感想: 数学の世界史 / 加藤文元

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あらすじは以下の通り。

数学は征服と同化を繰り返して深化した――知られざる文明史

・数学は時代や地域による制約を受けず普遍的だ。たとえば今も昔も7は素数だ。しかし昔から「一つの統一された学問」だったわけではない。

・昔の人々にとっての数学は、今の我々にとっての数学とは驚くほど違っていた。

・12709^2+13500^2=18541^2など、紀元前1800年の古代アラビア人は大量のピタゴラスの三つ組を見つけていた。 計算機を持つ私たちにもこの三つ組を求めることはほぼ不可能だ。いったいどうやって?

・数字としてのゼロを発見した古代インド人が使っていた数学とは?

・ギリシャだけに「証明」という手法が生まれた背景を考える。

・各地で発展していた数学は、なぜ西洋数学に集約されたのだろうか。

「数学史は、単に一つの直線的時系列なのではなく、幾重にも重なり絡み合った古代からの文明史なのであり、人類のグローバルヒストリーなのであり、スリルとサスペンスに満ち溢れた興亡史である」(「はじめに」より)

人類の文明史において時代や地域別に「数学」がどのように発展してきたか、そして各地で発展した「数学」が現代の西洋数学に統合されていく興亡史をまとめた本。

数学は普遍性を持つ学問だが、歴史的には世界各地で様々な数学が発展してきた。

例えば世界最古とされるメソポタミア文明では「プリンプトン322」と呼ばれる粘土版文献が発見されており、「ピタゴラスの三つ組」と呼ばれる直角三角形の辺の長さの整数比が記述されている。この中には (12709, 13500, 18541) という一見すると現代人でも発見に苦労しそうな組み合わせがある。これは偶然に見つかるような組み合わせではないから、効率的に計算するための高度で系統だった数学が存在していたと想定できる。

他にも古代インドでは10進数の位取り記数法や 0 の発見、古代エジプトでは測地のための系統的な掛け算や割り算、古代中国では分数の計算や連立高次方程式の解法のように各地で特徴的な数学が発展した。一方で、共通点として三平方の定理や円周率などは各地で関心が高く同じような証明がされていた。

古代ギリシャやヘレニズム期のアレキサンドリアでは自明な出発点から数学の定理を証明する抽象的な論証数学が発展した。ギリシャやヘレニズムの流れを受け継いだ中世アラビアでは機械的な式変形を積み重ねる発見的な数学が盛んになり、現代の代数学に繋がっている。古代ギリシャ数学では定理を証明するにはその定理を経験的に知っている必要があったが、中世アラビアの代数学では機械的な操作で定理を発見できるようになった。

ヨーロッパは古代ギリシャの伝統がキリスト教やローマ帝国によって一度破壊されたものの、12世紀以降は交易や征服を通じてアラビアなど東方の学術や文化が輸入され、商業や印刷・航海技術の発達、宣教活動などを通じて各地の数学を取り込んで統合することで現代に続く高度な数学に進化していった。

日本でも和算と呼ばれる数学があり、18世紀前半には逆三角関数のべき級数展開を応用して円周率を小数点以下49桁まで(!)正しく計算できていた。

本書では上記のように様々な数学の概念が紹介されているものの、高校までの数学しかやっていない自分でも特に問題なく読めた。私が本書で特に面白いと感じたのは、西洋数学が覇権を握った後の19世紀に訪れたパラダイム・シフトだ。長くなるが以下に引用する。

ガロア理論は、抽象代数学への移行や数学の現代化への第一歩だったが、これを端緒とする数学の十九世紀革命は、一言でいうと「量の科学」から「概念の科学」へのシフトである。そこでは、概念の実体化としての集合が、次第に中心的な対象となってきた。すなわち、(例えば、「対称性」といった抽象的な)数学的概念を、集合の言葉で実体的に記述し、その<構造>を調べるというやり方である。

(中略)

このような強力なパラダイム・シフトの背景には、もちろん、非ユークリッド幾何学の発見がある。

(中略)

