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亜月ねね『みいちゃんと山田さん』6巻感想 ~『みい山』が描けなかった事~

黒犬
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公開:2026/9/26

<『外道』に堕ちるな>

 最初に書いておく。Xで『みいちゃんと山田さん』の作者の亜月ねね氏の事を『ねねちゃん』と言っているポストを見かけて、『そういう事を止めろ』とツイートしたら結構な反響があった。

 中には自分に対する単なる悪口もあったね。引用とかで。まあそれはいいよ、好きに言ってくれて。

「こんな酷い漫画を描いている作者をなぜ庇うんだ」っていう事なんだろうと思う。「あいつは批判されて当然の奴だろ」「自分がやった事をやり返されてるだけだろ」って。ただ、自分が思っている事は簡単で、他人を差別して、攻撃して平気な奴を増やすな、自分がやっている事が、批判対象がやっている事と同じだと気付け、という事でしかない。

 自分のポストでは書かなかったし引用もしなかったけど、ねねちゃん呼びしてたの作者の個人情報特定して晒す系の奴だったし。特にスクショとか魚拓とか取ってないんで、元々のポストはもう消えたかもしれないけどね。

 「亜月ねねの裏垢(裏アカウント)はこれ」とか「亜月ねね本人の写真はこれ」とか、自分で調べなくてもXだと他人の真偽不明のポストが流れて来るけど、「差別表現を批判する」っていう立場でやっている事が作者への個人攻撃なの、もうカウンターとかそういう次元じゃなく『自分が気持ち良くなっちゃってる』のが透けて見えて辛い。誰かが『「差別は面白い」という現実と向き合え』っていう趣旨の事を書いてたけど、もっと言えば『自分を正しい側に置いて相手を攻撃する』事だって相当気持ち良い訳で、ある程度自分でブレーキを踏めないとあっという間に同じ穴の狢に落ちてしまう。

 ゲームをやる人にしか伝わらない例えで言うと、自分は新作の『鬼武者 Way of the Sword』を遊んでいる。その中で主人公の宮本武蔵と、宿敵の佐々木巌流という登場人物がいて、二人は「白装束の男から魂を吸収する事で強くなれる『鬼の篭手』を与えられた」という共通点がある。

 武蔵の方は「幻魔」という地獄から這い出て来た妖怪みたいな奴を斬ってその魂を吸うのだけれど、巌流の方は白装束の男に「(お前に与えた方の鬼の篭手は)幻魔の魂よりも、人の魂がお気に入りなんだ」とそそのかされて人斬りになってしまう。外道に落ちてしまう訳だよね。更に白装束の男は武蔵にも「お前も人の魂を喰えばいい」「強くなりたいんだろう?」と告げる。

 人斬りになり外道に落ちた巌流と、それを討とうとする武蔵。この構図の中で武蔵が主人公として輝いている理由は「ぎりぎりの所で人斬りに堕ちずに踏み止まる」からだよね。そこには仲間の助けもあった訳だけれど、たとえ巌流を討つという正しい目的のためであっても、「自分も人の魂を喰って強くなればいい」「巌流に勝つにはもうそれしかない」みたいな選択を武蔵がしてしまったら、外道に落ちた人斬りが二人に増えただけの事になってしまう。

 「相手が外道だから」は、「自分も外道になっていい」事とは違うよ。

 現実はそんなに単純じゃないよ、と言われればその通りだけれど、ゲームや漫画の様な虚構の物語だからこそ語れる『本質』というものがあると自分は思っている。ただ当然、ゲームや漫画が現実の全てに回答を用意できるという事もない。両者の間でどうバランスを取って行くのかは、自分で見定めるべきだし、『みい山』にしてもそれは同じだ。

<自分に『わかる事』と『わからない』事>

 話を『みい山』に戻す。この6巻って、色々と物語のターニングポイントになる部分が多くて、考えさせられる。シゲオはみいちゃんと衝突して『俺って「みいちゃん」が好きなわけじゃなくて 「俺が想像したみいちゃん」が好きだったんだな』と気付く。(まあこれは男性視点から言いたい事もあるのだけれどそれは割愛する)山田さんはみいちゃんと同居する中で、かつての自分の母親の様にみいちゃんに対する干渉を強めて行き、その結果夜職を辞めさせられたみいちゃんはパン屋のバイトを始めるも、挫折を経験する。

