<フィクションの中で障がい者をどう描くか>
今日の本題に入る前に。
週末くらいしか物を書く時間がないので、意図せず『週刊みい山感想』の様になってしまうのだけれど、そうすると一週間の間に起きた『みい山関連トピック』があったりして、少しは触れておくべきか、と思う。
今週は韓国ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が日本でリメイクされ、芦田愛菜さんの主演で『南田南弁護士は天才肌』として地上波で放送される事が決まった件が話題になっていた。主人公の女性弁護士が『自閉スペクトラム症』であり、障がい者を扱ったドラマになるからだ。
『みい山』アニメ化が燃えたばかりなので、当然「みい山アニメに反対してた連中、こっちはいいのかよ」から始まり、「自閉スペクトラム症の描き方はこれでいいのか」とか、障がい当事者や福祉関係者の中でも賛否が分かれるなど、興味深い話題だった。
漫画とドラマという違いはあるものの、原作があって(原作の物語は完結していて)今後のアニメ化やドラマリメイクがある、という所も『みい山』と『南田南弁護士は天才肌』は似ていて、だから比較されて話題になるのだろうと思う。ただ自分は『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を観ていないので、こちらについては何も言えない。などと言うと、また「ダブスタ」と言われそうではあるけれど。
ただ、単に視聴者としても、現実的に世の中にある全ての漫画やアニメ、ドラマを網羅する事はできないし、例えば『みい山』の漫画の内容やそれを元にしたアニメ化に懸念を示す事が、その他の障がい者を登場させる作品全てに反対しなければならないという事には当然ならないだろうなと思う。個々の作品は(『みい山』も含めて)自由に作られるべきだし、読者や視聴者としての自分は世に出てきたそれらの作品を個別に見た上で、懸念を示すにしろ肯定的に捉えるにしろこちらも自由にやらせてもらうという事だ。(そもそも観ない、触れないという選択もあり得る)そして、その個々の作品の受け止め方というのも、時間が経てば、あるいは見る角度を変えれば、良くも悪くも変化するものだし、一定ではない。当たり前だが。
ただ、この『当たり前』が最近通じなくなっていて、「1を肯定するなら残りの99も肯定しろ。1を否定するなら残りの99も否定しろ」の様な「オンオフしか無いスイッチ」の様なあり方を自分にも他人にも求める方がいるなぁというのが、SNSを眺めながら思う所ではある。
それで、この話から『みい山』の感想に戻る上でひとつ考えたいのは、漫画にしろドラマやアニメにしろ、フィクションっていうのは全て意図的な『誇張表現』だという前提だ。
『南田南弁護士は天才肌』の話題でも「障害特性を『才能』の様に描いて良いのか」という議論が起きた。この辺りはそもそも『ギフテッド』等の言葉が、定義が曖昧なまま広まってしまった事や、あのイーロン・マスクが、自身がアスペルガー症候群であることを公言している事(彼は世間から見れば世界的な著名人であり成功者であり億万長者である)とも無関係ではないと思うのだけれど、当然彼は世の中に数多いる障がい者の中では究極の『外れ値』だ。平均的な障がい者(というのも変な表現だけれど)は、彼と同じ場所にはいないし、これから辿り着く事もない。でも、イーロン・マスクの人生は実に『映える』しドラマ性がある。
小説にしろ漫画にしろ、創作を自分でやってみた事がある人(二次創作でももちろん良い)は分かると思う。例えば現実の、今ここにいる自分の様な平凡な人間の人生はそもそもドラマにならない。裕福ではないけれど今日の食事に困るほど飢えてもいない。華やかな世界には生きていないけれど、小さな幸せを見付けたりする事だってある。程々に幸福で、程々に不幸で、程々に裕福で程々に貧しく、程々に自由で程々に不自由な、程々に明るく程々に暗い人生。そんなもの誰が注目するだろう。誰が知りたいと思うだろう。誰が価値を認めるだろう。
物語には起伏が無ければならない。漫画やアニメの中には『日常系』『空気系』と言われた作品もあったけれど、それは例外的なヒットだったんじゃないかと思う。(そもそも『日常系』で描かれる日常は現実のそれではない)
