最初に注意書きを置いておくので、読んでもらえると嬉しい。
さて、いきなりだが、1巻分の感想が1回に収まらないので、更に数回に割る。
何回やる気なんだよという話ではあるけれど、アニメ化まで1年あるそうだし、駆け足でやると精度が落ちる。簡単にまとめられる話ではないし、重要なテーマが多いので、ここは自分が必要だと思うだけの時間と文字数を割く。
<『山田さんの物語』としての『みい山』>
アニメ化発表で炎上した直後という事もあり、『みい山』についてはSNSで様々な方の感想を目にする。その中で「『みい山』の主人公って山田さんだよね」という趣旨のものがいくつかあった。「『涼宮ハルヒの憂鬱』も本質的には主人公ってハルヒじゃなくてキョンなんだよね」と書いている方もいた気がする。(この例えが分かる人も少ないかも)
『みい山』も『みいちゃんと山田さん』という題名ではあるけれど、主たる視点は山田さん側にある。
冒頭、山田さんはみいちゃんの墓参りに訪れる。「去年持ってきた花・・・そのままだ」「もうあれから何年経ったんだろうね?」という台詞から、山田さん以外にみいちゃんを弔う人がいない事、みいちゃんの死から数年経っている事、そして山田さんは毎年墓参りに来ている事が分かる。ただ、みいちゃんの墓の絵は見切れていて「家之墓」の部分しか読めない。
2012年の新宿歌舞伎町に視点は移り、山田さんが働くキャバクラにみいちゃんが体験入店して来て一騒動起こす。というか、山田さんの『山田』はみいちゃんに名字を問われて咄嗟に思い付いた偽名なので、ここで初めて山田さんは『マミちゃん』から『山田さん』になる。そう考えると、山田さんというパーソナリティの生みの親はみいちゃんなんだよな、と思う。みいちゃんと出会って初めて、山田さんは山田さんになった。ここから『山田さんの物語』としての『みい山』も始まって行く。
<親から人生を『買い戻す』ために>
山田さんは、みいちゃんの採用に反対し「無能はタンポポでも摘んでなよ」と言い放つ桃花さんに対し「そんなことない!」と言い返す。その際に、自分の母親との確執が回想される。
その他にも、「ママ」と描かれたスマホの着信を無視する様子や、離れて住む母親から送られて来たらしい手紙と就職先リストの束(「ママが選んだ就職先のリストです。資料もつけました。この中のどこかに入ること」と書かれている)が無造作にゴミ箱に突っ込まれている様子、また大学をサボってキャバクラに務めている事から、母子関係が良好ではない様子も伺える。その後に度々差し込まれる回想シーンでも、小学校受験に失敗した事を母になじられたり、その母が好きな花を絵に描いたのにゴミ箱に捨てられたりといった精神的にキツいシーンが続く。
近年広まった言い方であれば『毒親』という事なんだろうと思う。
子どもに対して過干渉で、支配的で、親である自分の価値観が絶対的に正しいと思い込んでいる。こういう親からの支配に苦しんでいる人は現実でも数多く存在していて、彼らの多くが「親からの経済的な自立」を目指している。経済的自立がなければ、親の干渉を振り切って自由になる事ができない。大学生であれば学費や生活費の仕送りを受けている立場でもあって、そこから逃れるには可能な限り割の良い仕事を探さざるを得ない。そうした『親から自分の人生を買い戻そう』としてもがいている人(特に女性)の受け皿のひとつに、キャバクラをはじめとする『夜職』がぴったりはまってしまうという現実はある様に思う。
贅沢がしたい訳でもない。遊びたい訳でもない。ただ自分の人生が欲しい。
『みい山』が読者から支持される理由のひとつに、こうした『親との確執』という普遍的なテーマを扱っている事がある。山田さんほどの毒親ではなくても、自分の親に対して思う所がある人はいくらでもいるし、親との確執をきっかけに夜職になった人だっている。自己肯定感が低くなる様に育てられたせいで交際相手からのDVやホストからの金銭的搾取に絡め取られて行く人だっている。愛情に飢えているから、殴られても金銭を搾取されても相手を繋ぎ止めようとしてしまう。たとえそれが上辺だけのものだとしても。
