小中高同じだった幼馴染(とその子供たち)と1年ぶりに再会し、ココスでご飯を食べてきた。去年の日記はこちら。
子供たちは今年多分5歳と3歳。去年も上の子とは一言も喋ってもらえなかったと書いていたけれど、今年もやっぱり一言も喋ってもらえなかった。うーん、なかなか面白い。でも下の子は天真爛漫が人の形をしているみたいな子で、最初から最後までご機嫌ではしゃぎまくっていた。元気で何より。こんな子供たちの相手を毎日やっている幼馴染は本当にすごいと思う。私は3日で体力の限界を迎えそうである。子供たちの相手をしながら近況を共有して、でも1年で何か変わり映えのあることがあったかといえば別になく、当たり障りのないことを語り合って時間が来たような感じだった。でも、子供たちが小さいうちは私ともこうして会ってもらえるけど、大きくなったらどこかの時点できっともう私には会いたくないみたいなこと言われるんだろうなと思うと今のうちから既に悲しいみたいな、気が早すぎることになっていた。でも、自分が子供だったときのことを考えてもそりゃ自分が大きくなれば母親の友達なんか別に会いたくないわな。会いたくないっていうか、なんで会わなきゃいけないの? みたいな…… でも君たちの健康と幸せを願っている人間はここにもいるよ。改めて、子供はいろんな人に気にかけてもらって、見守られて育つ生き物なんだなということを実感する。逆に言えば子供は気にかけられるべきだし、見守られるべき存在。私は多分自分の子供を持つことはないけど、それくらいのことは思う。来年もまた帰ってきてね、帰ってきて、またココス行こうね。来年こそは上の子に喋ってもらいたいなあ……上の子に喋ってもらえるのが先か、もう私に会いたくないと言われるのが先か、結構拮抗してるなと思う。
私も私で、一人でも、楽しく生きていこうって思った。私の人生を楽しくできるのは究極のところ私しかいないし、そもそも、今だって楽しくないことはないのだ。それに、私は結婚していたり子供を持っている人を見ると劣等感に苛まれることがあるけど、それと同じで、もしかしたら私を見て劣等感に苛まれる人だってどこかにはいるかもしれないのだ。それなら、自分で楽しさをプロデュースしてご機嫌に生きていった方が得だ。私の人生はこうで、こうであるなら受け入れて、最後までこの人生を生きる。誰にも代わってもらえないんだから。そしてそれは、幼馴染だってそうだ。彼女だって彼女の人生を誰にも代わってもらえない。それぞれの一回限りの人生を、自分の手で生きなくちゃ。
一度家に帰ってきて、それから暇だったのでまた本屋に出かけた。地元にある本屋は都会の本屋に比べれば全然小さなものだけど(それは富山市の本屋と比べてもそう)わたし的には結構品揃えが良くてたまに行くとちょっと感心しちゃうんだよね。ケイトリン・R・キアナン『溺れる少女』を見つけてオッと思った。小川洋子『薬指の標本』『生きるとは、自分の物語をつくること』オースター『サンセット・パーク』を買った。2025年はもう本を買わないと思っていたのに結局こういうことに……
私たちはどこまで愛することができるのか? どこまでが私たちの限界なのか? どれだけ愛したら、私たちは最後まで人間でいつづけることができるのか?
ハン・ガン『光と糸』河出書房新社 p.26
私は本当に丸呑みするように本を読むので(読むのは早い方だと思うけどちゃんと頭に入っているのかと聞かれたら甚だ怪しいところがある)もっとちゃんと、ゆっくりじっくり噛んで読みたい、ハン・ガンともなればなおさら、と思ってはいるものの、やっぱりハン・ガンだろうと誰だろうと丸呑みするように読んでしまう。書く方面にしたって一日二日でばーっと書いて仕上げてしまうように、私はとにかく辛抱が足りない。来年はそこもちょっとずつ改善していきたいところだ。とはいえ、そんな丸呑みするような読み方でもハン・ガンの祈りの深さが失われるのかといえば決してそんなことはなく、彼女の、人間への、生命への、そして愛への深い祈りが一冊の本に形を変えて現れたようだと思った。ハン・ガン自身が編んだだけあって、小説よりも、より彼女を近くに感じるような本だった。2025年の終わりに、締めくくりのように読めてよかったと思う。ノーベル賞講演はwebでも読んでいたけれど、本になって自分の手元に置けるということも嬉しい。そして表紙カバーの手触りがてろてろでそれも良い。
「思い出す」ということを丁寧に思い出せば、浮かぶのは実は誰かの身体の一部、しかも局所的な情景なのではないだろうか。寺山修司の歌はそのことを告げているように思う。一瞬のうちに、それも偶然に、死んだ父親の瞼が二重であることを思い出す。過度に限定されたものとしての身体の一部。その二重瞼は、もはや父親の所有物としての身体という意味合いを超えている。まるで瞼の上にひかれる一本の線が、それ自体としてどこまでも浮遊していくようだ。
永井玲衣『これがそうなのか』集英社 p.76.
身体の一部じゃないけれど、この部分を読んで思い出したのは、私も留学時代、授業の内容がどうだったかというよりも、校舎の階段がすごく大きかったこと、それだけををやたら覚えている、覚えているというか印象的だったということだった。そしてそのことを大学の何かの機会に発表したら、「あなたは本当に勉強してなかったんですね」と言われたこと。本当のことだったので反論はできなかったのだけど(何せほとんど学校にも行かずに劇場に通ってオペラを観てカフェで小説を書いていたので)そう言われてしまうとちょっとムッとしてしまうんだよな。その、ムッとしたことまで含めて思い出した。この箇所を読まなかったらずっと忘れたままでいただろう。