みいちゃんが作中で『いつかみいちゃんのこと 漫画に描いてね!』と言っていた様に、みいちゃんに実在のモデルがいた事も含めて、(どこまでが作者が経験した事実ベースで、どこからが創作なのかは分からないにしても)山田さんには作者が投影されているのだろうと思っていた。1巻の「みいちゃんの墓参りをする山田さん」の描写からも、山田さんはみいちゃんの死後も生き続けるのだろうと思っていたし、みいちゃんの死が山田さんにどんな影響を与えたのかが、物語の結末では描かれるんだろうなと勝手に期待して読んでいた。

 でも山田さんは、あっけなく死んだ。

 それもギャグみたいな死に方で。執筆途中だった『ミイミイの冒険』の最終話の原稿も完成させられないままで。ガクッというあまりにも漫画な擬音の後に『死んでる・・・?』じゃないだろって。

 

 自分にはそれが、『作者が山田さんというアバターを捨てた』様に読めた。

 『みい山』の最終回は、7月26日のアニメ化発表の炎上騒動があった後に公開されている。炎上から公開までの間に、当初予定していた最終回のネームを切り直したのか、そもそもこれが当初からの予定通りの結末だったのかは確認しようがない。自分は作者でも編集者でもないから。ただ、いきなりギャグ漫画の様に肥満体になった山田さんが現れて、息切れしながら描いている漫画は打ち切りが決まっていて、その最終話も完成させられずに最後には死んでしまうっていうのは、『炎上した作者の身代わり』を勘繰られてしまうのも当然かなと思う。実際、「山田さんに罰を引き受けさせて、作中で殺して、これでもういいでしょっていう話なのかな」と読む事はできてしまうし、自分も当初は割とそう思った。その上、亡くなった山田さんの前にはみいちゃん(の幻?)が現れて、まるで山田さん≒亜月ねねが最後には(勝手に)許されたかの様にも読めてしまう。それが、なぜ駄目なのか。

 『みいちゃんが生きた意味を見付けてあげられるのは、山田さんだけだったから』だ。

<『自分が生まれてきた意味』を探して>

 作者の自己弁護とか逃げとか、そういう些末な事はもういい。問題の本質はそこにはない。

 山田さんは作中で何度か言っている。『みいちゃんってなんのために生まれてきたの?』とか『「みいちゃん」の人生ってなんだったんだろう』とか。自分とみいちゃんが出会った事に意味はあったのかなって。それを最後まで描き切る前に山田さんは死んでしまう訳だけれど、本来はその答えを描くのが『みいちゃんと山田さん』でなければならなかったんじゃないかって自分は思う。言い換えれば作者はそれを明示する必要があったと思う。山田さんの言葉として。みいちゃんが生きて、夜の街で山田さんと出会った事には意味があったんだっていう、はっきりとした答えを。なぜならみんなが『自分が生きている意味』を求めているから。そしてそれ以上に、生きている意味や意義がない事を悪だと勘違いし、自分や他人を傷付けるための道具にしてしまっているから。

