最終巻、出ましたね。
もちろんちゃんと買って読んでいるけど、(電書はすぐ読めるのが助かる)最終巻の感想に辿り着くにはまだかかりそう。そこで駆け足という訳ではないけれど、今回は3巻と4巻の感想をまとめて。
<『怒り続ける』という事>
まあ、大方の予想通り『みいちゃんと山田さん』アニメ化発表の炎上騒動は、ほぼほぼ鎮火した頃合いだと思う。『人の噂も七十五日』とはよく言ったものだけれど、現代社会では75日間も持たないのが普通になってしまった。
『炎上』って、瞬間最大風速的に大きな炎になって燃えるものだけれど、新たな燃料の供給が途絶えれば下火になって行くから、作者や出版社、アニメの制作委員会なんかがもう示し合わせて「今だけ沈黙しておこう」とすれば、みんな飽きて次の話題に流れて行く。多分、今日の最終巻発売の話題がそんなに聞こえて来ない事から察するに、次はアニメ公開のタイミングで(中止にならなければ)また炎上があるかどうか、という所だと思う。残酷な話、マガポケ連載時の最終話の展開でみんなが拍子抜けしてしまい、既に『みい山』の話題性が失われてしまった可能性すらある。
これは別に『みい山』だけの問題ではなくて、昨今SNSで起きる様々な炎上というものが、全てある種の『祭り』に過ぎず、消費されて終わるイベントになっている事が本当の問題なのだと思う。要するにキャンプファイヤーだ。火の周りにみんなが集まって、歌ったり踊ったりして一夜だけ盛り上がる。火が消えればみんな日常に戻って行く。
これが芸能人の不倫騒動の様などうしようもないゴシップなら誰も困らないのだけれど、SNSが普及しきった今の社会では、重要な社会問題から低俗なゴシップまで、ありとあらゆるテーマがこのキャンプファイヤー的な祭りの構造に投げ込まれる様になってしまい、何かの炎上が起きればその時だけ大きな話題になるのだけれど、それは別に重要な問題提起として扱われる訳でもなく、一過性のイベントとして過ぎ去ってしまうのだ。
そうしたイベントとしての炎上は、提起された問題の解決や、事態の好転をそもそも企図していないし、参加者にしてもそこまで真剣に問題に向き合うつもりもない人が大半だ。だからいずれ皆が飽きて離れて行ってしまい、終わった後に残るのはキャンプファイヤーの燃え残りだけ、というのが『普通』になってしまっている。だから「最初の火力で灰も残さず燃やし尽くす」様な大炎上以外、燃やされた側も火を付けた側も不完全燃焼で何の成果もなく終わる事が多い。残るのはただ燃やした、燃やされたという遺恨だけだ。
実際、障害福祉の問題は『みい山』騒動以降、何も変わっていない。
これまで問題だった事は変わらず問題として残り続け、騒動は新しい知見につながる事もなかった。「『みい山』のおかげで障がい者の問題に光があたった」みたいな事を言っていた方も多くいたけれど、自分の様な社会福祉法人職員の目から見れば、その問題はもうずっと前から大勢の福祉関係者が取り組んでいた事だ。今回の炎上が初めての問題提起だったかの様に受け止めて、新たに議論の輪に加わった方々が、引き続き問題解決のために協力してくれる様になったのか、仲間が増えたのかと言えば、別にそんな事もないというのが現状だったりする。
だってもうみんな『飽きた』でしょう?
『みい山』の火の周りで踊っていた人々は、今どんな火を囲んでいるのだろう。「『医療的ケア児(医ケア児)』の親が子どもを普通学級に通わせるのは親のエゴでありわがまま」とか「障がい者の安楽死について」とか、あの辺の火を囲んでいるんだろうか。自分から見ればこれらの問題は同一線上に並んでいるのだけれど、ひとつの大きなテーマが、文脈も何もなく小さな話題として切り分けられて、個別のキャンプファイヤーになってしまいがちなSNS上では、それらはゴシップと同列の祭り以上の意味を持たない。飽きられれば、話題にされる事もなくなる。本当に、炎上にせよ何にせよ、話題にされ、面白がられている間が花だ。マイナスの話題だったとしても。例えば「『新宿解消録テンチョウ』って何だよ」とか。『1日外出録ハンチョウ』の、二匹目のドジョウが、『みい山』という柳の木の下にいるとでも思ったのか。何というか、漫画というものに対する『舐め』を感じる。
じゃあ自分は何で『みい山』の話をまだしているのかと言うと、これはわざとそうしている。誰もが関心をなくしても「まだ何も問題は解決していないと思うよ」と誰かが言っておかないと、全てはエンタメ消費になって、面白がられ、最後は飽きられて終わりになってしまう。
言ってみれば『自分は納得していない』『自分は怒っている』という炎上の時の気持ちを、大きな炎の中にではなく、熾火になった熱の中にずっと維持し、その時提起された問題を解決するために、静かに『怒り続ける』事が求められるのだと思う。本当はね。
<『怒りを知る』という事>
みんなが怒っているから、何となく自分もその輪の中に加わってみる、というのは、その時は気分が高揚するとしても、後になって自分でも「あれは結局何だったんだろう」という事になりがちだと思う。自分の中の『怒りを知る』には、実は周りが騒がしければ騒がしい程マイナスだ。むしろ炎上騒動がほぼほぼ終わった頃に、それでもまだ自分の中にくすぶっている怒りがあるとすれば、それが『本当の怒り』なのだと思うし、そういう本当の怒りを自分自身が消さずに、忘れずに維持して行く事が大事だと思う。別に周りに火を点けてまわる必要もない。自分の中に、その火が消えずにあれば。