 自分は、ここでツバサとその母親がみいちゃんの解雇の直接の原因になる展開について全く納得していないし、男性の知的障がい者とその家族を『迷惑客』『悪者』として「使った」事は非難すべきだと思う。それは自分が社会福祉法人の職員で、ツバサの様な行動(会計が済んでいない商品に手を付けてしまう事など)をしてしまう人が一般論として実際にいる事を知っているからだし、その親がそれでも我が子を買い物などの外出に連れ歩かなければならない理由が「家の中にひとりで残しておく事ができないから」だと知っているからだ。

 ツバサの様な障がい者がパン屋で起こした様なトラブルを見ると「問題行動をすると分かっているなら連れ歩くな」という意見が出る事がある。ただ、そうすると今度は家に家族が誰もいない時に親は一切外出できないし、当然働きに出る事もできない事になる。「部屋に外から鍵をかけて閉じ込めておけ」というのはいつの時代の話だというレベルの人権侵害=虐待だし、だからこそ生活介護や、日中一時支援や、就労継続支援B型事業所の様な、障がい者にとっての日中の活動場所、居場所としての障害福祉サービスが必要とされている。それを無視してツバサとその母親が「自制できない知的障がい者とクレーマーの親という厄介客」「子どものために風俗を使い、それを相手の職場で暴露する非常識な親」の様に単なる悪者扱いされてしまうのは、作者の障害福祉と障がい者についての解像度の低さ、『わからなさ』が反映されてしまっていると思う。

 一方で、作者は夜職を含めた女性の問題については『わかっている』部分が多く、解像度が高い。逆に自分にはそこが『わからない』から、結論が出せない部分が数多くある。

 例えば、みいちゃんの様に療育手帳も持っておらず、障害福祉サービスも受けていないけれど、知的(発達)障害が疑われる様なグレーゾーンにいる女性が『生活のために夜職をする』事の是非がある。

 山田さんは、自分自身も夜職を辞めるし、みいちゃんにも辞めさせる。それはキャバクラの店長の様な外道がみいちゃんの様な女性をデリヘルに紹介してキックバックを受け取っていたり、(そんなキャラを使ってスピンオフ漫画を始めるのは常識を疑うけど)デリヘルのオーナーが給料をごまかして金銭的虐待をしていたり、断れないタイプの女性にNG無しの風俗の様な酷い接客をさせる事例を『わかっている』からだ。わかった上で「まともな夜職」なんていうものは無いと結論付けている。恐らく。じゃあ作者が『夜職なんて全部なくなるべきだ』『全ての女性は今すぐ夜職なんて辞めるべきだ』と主張しているかというと、少なくとも漫画の中ではそこまで言い切れてはいない様に感じる。

 みいちゃんはパン屋のバイトをクビになって、結局は山田さんと暮らす部屋に男を連れ込む。7巻の内容にはなるけれど、地元に帰ってからも「お金ほしー この辺で立ちんぼできるのどこだろ?」と言わせてもいる。ここまでの内容でも福祉の中に居場所を得たムウちゃんとの対比があるけれど、ムウちゃんと違ってそもそも親の生活が破綻しているみいちゃんは、地元に帰って来たところでムウちゃんと同じ道を選べない。

 みいちゃんの様な「昼の仕事ができない。夜職にしか居場所がない人」をどうするか、どうすべきか、作者は明確に示さない(2巻に登場するニナや4巻に登場する真璃亞という例外はありつつ)し、自分には結論が出せない。作者について言えば「みいちゃんは死んでしまうから」だ。最初に漫画の『オチ』として、みいちゃんの死を決めてしまっているせいで、この漫画は彼女が救われる過程や結末を用意する事が絶対にできない。(だからこそ福祉関係者は「どうやったらみいちゃんが救えたか」と考えた訳だし)

 読者はこの漫画を読んで「地元に帰った結果死んでしまうなら、東京で夜職をやって自力で稼いで暮らしていた方が良かったじゃん」と考える事もできるし、「夜職しかまともにできない人にとって、生活できるだけのお金を稼げる夜職は必要だ」と考える事もできる。それは恐らく間違った理解なのだけれど、『みい山』はそれを否定できる内容になっていない。みいちゃんは死んでしまうし、その『オチ』を使うと最初に決めてしまっている時点で山田さんとの共同生活も破綻する事は決まってしまっている。