どん底から這い上がる物語は人気がある。頂点から転落する物語も人気がある。それらが交互に訪れる物語も人気がある。そうやって、現実にはあり得ない程の起伏を、人生の浮き沈みを、幸運と不幸を、善意と悪意を、好悪を『誇張』して、物語は作られる。例えばそれを圧縮して全10話前後のテレビドラマにする。全7巻の漫画にする。大きな方向性として、やっている事は同じだ。誤解を恐れずに言えば『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』も『みい山』もそういう意味でまさしく『創作(誇張)』をしている。現実から物語を創作するというのはそういう事だ。
だとすれば、自分はなぜ『みい山』の方をより問題だと感じるのだろう。
(『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を観ていないから、というのを差し引いても)
それは、作品に対する『信頼』の有無ではないかと思う。
<芯がない、ただエンタメ消費される刺激物としての『リアル』>
現実を誇張した表現が創作なのだとすれば、昔、井上雄彦氏が『SLAM DUNK』を描いて大ヒットしていた時、当然「あんな高校生いるかよ」っていう話はあった。「超高校級って言っても限度があるだろ」とか。バスケ素人である主人公の桜木花道がどんどん成長して行く所とか。でも、結局『SLAM DUNK』はあれでいい。あれが当時の皆が読みたいバスケ漫画だったんだから。
一方で同じ井上雄彦氏の漫画に『リアル』がある。こちらは『車椅子バスケットボール』をテーマにした漫画だけれど、それ以上に『失敗と挫折と、それでも続く人生』の漫画だ。「『リアル』が本当にリアルなのかどうか」という事も定期的に話題になるけれど、あれも『方向性が違う誇張』で成立しているという意味では『SLAM DUNK』と変わらないと自分は思う。ただその誇張表現が向いている先が、「高校生の努力が少しずつ報われて行く明るい世界」なのか、「事故や病気というどうしようもない理由で高い壁に人生の行く手を遮られる事もある世界」なのかという違いだ。
同じ作家の、同じ漫画という表現の中から、『SLAM DUNK』と『リアル』の両方が生み出されて来た事。それが漫画という表現の『幅』だと思う。これが現実なら、どちらも極端だと思える様な物語が、漫画の中では物語として成立し得る。そして、そのどちらをより良いものと感じるか、どちらを評価するかは読者に委ねられている。
全ての読者や視聴者を満足させる表現、全員を納得させられる表現はない。
ただ、過去に評価されたこれらの物語には、作品全体を貫く芯がある。太い柱がある。物語の始まりから、各エピソードの積み重ねを経て結末に至ろうとする中に、作者が設定した「この物語は『こうあるべき』だ」というテーマがある。
『そのテーマを描くために、今この表現が必要だった』
そうした納得があれば、仮にその漫画やドラマの中でどんな悲劇や悪徳が描かれたとしても、読者はそれを肯定的に受け止められる。それが作品に対する『信頼』だと思う。
一方で『みい山』からは、それが見えてこない。少なくとも自分は読者として、作品が信用しきれない。
前回の感想で、マガポケの広告を引用したけれど、そのキャッチコピーは『表に出にくい世界のリアル』だった。広告に描かれたキャラクターはシゲオだけれど、じゃあここで言う『リアル』って何? 何のためにその『リアル』を漫画にするの? という時、「ネタとして刺激的でしょ」「その刺激を読者が求めてるんでしょ」って言う以外の理由がパッと思い浮かばない。
これも前回書いたけれど、『「水商売してる女の子」の命や存在が軽く扱われる現実への憤り』とか、『「私たちはここにいて、ちゃんと生きていたんだ」という自分たちの『存在』が認められなかった事に対するわだかまり』とか、そういった事を主題にするのなら、『みいちゃんの死』を不可避の結末として最初に描いてしまう事や、それをフックにした犯人探しや死の描写で読者の関心を引っ張る事、また3巻以降の内容の先取りになってしまうけれど、ただの悪役であり、みいちゃんに対する加害者として描かれたツバサとその母親とか、最終話付近の全部を投げ出す様な展開なんかは噛み合ってないし、その意味が読者に伝わって来ない。