こうした『社会の暗部』を描く作品は、その暗闇の中にいる人から特に支持される。そこには「自分たちの存在を透明化せずに描いてくれている」とか「綺麗事だけの物語には感情移入できない」とか、様々な理由がある。でも自分は(不出来な)大人としてここで釘を刺しておく。
夜職の世界に救いがあるとか本気で思わない方がいい。
「みい山の様な作品を読んで」とか「元夜職の人の体験談を聴いて」とか、そんなどこかで聞きかじった情報で「夜職は社不(社会不適合者)に優しい」とか、「キツい仕事だけど、何年か耐えればまとまったお金が稼げて、本当にやりたい仕事への足がかりになる」とか、「若い間だけ、今のうちだけ我慢すれば」とか思わない方がいい。そこにはみいちゃんを救ってくれる山田さんはいない。そこにいるほとんどの大人は、みいちゃんにしろ山田さんにしろカモってやろうと考えている小ずるい奴だけだ。クズだけだ。二十歳そこそこの若者なんて養分にされるだけだ。異論はあるだろうけれど、これくらい酷く言っておくのが丁度良いと自分は思う。
じゃあ山田さんは何でみいちゃんに親切なのか。
なぜ他の登場人物が匙を投げる様なみいちゃんの面倒を見ようとしてくれるのか。それは1巻で繰り返し描かれている様に、みいちゃんに『過去の自分を投影している』からだ。
<『あの時 あの小鳥を 助けられたら』>
みいちゃんを助ける時、山田さんは過去の自分の辛い記憶を思い返す。母親からなじられた。好きなものは否定された。束縛されるばかりで、望んだ愛情は得られなかった。母にして欲しい事、かけて欲しい言葉を得られないままずっと耐えてきた。
だからみいちゃんが今、自分と同じ嫌な思いをしている事に耐えられない。みいちゃんには、自分があの時して欲しかった事、かけて欲しかった言葉を与えてあげたい。
山田さんが救いたいのは、みいちゃんであり『過去の自分』なんだ。
漫画家、遠藤浩輝の短編に『カラスと少女とヤクザ』という作品がある。(『遠藤浩輝短編集(1)』に収録。今、作品名で検索したら作品そのものが出て来たので驚いたけれど、『コミックDAYS』でこの短編だけ無料なんだね。会員登録不要で読める様なので以下に貼っておきます)
『カラスと少女とヤクザ』の中には、今はヤクザになったある男が、いじめられっ子だった少年時代に、巣から落ちた雛鳥を救けてやろうとして世話をしたものの、元気になったその鳥は飛び立った直後にカラスにさらわれてしまう、というシーンがある。男は独白する。
『あの時 もしも あの小鳥が 食べられずに
空をずっと 飛んでいけたら
僕も飛べたかも しれない
僕も違う生き方が できたかも しれない』
自分は、誰もがそんな想いを持って生きているんじゃないかと思う。救ってあげたかった『あの小鳥』を、『あの時の自分』を抱えてみんな生きている。
山田さんにとってそれはみいちゃんで、だから山田さんはみいちゃんを見捨てる事ができない。それは一見、山田さんの優しさというか『綺麗な話』に思える。でも、断言する。そんな『個人の想い』でする支援は、いつか絶対に破綻する。
山田さんが悪い訳じゃない。みいちゃんが悪いとも言わない。ただ、支援者の個人的な感情や使命感や優しさや能力に依存した介入は、遅かれ早かれ絶対に限界を迎える。
作中でみいちゃんに読み書きを教えようとしたココロは4日で投げ出したけれど、ココロと山田さんの違いはみいちゃんに対する思い入れの差(過去の自分の体験の差)以外にない。人ひとりが背負える他者の数には限りがある。みいちゃんひとりの問題であれば、山田さんは走り切るかもしれない。でも、「みいちゃんみたいな子」がもうひとり現れた時点で、山田さんがその分を背負える余裕はもうない。
障害福祉の現実問題として、これは親きょうだいでもそうだ。
親は『自分の子』という愛情と使命感で背負う。(当然背負えない人もいるし、育児放棄や虐待をする親もいる)
ただヤングケアラー的な立場を求められる『きょうだい児』は複雑な感情を抱えながら、自分の時間を犠牲にしてきょうだいに向き合う。それは誰でもできる事じゃないし、できなくても他人が責めてはいけないと思う。強く、乗り越えている(ように見える)人もいるし、押しつぶされそうになっている人もいる。その負担を少しでも社会全体で分け合うために、障害福祉サービスはある。でもそれだって、残念ながら十分とは言えない。それに、欠点もある。次か、その次の回で触れるかもしれないけれど、障害福祉サービスというものは、ある程度障がい者本人の自由や権利を制限した上に成り立つものだからだ。
