短歌を詠むということ

Maj
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わたしにとっての短歌、それは制約の中の自由でこぼれ落ちそうな愛を詠むということ

先日詠んだ一首もそうなのだが、わたしの短歌のたねは“いとおしい”という感情からくるものがほとんどだ 歌人・木下龍也さんの詠んだ『詩はすべて「さみしい」という4文字のバリエーションに過ぎない、けれど』にもあるように詩歌的スタンダードは“さみしい” “かなしい”からくるものである ズキッと刺さるような歌も、言語化できなかったかなしみやこころに空いた穴にスッと入ってくるような歌も強く惹かれるものが沢山ある けれどいざ詠もうとすると自分の中から溢れてしまいそうな愛が起因した歌になる それが何故なのか、この秋に短歌教室を受講したり歌人の方のトークイベントにいくつか参加したりして、より一層考えるようになった

いま自分がとても満たされていてしあわせだからなのかというと正直そうでもない 充分すぎるくらい人間関係と環境に恵まれていてしあわせなのは確かなのだが、3年前に診断のついた病気により急ブレーキがかかり、思ったように生活をすることがままならず、所謂普通の人生からドロップアウトした時から諦めたものが沢山ある そもそも短歌の世界に触れ、自分でも詠んでみたいと思うようになったのはこういった経験があるからだ

考えて、考えて、辿り着いたのは、わたしにとって“愛”という感情が1番大きなウエイトを占めているから自ずと出てきやすいテーマなのではないかということだ わたしは昔からすきなもの、すきなことが多い 新卒で入った会社の同期に嫌いなものあるの?と聞かれたほど、気が付くと、うれしい!すき!だいすき!という言葉をよく使っている かなしいもさみしいも確実に自分の中にあるのだが、込み上げてくる感情の中で苦しくなるほど1番強いのはやっぱり“いとおしい”なのだ それは決して大層なものではなく日常のほんの些細なものである そしてその愛は突き詰めるととても深いかなしみを内包しているのだと思う 古典文学で出てくる“愛(かな)しい”に近い感覚なのかもしれない

ここまでいまのわたしにとっての短歌について綴ってきたが、これも3ヶ月後、1年後、10年後には変わっているのだと思う それでも変わらずに、短歌を詠むことをひとつの居場所として、永く続けていけたらいい

@maj
宛先のない手紙のような、深夜のラジオのような @jamawosuruneko