『自分は何のために生まれてきたのか』『自分は何のために生きているのか』

 この言葉は、人生の目標を見定めようとする時、自問自答する時には意味がある。でも同じ言葉を他人に向けた時、それは言葉の凶器になる。

『あなたは何のために生まれてきたの?』『あなたは何のために生きているの?』

 ほら、主語が入れ替わるだけで、それは他人を刺すための言葉になった。他人を責めるための言葉になった。他人を裁くための言葉になった。

 極論すれば、『生きている事に意味なんかなくていい』

 だって自分たちは既に生きているから。

 自分たちが生きている事を、意味があるとか無いとか良いとか悪いとか許すとか許さないとかジャッジできる者はこの世に存在しない。健常者であっても、障がい者であっても、どんな人種や属性であろうと、自分たちがただ生きている事を咎められる理由は無い。それが『人権』だ。ただもう一方で、自分たちは『自分が生きている理由』を求めたがる。自分自身でそれを探そうとするし、他者との関係性や他者からの承認の中にそれを求める。時に病的に。それが無いと生きて行けないかの様に。生きていてはならないかの様に。でもそれは幻だよ。SNSが普及して、他人と自分を延々と比較し続ける事が簡単になって、隣の芝生はどこまでも青く見えるし、上を見ればきりがなくて辛くなる。だから人は自分よりも下を見る事で安心したがる。自分より不遇な人。自分より能力が劣っている人、不運な人、貧しい人。そして障がい者。その他にも、容姿や才能や、何ならSNSのフォロワー数や集めたいいねの数なんていうものまで使って自分と他人を比較して、自分の心を慰めて、「自分には(あいつよりも)価値がある」みたいな薄っぺらい結論にしがみついてみたりする。障がい者が白眼視されるのも、差別されるのも、そういう自分たち健常者の側の『余裕のなさ』が原因のひとつなんだろうと思う。生活保護バッシングとか、障害福祉に金がかかりすぎているだとかいう批判がなくならないのは、それが『必死に働いて税金を納めている自分の生活苦』の様な『今、苦しい思いをしている私』の心の悲鳴だからだよ。ただ一言、『私を助けて』と言えないために、『今助けられている他人』を叩いている。なぜ『私を助けて』と言えないか。なぜ『私を助けろ』と怒れないか。それは言ったら最後、今度は自分が叩かれる側に回されると思い込んでいるからだし、実際にそうして誰かを叩いてしまった記憶があるからだ。その『弱いものが、本当に弱い立場に落ちないために、自分より弱いものを探し出して叩く』というねじれが差別の根本にはある。

 じゃあ自分たちはどこに『自分が生きている意味』を求めればいいのか。他人を貶めるのでもなく、差別するのでもなく、拒絶するのでも叩くのでもないやり方で、それを求める方法はないのか。

 自分は、それは他者の中にしかないと思う。

 自分自身では見付けられなかったものを、隣にいる誰かが見付けてくれるという事はある。自分でどれだけ自分自身の心を覗き込んでも見付からなかった光を、誰かが指差してくれる事はある。山田さんの絵を、みいちゃんが無邪気に喜んでくれた様に。それで山田さんが少なからず救われた様に。

 作者とみいちゃんのモデルになった人との間に、本当はどんな関係があったのかは分からない。『いつかみいちゃんのこと 漫画に描いてね!』っていう言葉が本当にあったのかも分からないし、あったとしてもその描き方がみいちゃんの様な脚色されたもので良かったのかどうか分からない。(個人的には酷いと思う)でもそうしてまで描いた『みいちゃんと山田さん』を、山田さんが死んで終わりにしてしまったら、誰がみいちゃんや、そのモデルになった誰かが生きていた事を受け止めてくれるんだろうね。

 これは全く個人的な考えなのだけれど、誰かが生きていた意味なんていうものが本当にあったら、それを見定める事ができるとしたら、それは本人じゃなく、隣にいた誰かの中にあって、その誰かが抱いて行くのだろうと思っている。それは錯覚かもしれないし、勘違いかもしれない。思い込みかもしれない。でもふとした時に自分たちは今ここにいない誰かの事を思い出して、それを今を生きる自分の糧にしたり、その存在を杖の様に借りたりして、生きている。それが『自分は何のために生きているのか』という問いに対する、自分では見付けられない答えだ。

 山田さんは作中で死んでしまったけれど、漫画家、亜月ねねにはこれから先がある。だって生きているから。『みいちゃんと山田さん』が終わっても、山田さんもみいちゃんも死んでしまっても、作者は生きて、これからも漫画を描くのだろうと思うから。(ここで「お前はもう漫画を描くな」みたいな極論を言うつもりはないよ)

 だからこそ自分は思うのだけれど、その作者の心の中に、みいちゃんのモデルになった誰かや、夜職で働いていた女性たちがまだいるとして、彼女たちの物語をまた描いてみたいという想いが消えていないなら、今度はみいちゃんやムウちゃんの様な障がい者を殊更問題がある様に描くのでもなく、ツバサの様に悪役にしてしまうのでもなく、みいちゃんや山田さんの様に最後には死んでしまうのでもなく、みんなが最後まで生きて行く物語にしてみて欲しいと思う。桃花の様に夜職を続けるのでも、ニナの様に辞めるのでもいい。夜職で働いた事を後悔しているのでもいいし、肯定しているのでもいい。みんなが、それぞれの思いを胸にどこかで生き続けて行く物語を、自分は望む。『自分は何のために生まれてきたのか』『自分は何のために生きているのか』という問いに対する答えは、作者も、読者も、ひとりひとりが生きて行く先にあるはずだと思うから。そう、願うから。

@kuroinu2501
あまり吠えない犬です。