施設入所支援は障がい者を地域社会から隔離するし、就労継続支援は職業選択の幅を狭める。その上『障害者雇用促進法(障害者の雇用の促進等に関する法律)』にある事業主の責務(第五条『全て事業主は、障害者の雇用に関し、社会連帯の理念に基づき、障害者である労働者が有為な職業人として自立しようとする努力に対して協力する責務を有するものであつて、その有する能力を正当に評価し、適当な雇用の場を与えるとともに適正な雇用管理並びに職業能力の開発及び向上に関する措置を行うことによりその雇用の安定を図るように努めなければならない』)は、『障害者雇用代行ビジネス』なんていう抜け穴が作られて形骸化しつつあるし、誰もそれを責めない。元から完璧ではなかった制度が、悪質な事業者のせいで更に穴だらけにされている。
そんな、2026年現在でも障がい者を取り巻く厳しい環境が続く中で、本作ではみいちゃんと山田さんが互いにどんな関係性を築き、生きて行こうとしたのかが描かれる事になる。それが過去形なのは、みいちゃんは死んでしまうからだ。
そして、その『みいちゃんの死』について思う時、外せないのは『山田さんは亜月ねねなのか』という事だ。
<山田さんはどこまで亜月ねねなのか>
1巻の巻末で、作者の亜月ねね氏は『「みいちゃんと山田さん」はかつての私の友人がモデルで実体験をもとにしたフィクションになります』とはっきり書いている。
これだけを見ると、「みいちゃんも山田さんも作者の友人がモデルだ」と読めなくもないのだけれど、本作の読者は概ね「みいちゃんがかつての友人であり、山田さんが作者だったんだ」と読んでいる。どちらが本当なのかはさておくとして、問題は第1話の時点で、みいちゃんは『殺される』事が確定しているという事だ。
病死でも事故死でもない。血の付いたペンチ、殴られて痣だらけの体、不揃いな歯。そして1巻の最後の方では「遺体から覚醒剤の成分が検出され」などと、何らかの事件に巻き込まれたかの様な疑いのある描写がされる。
このみいちゃんの死は、どこまでが実体験で、どこからが創作なのだろう。
過去の友人に、みいちゃんのモデルがいた。それはいい。
その友人もみいちゃんの様に亡くなった。(かもしれない)それもいい。
『みい山』でもみいちゃんは殺されます。しかも漫画向けにあれこれ脚色された形で。これは、いいんだろうか?
作者の倫理観がとか、遺族に許可は取ったのか、という話をしても仕方ない。それは分かっている。ただ、山田さんが作者の投影なのだとしたら、山田さんにとってみいちゃんがどんな存在だったのか、今の作者にとってかつての友人がどんな存在だったのかが分からなくなる。
極論すれば、作者は死者を救う事だってできる。創作の中では。
でも、作者はそれをしなかった。みいちゃんは殺される。それも酷い方法で。みいちゃんにも山田さんにもモデルが存在しない、全くの創作なのであればそれで良かった。でも巻末で実在の人物がモデルだったと言われると、どんな気持ちで『みい山』のストーリーを受け止めれば良いのか分からなくなる。
きくちゆうき氏の『100日後に死ぬワニ』だって、作者の友人の事故死が創作のきっかけのひとつだったじゃないか、と言われれば確かにそうだ。物語の冒頭で不可避の死を明示して、カウントダウンして行く形式も似ている。どちらの作品も、みいちゃんの(ワニの)死が読者を牽引する強力なフックとして機能している。でも自分が『みい山』から受ける、このザラッとした『嫌な感じ』は何なのだろう。みいちゃんが何らかの障がいを持っている様に描かれているからか、事故と殺人という明確な悪意の存在の差なのか。先に言ってしまえば、2巻以降もつきまとうこの『嫌な感じ』の根源には、「どこまでが事実で、どこからが作者の創作なのか」が分からない故の後味の悪さがある気がする。そしてその『創作』の部分は、2巻以降更にエスカレートして行く事になるのだけれど、自分にはまだ1巻について書く事がある。
それは、ムウちゃんの事だ。