結局は露悪ネタで盛り上がれる『他人の人生のエンタメ消費』がやりたかっただけなのか、その方が話題になるからか、売れるからか、という疑惑が常につきまとう。読者である自分の頭の片隅に、その事が常にある。
以前書いた、単行本2巻の巻末にある3巻の予告にもそれが現れている。
『みいちゃん、中学生。 友愛と恋愛の狭間で、 性の悦びを知る――。』
このアオリ文、作者が考えたものではないと思う。普通、こうしたアオリ文を考えるのは雑誌連載時なら編集者だから。ただこの『性の悦びを知る』っていうフレーズは、間違いなく『性の喜び(悦び)おじさん』と言われてネット上で玩具にされ、最後には亡くなった人の言葉だ。そうでなければ、3巻で描かれる『いじめの対象になり、不良グループに売られた結果の性行為』を『性の悦びを知る』という不自然な言葉で表現する訳がない。彼が亡くなったのは『みい山』の連載開始前、2017年の事だった。それがいまだにネット上で擦られ続けている。ただ他人から面白がられる為の『ネタ』として。
ネットにまとめられている通り、彼は単に電車の車内で独り言を言っていただけで、それが盗撮された結果『性の喜びを知りやがって! お前許さんぞ!』という言葉が拡散され、『性の喜びおじさん』という名で呼ばれる様になってしまった一般人だ。芸人でもパフォーマーでも動画投稿者でもない。
信じ難い事だが、当時は一部で『糖質ブーム』(糖質=統合失調症の隠語)というものがあったらしく、自身の妄想(当人にとっては真実)を動画にして動画投稿サイトにアップする当事者や、それを面白がって拡散する第三者がいた。更には第三者が当事者をからかう為に直接嫌がらせを仕掛けたり、街で見かけた姿を勝手に撮影したりして面白おかしくネットで晒し上げる行為も横行していた。『性の喜びおじさん』と言われた人物も、盗撮者と度々トラブルになり、暴れている所を取り押さえられるなどしていたのだけれど、最終的には電車の車内で暴れていた所を乗客に取り押さえられた後に意識を失い、そのまま亡くなったという。
そういう亡くなり方をした人の言葉を、単行本の宣伝のアオリ文に使う。
どこまで『自覚』しているんだろう。自分たちがしている事を。「言ってみたかっただけ」とか言うつもりなのか。
本来、漫画や単行本の宣伝広告を含めて作品を語るのは場外乱闘の様なものだとは思う。あまり褒められたものじゃない。それでも、2巻を読んで行って、最後にこの3巻予告が出て来た時、自分は正直これまで真面目に作品に向き合おうとして来たのが馬鹿みたいだと思った。作品全体に対する信頼が、かなりマイナス方向に傾いた。
今回の炎上騒動のきっかけになった『みい山のアニメ化発表が、津久井やまゆり園で起きた相模原障害者施設殺傷事件から10年という日(令和8年7月26日)に被せられた』という事に対しても「わざと被せたんじゃないか」という意見が出ていたけれど、それは作者や作品、編集部の姿勢が信用できないからこそ向けられた疑いの目だったんだろうと思う。「わざとなら常識を疑う炎上商法だし、無自覚なら不勉強で配慮に欠けている」という奴で、結局は「刺激の強い露悪ネタを読者と一緒になってエンタメ消費させている作品」という評価になりかねないなと思う。
少なくとも自分は、『みい山』が障がい者が抱えるこの国の社会問題を世に問う上で意義深い作品だとは思わない。なぜなら、自分が日々接している重度知的障がい者やその保護者は、後に登場するツバサやその母親に近い立場だからだ。彼らの抱える問題が『ツバサ号』として描かれたのを見て、これがネタとしてまかり通るなら、自分はこの作品を信頼できないし、描かれる内容についても批判的に受け止めるしかないと心底思った。他人の人生を面白おかしくネタにしているだけに思えたし、『性の悦び』とか言って悪びれない姿勢には嫌気が差した。だってアレはどう考えても性的虐待であって、そこに『性の悦び』というルビを振って上書きするのは虐待への加担だろうと思うから。どうかしている。
作者はどうだか知らないけれど、少なくとも編集部と読者は『他人の人生をネタ消費する事』に慣れ過ぎている。より刺激的なネタ。より露悪的なネタ。そういうものを盛り付けるための器としての作品。それを宣伝するための釣り針としてのアオリ文。それはあの悪趣味な『糖質ブーム』と連続しているんじゃないか。その疑いが強まって行ったのがこの2巻からで、次の3巻、4巻に進む頃には、自分の中でそれは半ば確信に近いものになって行った。