『ふざけんな!!』

『ねえ・・・・・・前から思ってたんだけどさ』

『みいちゃんってなんのために生まれてきたの?』

『なんで生きてんの?』

『こんなことするために生きてんの?』

 SNS上で死ぬほどネタ扱いされ、拡散された例の『現実が 見えてきた』のページの前で、山田さんがみいちゃんに言った言葉だ。自分には『現実が 見えてきた』という言葉よりもこの山田さんの台詞の方が重かった。それは実際に口にしなかったとしても、社会から障がい者が日々投げかけられている言葉だからだ。

『なんのために生まれてきたの?』って。

『なんで生きてんの?』って。

 理由が無かったら生まれてきちゃいけないのか。

 能力が無かった生きてちゃいけないのか。

 その後液タブを壊され、みいちゃんを殴ってしまった山田さんは適当な理由を並べてみいちゃんに地元に帰る様に説得し『宮城の山でタンポポでも摘んでなよ!』と言う。1巻の時、『無能はタンポポでも摘んでなよ』と言った桃花に『そんなことない!』って言って受け入れてあげたのは山田さんだったのにね。今度は同じ台詞で山田さんがみいちゃんを突き放す。

 つまるところ、この漫画の最大の問題は、1話の時点でみいちゃんの死を決めた事だ。

 それも他殺で。事件性のある死に方で。何でそんな筋書きにしたかと言えば、犯人探しのエンタメにするためだ。結末を決めてしまっているから、みいちゃんが生きて幸せになるルートは最初から存在しない。それは『夜職だった女性が最後には不幸に死んでしまう物語』を否定できないという事だし、「昼の仕事ができて、親を頼る事ができて、漫画も描けたおかげで夜職から抜けられた山田さん」と「夜職しかできないおかげで居場所がなく、親も頼れず、最後には殺されてしまうみいちゃん」という構図を壊せない事が決まってしまっているという事だ。生きて行くには一定程度の能力と社会に対する順応性が必要で、それが無い人は生きて行けません、という物語を、結果的に『みい山』が採用してしまったからだ。

 それが作者の本意なのか、それとも『みい山』をエンタメとして描こうとした結果そうなってしまったのかは分からない。ただ作者の夜職に対する解像度の高さ、『わかっている部分』のリアルさが、福祉や障がい者に対する理解の粗さという『わかっていない部分』よりも注目された結果、「『みい山』はリアルなんだ」と受け止める読者が多く、それがまた「夜職は必要なんじゃないか」「福祉には限界があるんじゃないか」「障がい者を地域で受け入れるなんて無理なんじゃないか」という『偏った理解』を助長してしまったんじゃないかと自分は思う。

<実際の夜職、実際の福祉>

「夜職でしか働けない様な人は夜職でいるべきだし、自らの意思で夜職を選びたい人もいるのだから、夜職は必要だ」とか「福祉には限界があるのだし、『愚行権』という考え方もあるし、個人の意思で自ら夜職を選ぶ様な人は自己責任で働いてもらって良いのではないか」とか、そういう考えが一般化するのは良くないと自分は思う。

『愚行権』って少し前に話題になったけれど、要するに「客観的に見て喫煙は明らかに体に悪いが、喫煙者に対して禁煙を強要するのは個人の権利を侵害している」とか、そういう文脈で出てくる考え方だ。ただこれが夜職、その中でも特に売春等の話になると、その『愚行』には相手方が存在しているし、悪影響が自分自身の範囲に収まらなくなってくる。そもそも論として、本人が自分の意思としてやっている行為が、実は第三者や周囲の環境からの強要である事なんていくらでもある訳で、『立ちんぼ=個人売春』というのも嘘で、見えないだけで大半は裏にそれをやらせている男がいる、実質的な『管理売春』だろうと言われてもいる。ホストとかね。

 そういう負の社会構造をどう是正して行くか考える時、「自分にはわからない事が多い」という事を認め、その上でこれからどうすべきかを考える事が必要だろう。そのためには『みい山』が描かなかった部分、はっきりと結論を出さなかった部分について考えて行く必要があるし、その中には障がい者の事も、福祉の事も含まれる。

 ツバサやその母親にとっての安心できる暮らしはどうしたら実現するのか。みいちゃんが夜職に頼らずに暮らして行くにはどんな選択肢が必要だったのか。自分がわからない、すぐに答えが用意できない、今ある制度を改善できていない様な、様々な社会問題。それらに対する答えは『みい山』が描いた世界から抜け出した、その先にしかない。

@kuroinu2501
あまり吠えない犬です。