しかし、ここでいう「発見」とは、定理や命題のように、数学的に書けて証明できる種類のものではない。「平行線公理の否定から出発しても矛盾のない一貫した幾何学を構築できる」といっても、「理論体系の存在」を論証したとか、「無矛盾性」を証明したわけではない。

(中略)

新しいパラダイムを創造するということは、本来、こういうことだ。それは既存のフレームでは計り難いからこそ、新しいのである。非ユークリッド幾何学の「正しさ」が、何らかの形で既存の数学の言葉で論証されるようなことは(少なくとも、その発見当初は)なかったし、そういう問題でないのである。

しかし、このような「中途半端な」状況は、そもそもユークリッド幾何学の場合も同じだったはずだ。ユークリッド幾何学は、誰にとっても「正しい」幾何学だと思われていたわけだが、その理由は理論の無矛盾性が証明されていたからではない。「ユークリッド幾何学は正しい幾何学だ」という数学的内容のことが、何らかの形で論証されたからではない。そうではなくて、ユークリッド幾何学は、我々の視覚的直観に鮮やかに訴える「ユークリッド平面」というわかりやすいモデルがあったからであり、視覚的・外界的現実の経験によく整合しているからである。

つまりこういうことだ。何らかの形で直観的に「見える」モデルの存在が、理論の「正しさ」や現実感を増強する。ユークリッド幾何学こそが唯一の「宇宙の幾何学」だ、という信念は、数学的に厳密な裏付けがあったわけではない。究極まで遡れば、その判断の源泉は人間の直観である。非ユークリッド幾何学の発見は数学界に論争を巻き起こしたが、それは非ユークリッド幾何学が、ユークリッド幾何学ほどの「直観的安心感」を(少なくとも当初は)人々に与えることができなかったからに過ぎない。

だから、非ユークリッド幾何学の場合も、直観的モデルが作られてしまえば、その信憑性は増すだろう。しかし、モデルの構築のためには、「空間とは何らかの建築資材から構築するべきものである」という、空間自体の考え方・存在様式に対する意識の変革が必要であった。つまり、最初から「宇宙の幾何学」として「そこにある」ものではなく、人間が仮説的に「作り出す」ものだ、という考え方の大転回である。そして、その建築資材として「集合」が用いられるようになった。空間をはじめとした、ありとあらゆる数学の対象は、集合を建築資材として作られるものだ、という「建築学的数学」の発想が、こうして生まれることになる。

ここで語られている非ユークリッド幾何学ではユークリッド原論の第五公準「直線が二直線と交わるとき、同じ側の内角の和が二直角より小なら、この二直線はその側の点で交わること」を否定し「直線 l 上にない任意の点 P を通る直線 l の平行線は二本以上存在する」ことを公準(議論を進める上での約束事や前もって仮定しておくこと)とする。

例えば一般相対性理論の数学的基礎となったリーマン幾何学など。スマホやカーナビの GPS が精確に場所を特定するためには一般相対論効果(時空の歪みによる時間のズレ)も含めて計算する必要があるが、これは時空の構造が日常生活にも影響する実在の現象であることを物語っている。ユークリッド幾何学はそれが提示する公準の下で成立する体系であり(現実世界を近似的に表しているものの)宇宙を支える唯一絶対の真実を表す体系ではない。

このように「数学」という学問の普遍性はそれが基盤とする体系のもとで成立し、その基盤が異なれば異なる定理が導かれるという意味での局所性がある。数学の歴史を読むことはまさにこのような「数学という学問体系に対する視点」を得ることにつながるし、(仮に数学に興味がなくとも)数学という学問体系が人類の文明にどう貢献してきたかを学ぶことができるという素晴らしい本だった。

最近「群論への第一歩」という本を読んで(感想)個人的に数学への関心が高まっていたが「集合」という概念が(大変失礼ながら素人の目から見ると当たり前のことを難しく言ってる部分が多いように見えるのに)なぜ現代数学を支える基盤として重要視されているのかという素朴な疑問が歴史の視点から解決できて楽しかった。

現代でも日常的に使うような(高校くらいまでの)数学がいかに古くから使われていたか、それがどのように現代の高度な数学に繋がっているかを知りたい人にもお勧めできる。

@llll
経理 → プログラマー