そして今、炎上を冷静に振り返って、自分と『みい山』という事で言えば、それは障がい者の問題を半端にエンタメ化した結果、そんな露悪エンタメを好む読者が『やっぱり障がい者とは関わるもんじゃない』(共生社会の実現に向けた取組への否定)とか『障がい者に子どもを産ませるな』(優生思想への共感・旧優生保護法への回帰)とか、『障がい当事者への「みいちゃん呼び」』(精神的虐待)等の、福祉関係者なら一発でライン越えの行動で無邪気に盛り上がった事、またそれを作者や出版社が意に介さなかった事、それらの問題を無視してアニメ化を発表した日が、よりによって相模原障害者施設殺傷事件から10年の節目の日であった事がある。
繰り返しになるけれど、自分は『怒っていた』訳じゃない。『怒っている』よ、今も。
「障がい者の地域移行を進めよう。共生社会の実現を」みたいなスローガンで制度設計をしておきながら、「じゃあその地域に住んでいる一般人は、本当に障がい者と共生するつもりがあるんですか」という問いに対する答えが『みい山』の読者の発言と大差なかったりする。「障がい者と関わると不幸になるよね」とか「共生なんて無理だよね。お互いの為にも分かれて暮らした方が良いよね」とか「障がい者が子どもを産む事を許したのが間違いだよね」とか「障がい者のケアって正直負担なんだよね」とか、そういう読み方をした読者の感想はこれまで何の遠慮もなく拡散されて来た。その原因のひとつは、障がい児・者の親を、みいちゃんとその母親、4巻に登場するツバサとその母親の様に戯画化して描いた事だ。ツバサに関しては単なる性加害者として描かれてしまったし、ツバサの母親もむしろ積極的にそれを後押しする側として描かれた。
自分の怒りの矛先、まだ数えます? 4巻までの内容に絞ってもまだあるけど。
はっきり言って、自分の様な福祉職員が日頃接している重度知的障がい者って、みいちゃんよりもツバサに近い。だからこそ一般論の範囲で言える事として強く抗議するけれど、彼のような子どもの親が、普通に子どもの将来を心配して、悩みを抱えて生きているその隣でみい山があのエピソードを描いた事のグロさをもっと真剣に考えてもらいたい。後に作者は『殺されていい人間なんているわけないよ』『私たちは同じ人間だ』って山田さんに言わせてる訳だけど、それは本心だったんだろうか。そこにツバサは入っていたんだろうか。ツバサの母親は入っていたんだろうか。自分は本当に疑問に思う。そして何よりそういう配慮の無さが、『漫画のネタ』だと許されて、自分たち障害福祉の現場では『虐待』と呼ばれる事の非対称性について、納得行く説明って一切無い訳じゃないですか。
毎日必死になって、虐待防止研修とかやって、利用者に暴言吐かれようが怪我させられようが守秘義務のために黙って飲み込んで働いている生活支援員や相談支援専門員って全国に大勢いる。誰からも見えないだけで。誰にも語られないだけで。そういう職員が守っているラインを『表現の自由』『個人の感想です』で軽々と踏み越えて行く人が大勢いるのが、入所者が移行していこうとする『地域』な訳だよね。それ大丈夫なんですかね? 自分にはとてもじゃないけど大丈夫だなんて思えない。適切な受け皿もなく地域移行させるくらいなら、上辺だけの共生社会なんて止めたらいいとさえ思う。口を開けば安楽死だの好き勝手言いやがって、と思う。
これ、一歩間違えたら人が死ぬんだよね。
自分はずっとその話をしている。そしてずっと怒っている。
<どんな被害者も加害者になり得るという事>
夜職の世界で傷付いている女性が大勢いる事。わかる。
過干渉な親に人生の選択肢を潰されてきた事。わかる。
作者自身の体験としても、友人や知人の体験談としても、きっと『みい山』の元になったエピソードは事実として山ほどあって、それを漫画という形に昇華して描く動機も、必要性もあったんだろう。それはわかるよ。
だからって、他人の親を醜悪に描いて、子の加害性や障がいの原因を全て親に背負わせる様な作品を描いても許されるって事が、本当にあるんだろうか。
「みいちゃんの母親は近親相姦の結果みいちゃんを生んだ」とか、「ツバサの母親は子どもの性的欲求を満たすために性加害を容認した」とか、「最初に福祉の手を払い除けたのはみいちゃんの祖母」とか「山田さんの母親は過干渉な毒親」とか。実話ベースの創作だと言ってしまっている以上、どこまでが事実でどこからが創作なのかは分からない。でも総じてみい山に登場する親は負の要素を背負わされがちだと思う。父親の多くが登場しないのも、「作者が知らないものは描けない」っていう事なんだろう。みい山の多くは娘と母親の話で、娘のつまづきの原因は母親にある。ベースが他責なんだよね。
自分がつらい時、それを他責にしないと生きて行けない人はいる。
でも、前に同じ内容をポストしたけれど、『ある一場面において被害者側だった者が、その痛みを訴えるのと同じ口で無自覚に誰かを傷付け、その足で誰かを踏みつけてしまう』っていう事はあるし、自分が傷を負っているという事実は、自分は決して誰かを傷付けないという事を保証しないし免罪もしない。自分の言葉や表現は、出発点が自らの痛みを訴えるためのものであったとしても、その中に内省としての『自責』を含まなければならない。そう思う。
その自責っていうのは、本当なら『生きて行く』事に繋がらなければならなかった。傷付きながらでも。間違いながらでも。
最終巻を読んだ今だから、余計にそう思う。